徒然なるまま”僕の趣味と遊ぶ”

タイガース、水彩画、鉄道などの、僕の気ままな”独り言”

今日は「七五三」の日です

2009年11月15日 12時23分52秒 | 今日は、何の日

今日は、「七五三」詣りの日です。
が、最近は、この日にお参りするのは少なくなってきて、写真撮影などを二,三か月も前にスタジオで撮影して済ませるようになってきている人も多いようです。
数え年で、男の子は3歳と5歳、女の子は3歳と7歳に、成長を祝って神社に参詣する行事です。

この日、11月15日になったのは、江戸時代、徳川綱吉の子徳松の祝いがこの日に行われたからと言われています。
一般的に盛んになったのは、明治になってからだそうです。
もっと古くからあったような気がしたのですが・・・・

  「千歳あめ」は、長寿の願いを込めています。

この3,5,7という数字は、中国では奇数(陽の数)とした中国の思想に基づいています。 7,5,3と逆さまに呼ぶのは、色々な説があるのですが、祝膳の1の膳には7菜、2の膳には、5菜が、3の膳には、3菜が付いたことからと言われているのが、一般的だそうです。

この日に因んで、色々な記念日が制定されています。
きものの日・・・・和服を着る機会が増えるということから。
昆布の日・・・・子供達に、昆布を食べて丈夫に育ってほしいということから。

他に「かまぼこの日」がありますが、平安時代の古文書に1115年の祝宴の膳にかまぼこが出されている記述があり、1115年に因んで、11月15日としたと言うことです。

  紅葉の季節になりました。 昨年は、もみじを訪ねて京都、高台寺・永観堂や有馬、そして、上の絵は、「郡上八幡の紅葉」です。 F6号

この日が、日本の政治に大きな変革が起こった日としても忘れてならない日となっています。
つまり、1955年(昭和30年)11月15日に保守合同が生まれた日です。
自由党と日本民主党が合併して自由民主党が産まれました。
その年の前月には、右派社会党と左派社会党も合併して日本社会党が誕生しており、「55年体制」が出来ました。
これで、アメリカやイギリスと同様に二大政党の時代に入るかと思われたのですが・・・
今年になってやっと、二大政党の政権交代が出来たのですが、これも何時まで根付くのか、政治的に三流と言われている日本として、これからが正念場となることでしょう。


江戸時代の生活 ⑦ -食事②-

2009年11月13日 11時09分18秒 | 江戸時代とは・・・・・

江戸時代の食事は、初期が一日2食だったものが、中期以降は一日3食が一般的になったのですが、献立の内容は、一汁一菜で、おかずが乏しくビタミンB1不足によって「脚気」に罹る人が多く「江戸患い」とも言われていたようです。

おかずは一品だけでしたが、江戸だけではなく、山奥はともかく、地方でも行商人が旬の食材

を新鮮なうちに売りにくるので、現在の野菜や魚よりもおいしいものが食べられたのです

仏教の影響で哺乳類は、あまり食べなかったのですが、魚はよく食べました。
海や川で取れて食べられるものなら、魚はもちろん、タコ、ナマコ、昆布、海苔などを片っ端から食べていました。
お陰で、それらの加工品の技術が発達して、現在に引き継がれています。
江戸でも江戸湾内が豊かな海のお陰で、今のように養殖しなくとも良かったのです。

一時期、日本の食生活は、欧米に比べ貧弱と言って、肉類を好んで食べるようになっり、野菜を食べない傾向にあったのですが、最近は、体のためには、肉類より野菜を多く取るようになってきました。
栄養学的には、昔の質素な食べ物のほうが体に良いのでしょうが、体力から考えると、バランスよく適量な質、量が必要なのでしょう。

  赤穂の塩田風景

食生活で切っても切りはずせないのが、です。
昔から「米塩の資」と言われ、米と塩を買うための資金で、それが生活全体の意味になるほど、江戸時代の人にとっては、米と塩は貴重品でした。

現在では、塩が不足して健康を損なうよりも、取り過ぎで病気になります。
現在の多くは、岩塩から取れる輸入品ですが、当時は塩田での製法のため、時間も費用もかかり、高価で貴重品なのです。
江戸時代は、幕府が地元の産業として、奨励してきました。
そのため、山間部はともかく、海に面した藩では、その製法や販路などでトラブルが絶えなかったようです。
余談ですが、あの忠臣蔵の刃傷の原因の一つが塩のトラブルだったとも言われています。


江戸時代の生活 ⑥ -食事①-

2009年11月11日 11時19分47秒 | 江戸時代とは・・・・・

先日、農林水産省が、平成20年の食料自給率(概算)を発表しました。
それによると日本の食料自給率は、41%だそうです。(カロリーペース)
言うまでもなく、江戸時代の食料自給率は100%です。

