いろいろあったここ2日間だったが、その1つとしてスポーツジム(フィットネットクラブ)の利
用率が悪く、これで20年間会員であり続けたが終止符を打ち退会することに。その動機付けは、
家庭用ルームランナーつまりレッドミルの高性能化が背景としてあり、さらに、サウナや入浴など
の水回り環境が適さないという理由(塩素系殺菌剤と白癬菌など)があった。これで、自宅でルー
ムランニング(ウォーキング)、ローイング主体のトレーニングに切り換える。ところでトレッド
ミル(treadmill)とは、屋内でランニングやウォーキングを行うための健康器具。ルームランナー、
ランニングマシン、ジョギングマシンなどとも呼ばれる。また、歩行用の低速のものはウォーキン
グマシンとも呼ばれる。これでほぼ毎日、トレーニングすることになる(2時間/日)。
【燃料電池自動車時代】
トヨタ自動車は、水素を燃料に走る“次世代のエコカー”、燃料電池車を今年度内に一般向けに市
販する方針を発表。自動車メーカー各社が燃料電池車の本格的な開発を始めたのは1990年代。20年
以上にわたる開発がようやく実を結ぶ。乗用車とは異なる特徴がありました。まず、車の後ろ側に
はマフラーがないが、燃料電池車というのは燃料の水素と空気中の酸素を反応させて電気を作り、
モーターで走る。排出するのは反応によって生まれる「水」だけで、エンジン車とは違って二酸化
炭素、つまり、排ガスは出さないためだ。車の前方のフロントグリルは、走行に使うバッテリーを
冷やすためだけでなく、電気を作るために空気を使いための取り込み口。従来の車よりも大きな設
計になっている。トヨタは今年度内に一般向けに販売し、価格は7百万円程度だというが、開発段
階では1台1億円以上と言われていたのに比べると価格は下がっている。水素供給のインフラ(水
素ステーション)のインフラが整えば、2百万円をきるようになるのは時間の問題だろう。トヨタ
以外にも、ホンダは来年、日産は3年後の2017年に燃料電池車の量産車を市場に投入する計画
だという。
そこで、最新の燃料電池技術(特許出願:2014.4.1~5.27)を検索調査してみたが(下図、本田技
研工業の新規考案の説明図をクリック)余りの出願数のため7件のみの俯瞰することになった。勿
論、詳細な評価はできておらず、したがって、この情報評価に数日必要とする。
【符号の説明】
10…燃料電池スタック 11…燃料電池 12…電解質膜・電極構造体 14、60…カソード側セパレータ
16…アノード側セパレータ 18a…酸化剤ガス入口連通孔 18ae1、18be1、20ae1、20be1…端部壁面
18aw、18bw、20aw、20bw…壁面 18b…酸化剤ガス出口連通孔 20a…燃料ガス入口連通孔 20b
…燃料ガス出口連通孔 22a…冷却媒体入口連通孔 22b…冷却媒体出口連通孔 24…固体高分子電解
質膜 26…カソード電極 28…アノード電極 30…酸化剤ガス流路 32a、36a、40a、62a…入口バッファ
部 32ae、32be、36ae、36be…頂点 32ar1、32ar2、32br1、32br2、36ar1、36ar2、36br1、36
br2、62ar1、62ar2、62br1、62br2…稜線 32b、36b、40b、62b…出口バッファ部 33a、37a…入
口連結流路 33ar、37ar…入口屈曲流路 33b、37b…出口連結流路 33br、37br…出口屈曲流路 34
…燃料ガス流路 38…冷却媒体流路
昨夜も掲載したが、再生可能エネルギーを太陽光発電で賄うとしてスペインの半分の面積が必要と
なるが、バイオマスディーゼル燃料の代替を考慮して、現状の地下化石燃料を代替できることにな
る。なお、自動車燃料代替としては、今回の発表の水素-燃料電池方式と充電-電動モータ方式の
3種類となるが、農地や道路、建造物のソーラ・シュアリングや海洋利用なども考慮に入れると、
ほぼ「オールソーラ・システム」に収斂でき、全景が見通せたことになる。万歳!デジタル革命!
