秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
不思議だなと思う心、いつまでも忘れずにいたいな

閉業のお知らせ

質店は2021年8月に閉店いたしました。 昭和21年9月創業で75年間にわたりご愛顧賜りありがとうございました。

♪高砂や~ ~はや住之江に着きにけり

2010-11-23 | 古代史のミステリー
最近の結婚事情はずいぶん変化して、結納の儀式も簡素化してることとは思います。
かつては結納のときに、この高砂人形も一緒に飾られたものでした。

熊手をもった翁と箒をもった姥
きっと末長く共に老いていく象徴としてるのかなぐらいの認識でした。

そして結婚式の祝言で朗々と謡いあげられる「高砂」
♪高砂や この浦舟に帆をあげて この浦舟に帆をあげて
  月もろともに出汐の 波の淡路の島影や
  遠く鳴尾の沖過ぎて
  はや住之江に着きにけり はや住之江に着きにけり♪


歌詞の内容も今までちゃんと考えたことはなかった。
高砂や~っていうだけで、おめでたいものと思い込んでた。
あらためて歌詞を詠んでみて、
なんで住之江に着いてめでたいのかイマイチよくわかりません。

先日、住吉大社権禰宜・小出氏のお話に、この高砂がでてきた。
阿蘇の神主が高砂で老夫婦に出会い、住吉大社に至る物語だと、
そして能には住吉を題材にしたものがたくさんあり、
高砂・雨月・梅枝・住吉詣・白楽天・岩船・富士太鼓などと伺った。
いかに住吉が日本人の深層部分に刷り込まれているかを説明されたことの一つだった。

で、今まで全く興味がなかった高砂のあらすじを調べてみた。

 

平安時代前期、醍醐天皇の御世の延喜年間のこと、
九州阿蘇神社の神主友成(ともなり)は、都見物の途中、
従者を連れて播磨国の名所高砂の浦に立ち寄ります。
友成が里人を待っているところに、清らかな佇まいをした一組の老夫婦があらわれました。
松の木陰を掃き清める老夫婦に友成は尋ねます。
「有名な高砂の松はどれなのか、
高砂の松と住吉の松とは遠く離れているのに、
なぜ相生の松と呼ばれているのか」

老翁は、この松こそ高砂の松だと答える。
たとえ遠く離れていても夫婦の仲は心が通うもの、
現に姥はここ高砂の者、私は住吉の者で、
相生の松が万葉古今で歌枕に詠まれている事等さまざまな故事をひいて松のめでたさを語ります。
相生は二人して老いる「相老い」にかけてあるのです 。

歌が盛んに詠まれ世の中が平和であることを象徴する「相生の松」のいわれを教えます。

♪四海波静かにて 国も治まる時つ風 枝を鳴らさぬ 御代なれや
あひに相生の松こそ めでたかれ
げにや仰ぎても 事も疎かや かかる代に住める 民とて豊かなる
君の恵みぞ ありがたき 君の恵みぞ ありがたき


やがて老夫婦は、我らは高砂と住吉の「相生の松」の化身であると正体を明かし、住吉で待とうと小舟に乗って姿を消します。
友成一行は、月の出とともに小舟を出し高砂の浦から一路住吉へ向かいます。

♪高砂や この浦舟に 帆を上げて この浦舟に帆を上げて
月もろともに 出汐(いでしお)の 波の淡路の島影や 遠く鳴尾の沖過ぎて
はやすみのえに 着きにけり はやすみのえに 着きにけり


住吉の岸に着くと、西の波間より住吉明神が姿を現します。
美しい月光の下、千秋万歳を祝って颯爽と神舞を舞う。
悪魔を払いのけ、君民の長寿を寿ぎ、平安な世を祝福するのでした。

♪さす腕には、悪魔を払ひ、をさむる手には、寿福を抱き、
千秋楽は民を撫で、万歳楽には命を延ぶ、
相生の松風颯々の声ぞたのしむ、颯々の声ぞたのしむ、


 

