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極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

和食化するフォッカチオ

2014年06月16日 | 創作料理

 



 

例の曾根崎小学校の合同同窓会への出席を有無の確認が取れずにいたK氏から、しばらく音信が途
絶えていたが、電話がかかってきた。電話の内容は結構ボーリュームがあったが、連絡がとれなか
ったのは、いろいろと経緯があったものの、これ以上企業経営を続けていくことができず解散し、
知り合いの仕事を請負ったばかりだという。それで仕事というのは「赤帽」というか宅配のような
ものだ。といっても年金暮らしに足を入れたことには違いない。それも関西のものづくりの景気は
消費税導入で仕事が減ったというのが彼の景況感だった。それで出席するのかと詰めると、土日が
いほど忙しいとじれったいことを言うので、困ったことがあったら何でも相談してくれと、語気
を少し強め、再会の動機にスポットライトを当て約束を督促してみた。それじゃ行くよと言うので、
健康は?と聞くと、すこぶる元気だというので、若くても、年老いても、明日はどうなるかわから
ないよと軽口をたたき電話を切った。

  




そのようなこともあり、土曜は車を走らせることはなくなったが、パーソナルコンピュータが具合
が悪くなりリカバーに入り追い詰められることになるが、ランチにつきあえと彼女がいうので、琵
琶湖のほとりにあるパン工房、ジュブリルタンへ行くが、レストランは予想通り席が取れずパンを
食べることにした。伊吹牛乳のコーヒー牛乳と普通の牛乳の2つと、サンドイッチとトルティーで
包んだマリネ・チキンとモッツアレラ、トマトのフォッカッチャサンドを注文し、スナックコーナ
のテーブルでさっそく頂いた。イタリアのパンであるフォッカッチャは平たいという意味で、そう
呼ばれている。オリーブオイルやハーブで味をつけ、そのまま食するか、ハムや肉や野菜、チーズ
をはさみサンドイッチとして食べられる事も多い。前菜の更に前に出されるおつまみとして、また
料理のつけあわせや、パンと一緒に出されることもある。イタリアのプーリア、リグリア地方のも
のが特に有名であるというが、こんなにたくさんの種類があるとはいまのいままで知らなかった。
もっとも、サンドイッチということであれば、食パンより焼いた皮で挟み込んでいるので、食べや
すいという点から納得できるそうだ。また、ベーグルと比較するとこちらの方が手軽につくること
ができ、饅頭のように包みこむこともなく、表面に豆など具材を埋め込むことができるし、家畜・
猛禽類の食肉(ハム・ソーセージ)だけでなく魚介類にも拡張できるから広がりをみせるのも無理
からぬことだと感心する。

  

さて、フォッカッチャは、強力粉、食物油、水、塩、イースト菌などを原料とした生地を麺棒か手
で厚く押し延ばし、石窯で焼き上げる。完全に焼きあがる前のパン生地の表面の一部が膨らんで泡
状になってしまうこともあるので、その場合はナイフなどで空気を抜く。日本でも各種のカジュア
ルレストランやパン店などでよく見かけるようになってきているが、なかにはオリーブ油以外の油
脂や砂糖、乳製品、各種添加物などを用い、本場とはやや異なる風味になっているようなものもあ
る。また、いわゆるファミリーレストランではガスト、サイゼリヤ、ココスなどで類似の商品を提
供しているが、サイゼリヤでは「フォッカチオ」と呼んでいるという。ピクルのようにして野菜や
肉類を酢漬けしておくか、野菜など前調理しておく冷蔵庫で保存しておき、また、残り物をストッ
クしておいて、直前にバイキング風に挟み込めば簡単に楽しく頂けるとら勉強になったが、フォッ
カチオがさらに融和発展し、あのアンパンやカレーパンのよう和食化していくだろう。

 

  

 

 