では、この時代の食事は、一体どのようなものだったのでしょうか?
江戸時代の食事は、江戸前期は、朝夕二回(朝が午前8時頃なのですが、夕食は午後2時ごろから5時頃まで、説がまちまちです)で、「朝夕」という言葉自体が食事を表していました。

  江戸末期、庶民の食事風景

1日三食が一般的になったのは、江戸中期になってからと言われています。
赤穂浪士が討ち入り後、各大名家にお預けになった時、各大名家の記録に、朝、夕、夜食の3度出されていることが、記録に載っています。

つまり、「朝夕」に「夜食」を加えられ、それがやがて、朝、昼、晩の三食になったのです。
当時の江戸の庶民は、一般的に朝がご飯と味噌汁、昼は、朝の残り物で済ませ、夜がご飯、味噌汁と野菜の煮物か焼き魚などのおかずが一品程度だったと思われるそうです

大名家(柳沢家)の記録では、朝は1汁3菜、昼は1汁5菜、夜は1汁3菜と記録に載っています。 やはり、大名家と庶民とは、大きな違いがあったようですが、普通の武士階級は、一般庶民とあまり変わらなかったようです。

今から思えば、当時、白米は、贅沢だったように思われているのですが、江戸の町においては米は主食として庶民の間でも普及していました。
ただし、地方(田舎)では、それほど米が食べられたということは、ないようです。
地方から江戸に出てくる人の中には、白米が食べれる生活への憧れを抱いて出てくるものも少なくなかったようです。

「三白」と言われる代表的な食材がありました。
米、大根、豆腐で、この三食品は、一日の食事にかなりの頻度で登場しています。


今日11月10日は「いいトイレ」の日

2009年11月10日 10時34分51秒 | 今日は、何の日

11月10日は、語呂合わせで「いいトイレ」の日だそうです。
日本トイレ協会(こんな協会もあったのですね)が1986年に制定しました。

トイレの歴史も、世相が現れ、中々面白いものです。
そもそも、トイレの歴史は、人間が集団で定住生活を始めたころからあったと考えられているようです。
その時分、人間が集団生活を始めた場所は、水が豊富で、近くに川があり、川の上に板を設けてそこで用をたしていたようです。
これが「かわや(厠)」の始まりです。

         
      平安時代の樋箱     最新のフルオート 近くに立てばフタが開きます

外敵から守るため、生活圏に堀を巡らすようになると、その堀(濠)が厠を兼ねるようになり、平安時代になると、貴族は、自分の屋敷に川を引き込み、その流れに厠を設置していました。
一般の人は、相変わらず、近くの川や山で用をたしていたようです。

ヨーロッパでは、ローマ時代は、立派な下水道を持っていたのですが、その後中世の都市では、「おまる」のようなものに便をして、外に捨てていましたので、道端は不潔極まりないもので、それを避けるために発達したのが、マントやハイヒールで、臭いを消すための香水も出来てきました。
ヨーロッパで都会で下水道が整備されてくるのは、19世紀に入ってからだそうです。

都会を離れた田舎では、特に農業文化圏では、肥料として利用するようになって、中世以降の代表的は処理方法でした。

その処理方法を、機能的にしていったのが、江戸時代の都市部で、近隣の農家が、畑で取れた農作物を売りに行った帰りに肥料として買って帰り、長屋の大家達の収入源となったそうです。

戦後、寄生虫の問題から化学肥料を使うようになり、下水道の発達が促進されてきました。 水洗トイレの普及までは、その「廃棄物」の回収や処理には、随分と難儀し、行政の大きな役割となっていました。

最近は、有機栽培した野菜が見直され、改めて処理方法をも見直されるように言われていますが、問題点も多く、人類の永遠のテーマとなっているようです。

   今日の絵は、”竹林” F20号
   
京都、高台寺の境内にある竹林を描きました

水洗トイレが発達するにつれ、便器も大きく変化しているのですが、これは日本独特で、他の国では、旧態然とした便器が多いようです。
以前、江戸時代の生活で述べたのですが、これには、日本人独特の清潔感があります。
最近では、エコや災害時にも使える水のいらない便器も開発されているようですが、この発想や技術も日本独特のようで、それが一般化するのもそう遠くないのではないでしょうか?