高砂は、相生の松によせて夫婦愛と長寿を愛で、
人世を言祝ぐ大変めでたい能であることはよくわかりました。

作者の世阿弥は、古今集仮名序及び中世の古今集註釈説をヒントにこの作品を作られたそうです。
全くの空想の産物ではなく、何らかの故事があったのでしょう。

阿蘇神社の境内には、友成が持ち帰った高砂の松の実が植えられ、
それ以来千年あまり、松を植えかえ植え継いで"縁起の松"を育てているそうです。

住吉と阿蘇にも何か繋がりがあるのかな?

松竹梅

2010-11-23 | 世情雑感
APEC首脳夫人らが、洋服の上からコシノヒロコデザインの着物風ドレスを身にまとって記念撮影されたものです。

ガウンドレスには、帝人グループが開発した植物由来繊維バイオフロント(Biofront)と伝統的絹織物「丹後ちりめん」を融合させた新開発のエコ素材が使用されているそうです。

このデザインが好きかどうかは別にして、エコ素材というのがちょうど今の時流にあったものであることは間違いなさそう。

第18回 APECも無事終了しましたが、
参加した首脳らが開催国の民族衣装を着て行う恒例の写真撮影、今回は見送られましたね。

いちおう公式見解は、日本の着物はお金がかかるから経費節減ということで、普通のサラリーマンスーツ。
しかし中国に配慮して民族衣装の和服をやめたとの報道ありました。

賛否両論はあるでしょうが、今回のネタ趣旨は、松の舞台背景についてです。

APECレセプションで、中村勘三郎さん、勘太郎さん、七之助さん親子が連獅子を演じられたYOUTUBE

この歌舞伎舞台の背景の松の前で菅首相が話されているニュース画像、
探しても見つけられなかったので、ユーチューブをリンクしておきます。

この松の背景は、お能の舞台とセットで思い出されます。

*能楽入門より
能舞台には後ろに松の絵が描かれている羽目板があります。
一般の方は「松羽目」(まつばめ)とおっしゃいますがこれは歌舞伎の用語で、能では「鏡板」(かがみいた)と呼ばれます。

なぜ松を書くのか?
これには色々な説がありますが、もともと能舞台は野外の大きな木の下に作られていました。
昔から大木には神が宿ると信じられていて、舞台を守っていただくという考え方もありました。
しかし季節で葉が散ったり、毛虫が落ちてくるのでは演技ができませんし、一年中色の変わらない松の木が好んで使われていたようです。

特に江戸時代になってからは、徳川家の本姓が「松平」であったこと、
松と竹は他の植物を松ヤニや根っこで枯らして自分たちだけが群生するということ。
これらが封建時代の武士にとってもっとも理想的な姿であったために、松と竹はめでたい木として扱われ、鏡板と切戸の周りに描かれるようになったと言われています。

中には横浜能楽堂の鏡板のように梅が一緒に描かれている物もあります。


お能の演目の一つ「高砂」の一部部分が、結婚式祝言で謡われる♪高砂や~ です。
徳川幕府は、松平家→松の常盤→徳川の世の永続を願い、「高砂」の松を重用しました。
高砂の浦を出帆し住吉に着くまでのこの海上を行く場面が「高砂や~」で、これより前の部分「四海波」
正月の幕府の謡初めで「四海波静かにて」から謡始めたそうです。

♪四海波静かにて 国も治まる時つ風
  枝を鳴らさぬ御代なれや
  あひに相生の 松こそめでたかりけれ
  げにや仰ぎても 言も愚やかゝる世に
  住める民とて豊なる
  君の恵ぞありがたき 君の恵ぞありがたき♪

それで庶民は遠慮して、待謡から始めたため「高砂や」が祝言の謡となったとも言われているそうです。

この高砂と住吉大社の関係は次回に続きます。