極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

ホープフル・モンスター

2012年07月27日 | 時事書評

 

 

 

 

【続・たまには熟っくりと本を読もう】

 

   茂木-科学技術はニュートラルではない

   なんとなくわかるような気がします。科学技術が典型的な政治権力だったら、その使用
   法に対してわれわれは非常に敏感になるにもかかわらず、科学技術が一見ニュートラ
   なものに見えるから、何の反省もなく、できることは全部科学技術でやってしまえとい

   うかたちでやっています。しかし、じつはその裏に政治性が隠れているかもしれない。
   そ
うなったら科学技術が昔の専制君主みたいなものになってしまうというのはきわめて
   重
要なご指摘だと思います。というのも、科学を抑制的に使おうという議論はあります
   が、
科学は権力に近いからよく考えて使えという議論はあまり耳にしたことがないから
   です
ここは考えどころだと思います。

   吉本-科学的な装置は権力化する

   科学の発達はちょっと止まりようがないからどこまでいくか、ぼくなんか、もうキリが
   なくいきそうな気がします。そうだすると、古典的な知識では片づかない。
   ぼくはまた社会的なことと結びつけて考えるわけですが、昔は資本が剰余価値を生み出
   すから、資本家はそれを自分の利益として、働く人には部分的にしか与えなかった。そ
   れ
がもう少し発達すると、今度は国家が資本を独占して国家独占の資本主義になってい
   く。
こういう言い方で済んできたけれども、いまはそういう考え方では済まないぞとい
   う感じ
がします。どういうことかといえば、何か権力的なものが介入してくると怪しげ
   な方向に
いってしまうということではなく、文化とか文明の発達に役立つような装置が
   あれば、そ
れをだれがどう使おうと、それ自体が権力なんだというふうに変わってきて
   いると思うの
です。そう考えたほうがいいのではないか。いや、そういうことを考えに
   入れなかったら
ダメじやないかと思います。
   ただし、権力といっても、それは昔のような強権という意味ではなくて、要するに人が
   精神的にでも肉体的にでも外界に働きかければ外界が価値化してしまうから、人文系の
   文
化であっても科学技術と結びつく場面があれば、必ずそれは権力化する。そのもの自
   体が
権力になっていくということです。それにしろ、それはもう善悪の問題、倫理の問
   題ではなく、文化自体か権力だとか、文化が科学技術と結びつくかぎり権力化すると考
   えるべきではないでしょうか。ここのところは用心のしどころです。
    だから、資本主義の科学技術だけかおかしいのかというと、それはそうではなくて、
   資本主義であれ社会主義であれ、科学技術の使い方自体が問題になっているのだという
   べきでしょう。いまのような使い方をしていると、自分では獲得したのか知識そのもの
   であるかのように思っていても、じつはそうではなくて権力だったというふうになって
   いくはずです。
        
   茂木-ますます強固になる学校という制度

   ぼくは子供のころから、自分はこの集団になんの過不足もなく収まると感じたことが一
   度もありません。どんな集団にも、完全に同化しきれないで、いつもはみ出すものを感
   じてきました。それで考え込んでしまうたこともありますが、いや、自分は「ホープフ
   ル・モンスター」(希望に満ちた怪物)なんだと思うようになりてからずいふん気が楽
   になりました,というより、自分かやっているいろいろなことが説明できるようになり
   たといったほうが正確です。「脳科学者」という肩書きがありなから、なぜエツセイを
   書いたり評論を書いたり小説を書いたりするのか。テレビに出たり、キャスターを務め
   たりするのか。突然変異のホープフル・モンスターなんだから仕方ないじやないかと、
   いまはそう考えるよにしています。
    そういうホープフル・モンスターですから、学校という制度にはどうにも収まりきれ
   ないものを感じていました。ぼくだけでなく、いまはそう感じる子供は増えているはず
   だと思いますか、それくらい学校という制度はますます強固になりてきています。もは
   や大学で何を教えたらいいのかわからないほど教育システムは崩壊しているにもかかわ
   らず、学校は強固になりている。「お受験」といいまして、小学校ぐらいからとにかく
   いい学校に入りたいという親争もはじまっています。
    たしかに、その時々の社会の正解の外に出ることには勇気がいります。社会のレール
   の外に出ても成功するかどうかは保証されていないわけですから、多くの人か優等生で
   いようと努力するし、親も子供たちをそのように教育しようとする。こうした傾向が非
   常に強くなっているわけですが、このような現象はどう見ていらっしやいますか。

