1-27あかる姫を追いかけて③ 続きです。
あかる姫を追ってきた夫の天日矛(アメノヒボコ)
渡辺の津まで来るも彼女に会えなかった。
その時あかる姫は何処にいたのでしょう?
ブログった27日の人気記事として、以下が上がってたんです。
2015-1-14
神さまからのメッセージ - 秋麗(あきうらら)
「夕立の雨やまなくに日はくれて行きなやみたる山の坂道」桑津天神社でひいたおみくじです。23番小吉でした。厳しいお言葉でしたので、撮影してしっかり結びつけてきました...
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あかる姫の続き書くにあたり、
淀川を遡る前に、ココに注目
という神さまからのメッセージ😮 かもね。
あかる姫は、西淀川区の姫島に長く留まらず移動した先は、
住吉や平野辺りだった?
というわけで淀川中上流で続き書くつもりを変更します😅
大阪湾古地図で、桑津が載ってるの探しました。
弥生時代(2000年前)の大阪平野=「趙・松田2003」から
引用サイトは、
生い立ち、いまだ謎残る 変わりゆく大阪平野(1) - 日本経済新聞
上町台地を除く大阪平野の大部分が、縄文時代に海だったことは知られている。1万2000年ほど前に直近の氷期が終わり、縄文海進と呼ばれる海水面上昇に見舞われた。6000年前の...
日本経済新聞
2014年のブログに載せた地図は
CとDの間あたりにあります
桑津天神社(くわづてんじんじゃ)
祭神は少彦名神ほか
大阪市東住吉区桑津にあり、かつて河内湖のほとり、港があったので津という
創建年代は不詳。
口碑によれば、当地を桑津と言うわけは髪長媛がここに桑樹を養い、
糸をとって織物をなしたので、髪長媛を織媛と言う。
後に媛が病気になった時、少彦名神に祈って回復したので、
その縁故があり、後世少彦名神を勧請して氏神として奉祀したのが由縁。
『日本書紀』(応神紀)に、日向国の髪長媛は国中の美人だと天皇が聞いて、媛を召されて摂津国桑津邑に置いた。
この媛を皇子の大鷦鷯尊が目にしてその美しい容貌に心を引かれ、天皇は大鷦鷯尊に与えたとある。
Dあたりの「喜連」は平野区です。
あかる姫の記録残してますよ〜
2015-7-26
あかるひめ神社の桔梗の造花★7/28追記 - 秋麗(あきうらら)
午前中に堺の病院にいる母を見舞ってまだ昼までに間があった。以前からずっと気になっている、赤留比売(あかるひめ)神社へ行くことにした。ナビではなぜか地名入力しようと...
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古代大阪の変遷は以下にも詳しい⤵
約1800~1600年前
天満長柄の砂州が北へ延びきって、
河内平野(河内潟)への海水の流入をさえぎり、河内潟は淡水湖に
5世紀以降
仁徳期の治水事業により、河内湖の水域が減少するとともに、
流入している大和川枝川等が河口に三角州をつくる
そして湿地・草原あるいは堤防敷となり、その後、河内低地の陸地化が始まる
まだまだ続く