  その出来事があった一週間ほど後に、木野は客の女性と寝た。彼女は木野が、妻と別れて最
 初に性交した相手だった。年齢は三十か、三十を少し越えているか、そのあたりだ。美人とい
 う範躊に入るかどうかは微妙なところだが、髪がまっすぐで長く、鼻が短く、人目を惹く独特
 の雰囲気があった。物腰や話し方にどことなく気怠い印象があり、表情を読み取るのがむずか
 しかった。
 
  女は前にも何度か店に来ていた。いつも同年代の歳の男と一緒だった。男は義甲縁の眼鏡を

 かけ、顎の先に昔のビート族のような尖った堡をはやしていた。髪は長く、ネクタイを締めて
 いなかったから、たぶん普通の勤め人ではないのだろう。彼女はいつも細身のワンピースを着
 て、それはすらりとした身体を美しく目立たせていた。二人はカウンター席に座り、時折ひそ
 ひそと言葉を交わしながらカクテルかシェリーを飲んだ。それほど長居はしなかった。たぶん
 セックスの前の酒なのだろうと木野は想像した。あるいはその後かもしれない。どちらとも言
 えない。しかしいずれにせよ、二人の酒の飲み方には性行為を連想させるものがあった。長く
 濃密な性行為を。二人とも不思議なくらい表情に乏しく、とくに女が笑ったのを木野は目にし
 たことがなかった。
  
  彼女はときどき木野に話しかけた。いつもそのときにかかっている音楽についての話だった。
 ミュージシャンの名前とか曲目とか。彼女はジャズが好きで、自分でもアナログ・レコードを
 少し集めていると言った。「父親がよくこういう音楽をうちで聴いていたわ。私自身はもっと
 新しいものの方が好きだけど、でも聴いていると懐かしい」
  音楽が懐かしいのか、父親が懐かしいのか、その口調からはどちらとも判断しかねた。しか
 し木野はあえて尋ねなかった。

  実を言うと、木野はその女とはあまり関わり合いにならないように注意していた。彼が彼女
 と親しくすることを、連れの男が歓迎していないように見えたからだ。一度その女と音楽につ
 いて少しまとまった会話を交わしたことがあったが(都内の中古レコード店の情報や、レコー
 ド盤の手入れについて)、そのあと何かあるごとに、男は疑念を含んだ冷やりとする目を木野
 に向けるようになった。木野はその手の面倒からできるだけ距離を置くように常日頃から心が
 けていた。人間が抱く感情のうちで、おそらく嫉妬心とプライドくらいたちの悪いものはない。
 そして木野はなぜかそのどちらからも、再三ひどい目にあわされてきた。おれには何かしら人
 のそういう暗い部分を刺激するものがあるのかもしれない、と木野はときどき思た。


  しかしその夜、女は一人で店を訪れた。彼女のほかに客はいなかった長い雨が降り続いてい
 る夜だった。ドアを開けると、雨の匂いを含んだ夜気が店内に忍び込んできた。彼女はカウン
 ターに座ってブランデーを注文し、ビリー・ホリデーのレコードをかけてくれと言った。
 「できるだけ昔のものの方がいいかもしれない」。木野は『ジョージア・オン・マイ・マイン
 ド』の入った古いコロンビアのLPをターンテーブルに載せた。そして二人で黙ってそのレコ
 ードを聴いた。その裏面もかけてもらっていいかしらと彼女は言って、彼は言われたとおりに
 した。







 

