昭和10年(1935年)に梅田・難波間に地下鉄が、その2年後に御堂筋が開通したことによって、難波は急速に発展し、難波や道頓堀、心斎橋にかけての繁華街一帯を「ミナミ」と呼ばれ、大阪有数のにぎわいを誇っています。
「ミナミ」という呼称は、江戸時代初期からあったようで、当初は島之内界隈のみであったものが、江戸中期に道頓堀周辺が含まれ、大正期には千日前、昭和になって難波周辺が発達しました。
江戸中期に道頓堀が出来、その道頓堀川の両岸に芝居小屋とか遊所が出来、この一帯は、これ以降上方芸能を中心とした歓楽地として多くの人を集めるようになりました。
道頓堀にかかる橋 戎橋から。 ナンバの新名所 なんばパークス
今宮戎に通じる橋でこの名前が。 かってここに難波球場がありました。
道頓堀の歴史は、安井道頓が秀吉から下賜された土地の開発のために、堀を造ったことから始まります。
その道頓の死亡し、後を継いだ従弟の安井道卜(どうぼく)らが、元和元年(1615年)に道頓堀を完成させました。
道卜は、さらにここ周辺に市街地を建設し、芝居小屋や遊所を誘致し、最盛期には、歌舞伎が六座、浄瑠璃が五座、その他、小屋などが十数座がひしめくほどの、芸能街に成長しました。
道頓堀の北岸には宗右衛門町、南岸には九郎右衛門町の花街などを形成してゆきました。
この「宗右衛門町」は、道頓堀の開削に功績のあった山口屋宗右衛門の名に由来します。
「そうえもんちょう」が本来の呼称なのですが。大阪人は「そえもんちょう」と呼んでいます。
ミナミの象徴的であった新歌舞伎座 法善寺横丁にある水掛不動さん
今は、取り壊しを待つばかりに。 かって千日念仏を行ったので、ここを
千日前と呼ばれるようになりました。
心斎橋は、この橋をかけた岡田心斎から、この名がつけられたそうです。
ちなみに、道頓堀五座と呼ばれた浪花座、中座、角座、朝日座、弁天座はすべて姿が消し、芸能の街ではなくなったのですが、その代りに、「食い倒れ」という名前のとおり、おびただしい飲食店やド派手な看板が密集し、大阪の食道楽の名前と活力を感じさせる街として、今でもあり続けています。