以前に、最近の大阪駅周辺、梅田の変貌を書いてきました。
では、それ以前の大阪の変貌は、どうなのでしょうか?
大阪の中心部は、一応、府庁のあるところなのでしょうが、その周辺には、難波宮や大阪城があります。
古代(飛鳥・奈良時代)には難波宮が、中世には大阪城が、そして現在は大阪府庁が徒歩圏内の至近距離に存在しており、それぞれ時代がはるかに離れているにも拘わらず、こんなに近くに存在するのは、偶然なのでしょうか?
近畿での都の変遷 難波宮跡近辺の施設
まず、地形が最適であったことが挙げられます。
この地、上町台地(北は大阪城あたりから南は住吉大社くらいまで)が半島のように南から伸びており、現在の東大阪あたりは大きな入江のようになっていたそうです。
地理的に言って、台地の広がる良港として発達していったに違いありません。
つまり、難波宮跡があるあたりは、その当時は海のすぐそばにあったと推察されます。
今の大阪駅周辺の梅田とは”埋め田”からと言われており、その南側一帯は海であったと考えられます。
難波宮跡公園 大極殿 難波宮跡公園にある碑
湿地の中の高台の施設は、治水が不十分な当時としては、最適なのです。
又、18世紀末、家康の江戸入りと同時に江戸城を建てた場所も、水害の恐れが少ない湿地の中の小高い台地と概ね同じ立地条件です。
水害の恐れのない高地ということです。
そして、この場所が最適の要件の決定的なのが、奈良や京都に近く、瀬戸内を経由して大陸とを結ぶ海運の便の良さに加えて、淀川河口を利用しての港が出来ることです。