  女は時間をかけてブランデーを三杯飲み、更に何枚かの古いレコードを聴いた。エロール・
 ガーナーの『ムーングロウ』、バディー・デフランコの『言い出しかねて』。いつもの男と待
 ち
合わせをしているのだろうと、木野は最初思っていたのだが、閉店の時刻が近づいても男は
 姿
を見せなかった。女もどうやら、男が来るのを待っているわけではなさそうだった。その証
 拠
に一度も時計に目をやらなかった。一人で音楽を聴き、無言のうちに何か思いを巡らせ、ブ
 ラ
ンデーのグラスを傾けていた。女は沈黙がとくに苦にならない様子だった。ブランデーは沈
 黙
に似合った酒だ。静かに揺らせ、色を眺めたり、匂いを嗅いだりして時間をつぶすことがで
 き
る。彼女は黒い半袖のワンピースに、紺色の薄いカーディガンを羽織っていた。耳には小さ
 な
模造真珠のイヤリングをつけていた。
 
 「今日はお連れの方は見えないんですか?」、そろそろ閉店時刻が近づいた頃、木野は思い切
 って女に尋ねた。

  今日は彼は来ないの。遠いところにいるから」、女はスツールから立ち上がり、眠り込んで
 いる猫のところに行って、その背中を指先で優しく撫でた。猫は気にせずそのまま眠り続けて
 いた。
 「私たち、もうこれ以上会わないようにしようと思っているの」と女は打ち明けるように言っ
 た。あるいは猫に向かって言ったのかもしれない。
  いずれにせよ木野には返事のしようがなかった。彼はとくに何も言わず、そのままカウンタ
 ーの中の片付けを続けた。調理台の汚れを落とし、調理用具を洗って抽斗にしまった。
 「なんて言えばいいのかしら」、女は猫を撫でるのをやめ、ヒールの音を刻みながらカウンタ
 ーに戻ってきた。「私たちの関係って、あまり普通とは言えないから」
 「普通とは言えない」と木野は相手の言葉をそのまま意味もなく繰り返した。
  女はグラスに少し残っていたブランデーを飲み干した。「木野さんに見てほしいものがある
 の」
 
  それがたとえ何であるにせよ、木野はそんなものを見たくはなかった。それは見るべきでは
 ないものなのだ。そのことは最初からわかっていた。しかし彼がそこで□にするべきであった
 言葉は、あらかじめ失われていた。
  女はカーディガンを脱ぎ、スツールの上に置いた。それから両手を首筋の後ろにまわし、ワ
 ンピースのジッパーを下ろした。そして背中を木野に向けた。白いブラジャーの背中部分の少
 し下に、いくつかの小さな惚らしきものが見えた。梗せた炭のような色合いで、その不規則な 
 散らばり方は冬の星座を思わせた。暗く枯渇した星の連なりだ。伝染性の病気の発疹の名残り
 かもしれない。それとも何かの傷痕だろうか。

  彼女は何も言わず、むき出しの背中を長いあいだ木野に向けていた。新品らしい下着の鮮や
 かな白さと、惚の暗さが不吉に対照的だった。木野は何か質問されたものの、質問そのものの
 意味がつかめない人のように、言葉もなくその背中を見つめていた。そこから目を逸らすこと
 ができなかった。やがて女は背中のジッパーを上げ、こちらを振り向いた。カーディガンを羽
 織り、間をとるように髪を整えた。
 
 「火のついた煙草を押しつけられたの」と女は簡単に言った。
 
  木野はしばらく言葉を失っていた。しかし何かを言わなくてはならない。「誰がそんなこと
 をしたんですか?」と潤いを欠いた声で彼は言った。
  女は返事をしなかった。答えようという気配すら見せなかった。そして木野もとくに返事を
 求めていたわけでもなかった。
 
 「もう一杯だけブランデーをいただいていいかしら?」と女は言った。

  木野は彼女のグラスにブランデーを注いだ。彼女は一口飲み、胸の奥をゆっくり下っていく
 その温かみを見届けていた。
 
 「ねえ、木野さん」

  木野はグラスを拭いていた手を休め、顔を上げて女を見た。
 
 「こういうのが他にもあるの」と女は表情を欠いた声で言った。「なんていうか、少し見せに
 くいところに」




                 村上春樹 著『木野』(文藝春秋 2014年 2月号 [雑誌] )

 

 

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