   吉本-牢固な価値観を突き崩すふたつの道

   「いい学校」と「そうではない学校」という区別があるように、なにか価値観のような
   ものが知識についても教育についても絡んでいるのだと思います。価値観というのは、
   物事には上とか下とか中間というふうな階層分けがあるという考え方です。どうもぼく
   らはそうした考えから抜けられないところがあって、それが一般社会の趨勢になってい
   るといえそうです。それが学校の問題にもあらわれているのだと思います。
    そうだとしたら、そこから抜け出す道はふたつしかない。ひとつは、要するに上のほ
   うから変わる、あるいは変える道。もうひとつは下から変える道です。下から変えると
   いうのは、一般社会に流布している価値観を関節外ししてしまうことですが、ともかく
   現実には、下から変えたほうがいい問題と上から変えたほうがいい問題と、両方ありま
   すが、教育などは上から変えたほうが早いんじやないでしょうか。
    現場でいちぱん変わりやすいのは大学の先生です。東京大学でも京都大学でも、そう
   いうところの先生が変われば、受験生もj生懸命勉強していい学校へ行こうなんて思わ
   なくなるはずです。何をいいたいのかといえば、たとえば東京大学の先生は四年間なら
   四年間、スポーツの強い大学へ行って授業を引き受ける。逆に、スポーツの強い大学の
   先生は東京大学へ行って、ガリ勉相手でも何でも勉強を教える。そういうふうに、先生
   をシャッフルしてしまうわけです。そして、誰々先生の講義を受けたいというなら、そ
   の先生が現在教えている学校へ行って授業を受け、点数を取る。点を取れば、それが自
   分か籍を置く学校の単位になって卒業できるようにする。つまりA大学に入っても、自
   分の受けたい講義が東大にあるなら東大へ行き、翌日は日大に受けたい授業があるなら
   日大へ行く。そういうシステムにすれば、東大でも京大でも、わざわざガリ勉をして行
   く必要がなくなります。
    それに並行して価値観の上下関係もなくなっていく。ぽくはそんなことを考えて、学
   校とか大学は上から変えたほうがいいと思っているわけです。上が変われば、下はおの
   ずから変わります。
    そうでなければ、上下関係があるという価値観をやめにすることです。もっとも、そ
   れはぼくが□でいうだけで、ぼくにはできませんけど、そういう考え方は成り立つと思
   います(後略)。

   茂木-優等生はスケールが小さい

   ぽくが見ているかぎり、良いといわれているような学校に所属している人、あるいはそ
   こを卒業した人ほどケチですね。ケチというのは人間としてのスケールが小さいといっ
   たような意味ですが。

   吉本-変な価値観は振り捨てろ

 

   ぼくはかつて詩を書く仲間だった鮎川信夫から、「おまえ、官立大学出だろう」といわ
   れたことがあります。ぼくは別に東京大学とかなんとか、そういうユニバーシティじや
   なくて、おれの行った学校はインスティテュートだと答えました(東京工業大学は
   “Tokyo lnstitute of Technology”という)が、鮎川は首を左右に振って、「いや、
   すぐわかるぞ」というわけです。要するに、官立大学を出たやつはやっぱり一種の目に
   見えない価値観みたいなものがひとりでに身についているというんです。鮎川は早稲田
   にいた人ですから、「そういうのはすぐわかるんだ。おまえたちが仲間で話しているの
   を聞いていると、ふだんでも専門の話をしている。おれたちは、ふだんは専門の話とか
   学問の話はしたことがないんだ。遊ぶ話ばかりだ。だからすぐわかるんだ」と。そう指
   摘されて、ヘーっと思ったことがあります。ぼくらも、意識したところでは極力そうい
   う話はしないようにと、否定的に振る舞っているわけですけど、ふとした拍子にそうい
   うあらわれみたいなものが出てしまうんでしょうね。そこで、心のどこかに変な価値観
   のようなものがあるんだな、こりやいかん、と反省したものです。
   ガリ勉をしていい大学に入ったという学生さんもおそらく、いろいろな面でそういう価  
   情観が出てしまうのではないでしょうか。だから、専門分野のことを専門家同士で話し
   ているときはいいとしても、そうじやないときにはこむずかしい話はアホらしいからや
   めます、という態度がいいのだと思います。

                        第五章 古典的知識性は淘汰されたか

                                        『「すべてを引き受ける」という思想』                        
                             吉本隆明 茂木健一郎 著




疲れと、沈鬱な阪神の試合運びに気分が鬱々としていて、サッカーの試合観戦を切り上げは就眠する。
スペインに勝てないようなぁ~と、彼女にはなしながらいつしか眠り込んでしまい、気づいたときは
払暁の4時ごろ。 寝返り打ったりしていると彼女が息子達がスペインに勝ったといっていたよと話す。
へぇ~大したものだねといいつつ起床し下階し、早速ネット検索し確認する。不思議なことに、自分
までご機嫌になっているから面白い。これが負けていたならどうだろうと考え始めた。ひょっとして
これは老人性
鬱症だけでなく、情報通信技術による? が相乗影響しているのではないだろうかと思っ
てみた。今回で3回目の掲載となる『「すべてを引き受ける」という思想』との関連でいうと、「
然変異のホープフル・モンスター」じゃなくて「普通の老人性ホープフル・モンスター」の現代的
な社会文化現象かもねと腑に落としていたら、遅れて起きてきた彼女が新聞をみながら「プラチナバ
ンド
ってなんなの」と聴くので、彼女に返事しながらパソコンのスイッチを切った。                        

コメント
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