^^;。
ハルキ・ワールドには、よく一角獣が登場する。この暗喩は、「私」の思念の世界を象徴している
という言われているが、単純にシンボリックな男性器ではないのか?そんなことを考えるがよくわ
からない。「女のいない男たちになるのはとても簡単なことだ。一人の女性を深く愛し、それから
彼女がどこかに去ってしまえばいいのだ」「女のいない男たちにとって、世界は広大で痛切な混合
であり、そっくりそのまま月の裏側なのだ」とそして結末の「女のいない男たちの一人として、僕
はそれを心から祈る。祈る以外に、僕にできることは何もないみたいだ。今のところ。たぶん」と
ストーリーは「エムの死を知らされたとき、僕は自分を世界で二番目に孤独な男だと感じることに
なる」との意味を、読み手にとっては、時間が多少なり立ってから、冷えている(クールだ)が、
ガスが抜けたソーダー水を飲んでいるような、体験したことのない感覚を味合うことになる。もう
少し深読みをしたいのだが、ともかくも一旦は読み終えることにした。
でもどうして彼はわざわざ僕のところに電話をかけてきたのだろう? 決して非難するわけ
ではなく、ただ純粋に、言うなれば根源的に、その疑問を僕は今でも持ち続けている。なぜ彼
は僕のことを知っていたのだろう? なぜ僕のことを気にかけたのだろう? 答えはおそらく
簡単だ。エムが僕のことを、僕の何かを、夫に語ったからだ。それしか考えられない。彼女が
僕のどんなことを彼に語ったのかは見当もつかない。過去の恋人として、(夫に向かってわざ
わざ)語るべきいったいどんな値打ちが、どんな意味合いがこの僕にあったのだろう? それ
は彼女の死に関係を持つような重大なことなのだろうか? 彼女の死に僕の存在がなんらかの
影を落としているのだろうか? ひょっとしたらエムは僕の性器のかたちが美しいことを夫に
教えたのかもしれない。彼女は昼下がりのベッドの上で、よく僕のペニスを観賞したものだ。
インドの王冠についていた伝説の宝玉を愛でるみたいに、大事そうに手のひらに載せて。「か
たちが素敵」と彼女は言った。それが本当なのかどうか、僕にはよくわからないけれど。
それか理由で、エムの夫は僕に電話をかけてきたのだろうか? 僕のペニスのかたちに敬意
を表するために、夜中の一時過ぎに。まさか。そんなことがあるわけはない。それに僕のペニ
スはどう見たってぱっとしない代物なのだ。よく言って普通だ。考えてみれば、エムの審美眼
には昔から首をひねらされることが多かった。彼女はなにしろほかの人とはずいぶん違う奇妙
なのかもしれない。音楽もなく、旗もなく、紙吹雪もなく。たぶん(僕はたぶんという言葉を
使いすぎている。たぶん)。
女のいない男たちになるのはとても簡単なことだ。一人の女性を深く愛し、それから彼女が
どこかに去ってしまえばいいのだ。ほとんどの場合(ご存じのように)、彼女を連れて行って
しまうのは奸智に長けた水夫たちだ。彼らは言葉巧みに女たちを誘い、マルセイユだか象牙海
岸だかに手早く連れ去る。それに対して僕らにはほとんどなすすべはない。あるいは水夫たち
と関わりなく、彼女たちは自分の命を絶つかもしれない。それについても、僕らにはほとんど
なすすべはない。水夫たちにさえなすすべはない。
どちらにせよ、あなたはそのようにして女のいない男たちになる。あっという間のことだ。
そしてひとたび女のいない男たちになってしまえば、その孤独の色はあなたの身体に深く染み
込んでいく。淡い色合いの絨毯にこぼれた赤ワインの染みのように。あなたがどれほど豊富に
家数学の専門知識を持ち合わせていたとしても、その染みを落とすのはおそろしく困難な作業
になる。時間と共に色は多少琵せるかもしれないが、その染みはおそらくあなたが息を引き取
るまで、そこにあくまで染みとして留まっているだろう。それは染みとしての資格を持ち、時
には染みとしての公的な発言権さえ持つだろう。あなたはその色の緩やかな移ろいと共に、そ
の多義的な輪郭と共に、生を送っていくしかない。
その世界では音の響き方が違う。喉の渇き方が追う。髭の伸び方も追う。スターバックスの
店員の応対も違う。クリフォード・ブラウンのソロも追うものに聞こえる。地下鉄のドアの閉
まり方も追う。表参道から青山一丁目まで歩く距離だって相当に追ってくる。たとえそのあと
で新たな女性に巡り会えたとしても、彼女がたとえどんなに素晴らしい女性であったとしても
(いや、素晴らしい女性であればあるほど)、あなたはその瞬間から既に彼女たちを失うことを
考え始めている。水夫たちの思わせぷりな影が、彼らの口にする外国語の響き(ギリシャ語?