江戸時代の生活 ⑤ -農民と年貢ー

2009年11月05日 13時51分03秒 | 江戸時代とは・・・・・

江戸時代の前半は、国土の開発時期だった。
水田面積は、平安時代から室町時代を通じて約88万haであったものが、16世紀の中ごろから増え始め、17世紀初頭には200万haに増加し、江戸時代の安定期のもと、新田開発は加速され、18世紀には300万haに達しました。

現在の作付面積は240万haですので、日本国土の開発は、ほぼこの時期に完成していたことになります
土地の生産性も高く、19世紀のヨーロッパでは、一人の人間を養うのに1.5haもの土地が必要だったが、江戸時代では15人もの人間が養うことが出来たそうです。

このように生産性の向上は、人口の増加も生み、16世紀に1000万人程度だった人口が18世紀初頭には3000万人に達しています。
となれば、農民の生活も豊かなはずなのですが・・・・。

  江戸末期の水田風景

住まいにしても、間取りや部屋の広さに関していえば、現在と比較しても遜色はないようで、世界的にみても、同時期のアメリカの開拓民の生活は丸太小屋一部屋だったようで、イギリスでも19世紀になってやっと労働者階級の多くが4部屋に住むことができたそうです。

しかし、一般的に江戸時代の農民は、貧窮しており、お米などは、盆、正月でも食べられなかったのです。
幕府や藩主は農民たちが生活に必要な1年分の食糧と来年の植え付けに必要な種籾の量を引いて納めさせるというのが基本的な考えで「四公六民」とか「五公五民」とか言われていました。
その1年分の食糧のうち、米は換金し、米以外の麦やヒエなどを食べていたようです。

そこで、もっと農民を困らせたのが、年貢の徴収法なのです。
毎年、収穫量を見てその量を決める検見法ではなく、定免法という方法で年貢を徴収していました。
定免法とは、過去5年間、10年間という長期にわたっての収穫量の平均から年貢率を決められるものです。
これにより、幕府や藩主の収入は安定するのですが、豊作や凶作にかかわらず、決まった年貢を納めなくてはならず、これが、農民を困窮させた原因なのです。

その上、年貢を確実に徴収するために、五人組制度を作って支配し、反乱や犯罪を防ぐだけではなく、農作業や年貢の納入をも共同で行わせ、連帯責任を負わせたのです。 

これも、悪いことばかりではなかったようです。
お互いが監視し合うという悪い面もあったのですが、治安維持の効果もあり、相互扶助精神が養われ、祭りや行事の娯楽面をも共有することが出来たのです。


江戸時代の生活 ④ -地上の水道ー

2009年11月03日 13時55分04秒 | 江戸時代とは・・・・・

前回に述べましたように、江戸の町は、人工的に井戸を作り、下水路を設け、江戸の町の約60%は、これらの恩恵に与ったようですが、それ以外の人々はどうしていたのでしょうか?

藤沢周平の小説「蝉しぐれ」の冒頭の一節に、朝、寝起きに下級武士が長屋の裏口のすぐ前を流れる小川の水を飲み、顔を洗うシーンがあります。
(映画にもなったので、ご存じの方も多いことでしょう。僕も見ましたので、内容については、当ブログ2005年10月9日付けで)

  映画「蝉しぐれ」の一場面

そのような小川は、本流から幾本も街に引き、その引き込み水は、江戸時代に農村・都会を問わず、各地にあったようです。

洗濯などはそこから柵をきって溜め水にして行い、汚れた水は木や野菜を植えた畑に与えていました。
地上を流れる水道といってもいいのではないのでしょうか?

このような事が出来るのは、日本の河川が清浄だったから出来たことです。
つまり、日本列島の急峻な山岳から流れる川は、たいがい急流で、平野部でもかなりの速度で流れています。
川の水が美味しくて清潔な理由はここにあります。
この地形は日本独特で、世界的には、少ないのです。
多くの外国の河は、たいがい上流と下流の高低差が少なく、流れが遅く、淀んでいるようなのが多いのです。
日本にも例外があり、琵琶湖から流れる瀬田川は、淀川に流れるとほとんど動かず、日本でも希な例です。

話は違うのですが、現在、日本で普及している水洗トイレには、多くの機能をもっていますが、これが案外、諸外国には、不評なのです。
日本で旅行しても、ほとんどのホテルや旅館のトイレは綺麗で、ウォシュレットが完備されています。 ホテルだけではなく、最近は、観光地でも綺麗になってきています。
が、海外旅行でのホテルのトイレは、ただ水洗設備のみが付いているだけもので、それ以上なものはなく、単純な造りでした。
観光地でも、有料トイレが多くありましたが、特別綺麗とも、余計なものもなく、用がたせばよいと実に簡単なものが多かったようです。

清潔というものに対する感覚の違いと思われます。
しかし、最近の日本の川は、汚し続けてきました。
糞尿は有機物、適切な処置さえすれば、自然に与えるダメージは割合少ないものなのです。
一番、川を汚すのは、残り油、合成洗剤、工場汚染物で、そのまま汚水と流してしまう方が、自然にも人類にも決定的な悪影響を与えるのです。

清潔という性格だけが残って、源である河川を汚して、水を大切にしない現在の日本人は、江戸人からすれば、異郷の人間のように思っていることでしょう。