江戸時代の前半は、国土の開発時期だった。
水田面積は、平安時代から室町時代を通じて約88万haであったものが、16世紀の中ごろから増え始め、17世紀初頭には200万haに増加し、江戸時代の安定期のもと、新田開発は加速され、18世紀には300万haに達しました。
現在の作付面積は240万haですので、日本国土の開発は、ほぼこの時期に完成していたことになります。
土地の生産性も高く、19世紀のヨーロッパでは、一人の人間を養うのに1.5haもの土地が必要だったが、江戸時代では15人もの人間が養うことが出来たそうです。
このように生産性の向上は、人口の増加も生み、16世紀に1000万人程度だった人口が18世紀初頭には3000万人に達しています。
となれば、農民の生活も豊かなはずなのですが・・・・。
江戸末期の水田風景
住まいにしても、間取りや部屋の広さに関していえば、現在と比較しても遜色はないようで、世界的にみても、同時期のアメリカの開拓民の生活は丸太小屋一部屋だったようで、イギリスでも19世紀になってやっと労働者階級の多くが4部屋に住むことができたそうです。
しかし、一般的に江戸時代の農民は、貧窮しており、お米などは、盆、正月でも食べられなかったのです。
幕府や藩主は農民たちが生活に必要な1年分の食糧と来年の植え付けに必要な種籾の量を引いて納めさせるというのが基本的な考えで「四公六民」とか「五公五民」とか言われていました。
その1年分の食糧のうち、米は換金し、米以外の麦やヒエなどを食べていたようです。
そこで、もっと農民を困らせたのが、年貢の徴収法なのです。
毎年、収穫量を見てその量を決める検見法ではなく、定免法という方法で年貢を徴収していました。
定免法とは、過去5年間、10年間という長期にわたっての収穫量の平均から年貢率を決められるものです。
これにより、幕府や藩主の収入は安定するのですが、豊作や凶作にかかわらず、決まった年貢を納めなくてはならず、これが、農民を困窮させた原因なのです。
その上、年貢を確実に徴収するために、五人組制度を作って支配し、反乱や犯罪を防ぐだけではなく、農作業や年貢の納入をも共同で行わせ、連帯責任を負わせたのです。
これも、悪いことばかりではなかったようです。
お互いが監視し合うという悪い面もあったのですが、治安維持の効果もあり、相互扶助精神が養われ、祭りや行事の娯楽面をも共有することが出来たのです。