エストニア語? タガログ語?)が、あなたを不安にさせる。世界中のエキゾティックな港の
名前があなたを怯えさせる。なぜならあなたは、女のいない男たちになるというのがどういう
ことなのかを、既に知ってしまっているからだ。あなたは淡い色合いのペルシャ絨毯であり、
孤独とは落ちることのないボルドー・ワインの染みなのだ。そのように孤独はフランスから運
ばれ、傷の痛みは中東からもたらされる。女のいない男たちにとって、世界は広大で痛切な混
合であり、そっくりそのまま月の裏側なのだ。
僕がエムとつきあっていたのはおおよそ二年だった。それほど長い期間ではない。でも重い
二年たった。たった二年、と言うこともできる。あるいは二年もの長きにわたって、と言うこ
ともできる。それはもちろん見方によって変わってくる。つきあっていたといっても、僕らが
会うのは月に二度か三度だった。彼女には彼女の事情があり、僕には僕の事情があった。そし
て残念ながら、僕らはそのときもう十四歳ではなかった。そんないろんな事情が、結局は僕ら
をだめにしていったのだ。彼女を離すまいと、どれだけ強く僕が抱きしめたところで。水夫の
濃密な暗い影が、メタファーの対った画鋲をばらまいていく。
僕がエムについて今でもいちばんよく覚えているのは、彼女が「エレベーター音楽」を愛し
ていたことだ。よくエレベーターの中で流れているような音楽――つまりパーシー・フェイス
だとか、マントヴァーニだとか、レイモンド・ルフェーブルだとか、フランク・チャックスフ
ィールドだとか、フランシス・レイだとか、101ストリングズだとか、ポール・モーリアだ
とか、ビリー・ヴォーンだとかその手の音楽だ。彼女はそういう(僕に言わせれば)無害な音
楽が宿命的に好きだった。流置きわまりない弦楽器群、心地よく浮かび上がる木管楽器、ミユ
ートをつけた金管楽器、心を優しく撫でるハープの響き。絶対に崩されることのないチャーミ
ングなメロディー、砂糖菓子のように口当たりの良いハーモニー、ほどよくエコーをきかせた
録音。
僕は一人で車を運転するときは、よくロックかブルーズを聴いた。『デレク・アンド・ドミ
ノズ』とか、オーティス・レディングとか、ドアーズとか。でもエムはそんなものは絶対にか
けさせなかった。いつも1ダースくらいのエレベーター音楽のカセットテープを紙袋に入れて
持参し、それを片端からかけた。僕らはあちこちをほとんどあてもなくドライブし、そのあい
だ彼女はフランシス・レイの『白い恋人たち』にあわせて静かに唇を動かしていた。淡く口紅
を塗った素敵な、セクシーな唇を。彼女はとにかく一万本くらいのエレベーター音楽のテープ
を持っていた。そして世界中の罪のない音楽についての膨大な知識を持っていた。「エレベー
ター音楽博物館」でも開けそうなくらい。
セックスをするときもそうだった。そこにはいつもエレベーター音楽が流れていた。僕は彼
女を抱きながら、いったい何度パーシー・フェイスの『夏の日の恋』を聴いたことだろう。こ
んなことを打ち明けるのは恥ずかしいが、今でも僕はその曲を聴くと、性的に昂揚する。息づ
かいが少し荒くなり、顔が火照る。パーシー・フェイスの『夏の日の恋」のイントロを聴きな
がら性的に昂揚する男なんて、世界中探してもたぶん僕くらいだろう。いや、彼女の夫だって
そうかもしれないな。そのスペースはとりあえず残しておこう。パーシー・フェイスの「夏の
日の恋」のイントロを聴きながら性的に昂揚する男なんて、世界中探してもたぷん(僕を入れ
て)二人くらいだろう。そう言い直そう。それでいい。
スペース。
「私がこういう音楽を好きなのはね」とあるときエムは言った。「要するにスペースの問題な
の」
「スペースの問題?」
「つまりね、こういう音楽を聴いていると、自分が何もない広々とした空間にいるような気が
するの。そこはほんとに広々としていて、仕切りというものがないの。壁もなく、天井もない。
そしてそこでは私は何も考えなくていい、何も言わなくていい、何もしなくていい。ただそこ
にいればいいの。ただ目を閉じて、美しいストリングズの響きに身を任せていればいい。頭痛
もなければ、冷え性もなければ、生理も排卵期もない。そこではすべてはただひたすら美しく、
安らかで、淀むことがない。それ以上のことは何ひとつ求められていない」
「天国にいるみたいに?」
「そう」とエムは言った。「天国ではきっとBGMにパーシー・フェイスの音楽が流れている
と思う。ねえ、もっと背中を撫でててくれる?」
「いいよ。もちろん」と僕は言った。
「あなたは背中を撫でるのがとてもじょうず」
僕とヘンリー・マンシーニは、彼女にわからないように顔を見合わせる。口許に微かな笑み
を浮かべて。
僕はもちろんエレベーター音楽をも失っている。一人で車を運転するたびにそう思う。信号
待ちのあいだに、知らないどこかの女の子が急にドアを開けて助手席に乗り込んできて、何も
言わず、僕の顔を見ることもなく、『白い恋人たち』の入ったカセットテープを、車のプレー
ヤーにむりやり差し込んでくれないものだろうかと思う。僕はそれを夢見てさえいる。しかし
もちろんそんなことは起こらない。だいいちカセットテープをかける機械なんてもう持ってい
ない。僕は今では車を運転するとき、IPodをUSBケーブルでつないで音楽を聴いている。
そしてもちろんそこには、フランシス・レイも101ストリングズも入っていない。ゴリラズ
とか、ブラック・アイド・ビーズとかが入っている。
一人の女性を失うというのは、そういうことなのだ。そしてあるときには、一人の女性を失
うというのは、すべての女性を失うことでもある。そのようにして僕らは女のいない男たちに
なる。僕らはまたパーシー・フェイスとフランシス・レイと101ストリングズを失うことに
なる。アンモナイトとシーラカンスを失うことになる。もちろん彼女のチャーミングな背中だ
って失われてしまっている。僕はヘンリー・マンシーニの指揮する『ムーン・リヴァー』を聴
きながら、そのソフトな三拍子にあわせて、エムの背中を手のひらでひたすら撫でたものだ。
僕のハックルベリー・フレンド。川の曲がりの向こうに待っているもの……。でもそんなもの
はみんなどこかに消えてしまった。あとに残されているのは古い消しゴムの片割れと、遠くに
聞こえる水夫たちの哀歌だけだ。そしてもちろん噴水のわきで、空に向かって孤独に角を突き
上げる一角獣。
エムか今、天国――あるいはそれに類する場所――にいて、『夏の日の恋』を聴いていると
いいと思う。その仕切りのない、広々とした音楽に優しく包まれているといいのだけれど。ジ
ェファーソン・エアプレインなんかが流れていないといい(神様はたぶんそこまで残酷ではな
かろう。僕はそう期待する)。そして「夏の日の恋」のヴァイオリン・ピッチカートを聴きな
がら、彼女がときどき僕のことを思い出してくれればなと思う。しかしそこまで多くは求めな
い。たとえ僕抜きであっても、エムがそこで永劫不朽のエレベーター音楽と共に、幸福に心安
らかに暮らしていることを祈る。
女のいない男たちの一人として、僕はそれを心から祈る。祈る以外に、僕にできることは何
もないみたいだ。今のところ。たぶん。
村上春樹 著 『女のいない男たち』(書き下ろし/文藝春秋)
この項了