秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
不思議だなと思う心、いつまでも忘れずにいたいな

閉業のお知らせ

質店は2021年8月に閉店いたしました。 昭和21年9月創業で75年間にわたりご愛顧賜りありがとうございました。

威風堂々粉河寺の縁起絵巻と塩爺と

2015-04-06 | 西国33箇所

西国33箇所3番札所の粉河寺の中門です。
紀州徳川十代藩主が書いたという中門の扁額に「風猛山」
ふうもうざん かざらぎさん とも読むようです。


自分の車で行くにあたりアクセスとか駐車場とか下調べしてから行きました。
大門の右横から境内中に入ることができて、雨で超すいてたから下の地図の現在地と書かれた場所に駐車しました。



大門は三間楼門で、その規模は和歌山県では高野山、根来寺に次ぐ大きさといわれています。
雨が降ってて傘を差していたため撮影しそびれました。

大門入ってすぐ右手にみかんなどを販売している茶店がありました。
こちらの駐車場はゲートが無く駐車場管理をこの店に任せているようです。
駐車場代の徴収のため行きも帰りも声掛けありました。

粉河寺は本堂を内観しなければ拝観料が不要です。
立派な広い境内は掃除が行き届き維持管理も大変だと思うのに拝観料を払わなくともお参りできます。
しかし駐車場代は500円で、その徴収声掛けがちょっと嫌味。
これなら紀三井寺のように、駐車場代300円+拝観料200円のほうがずっと気持ちよく利用できます。



ホンマに想像以上に広いお寺であったのが驚きでした。
細い川に沿って桜がまだこの時はつぼみでした。
左手に多くのお堂が立ち並んでいます。

紀伊国那賀郡粉河の、粉を流したような白い水の流れる川 ってこの川のことなんでしょうか。



童男堂の格子越しにのぞいてみると、「童男大士」の石像とその傍には「出現池」と名付けられた池があります。

童男大士はこの池より白馬に乗って柳の枝を手に持ち現れ、千手千眼観世音の化身といわれています。


粉河寺縁起絵巻:京都国立博物館に寄託
作者不詳で、成立は平安時代後期(12世紀)
絵巻物の代表的作品の一つに数えられ国宝に指定されています→こちら

粉河寺のウェブサイトによれば
紙本著色・幅約30cm長さ役20mで、詞書と絵画によって構成され、霊験物語二話を一巻に描いている。
前半は、宝亀元年(七七〇)千手観音の化身童男行者の加護を得て、大伴孔子古が草堂を結び、千手観音像を安置して粉河寺が開創された経緯と千手観音出現の奇蹟)が、
又後半には、河内の国(現東大阪市)の長者の娘の病気が、伴の童男行者の祈祷によって平癒した経緯(千手観音の霊験)が描かれている。
因みに東大阪市足代の名門、塩川家がそのご子孫である。


紹介文の最後の名門塩川家は、元衆議院議員の塩川正十郎さんちのこと。

ホンマかなと思って調べてみると、
東大阪の布施商店街周辺の地図案内でも、
「塩川家邸内の柳井は紀州粉河寺の観音が童男に化身し掘った井戸と伝えられています。」

洞察日本史のページでは
「粉河寺仁王門の前の巨額寄進を記念する古い石碑に、寄進者として名を刻まれた塩川正三が後に布施市長に就いたのはまさに名実相応じた奇瑞であるが、塩川佐大夫の子孫が一三〇〇年経っても仏恩を忘れていないことを示している。」
こちらではもっと興味深いことに、らい病の医療施設として、この粉河に白水を開設して千手観音を祀っていた、等々。
詳しくは→こちら





中門に着くまでに太子堂がありその前に不思議な剪定をしたウバメガシがありました。




いよいよ中門到着。



西国札所のなかでもこれほど立派な中門はそうそうないでしょう。
階段の上から来た参道を撮影。
手水舎も蓮の花で珍しかったのに画像なし。




中門くぐると若山牧水歌碑や松尾芭蕉句碑があり、
参道を左に折れると、桃山時代の枯山水の石庭上に本堂。
枯山水の粉河寺庭園は紀州産の名石を組み合わせモダンアートな斬新さがあります。



本堂後ろから桜越しに鐘楼と一緒に撮りました。
西国三十三所の本堂の中で最大らしいです。




薬師堂の下に大きなクスノキが堂々と枝を広げています。
猟師の踞木 紀伊国の猟師・大伴孔子古がこの木の上で獲物を待ち伏せしていたとされます。







丈六堂の阿弥陀仏です。





粉河寺の威風堂々ぶりは以下サイトでなるほど~と思えたのだった。
塩爺のことでリンク貼った洞察日本史のページの中のひとつです。

熊野国造和田氏と粉河井口氏の職能

「熊野和田氏の族種的特技であった測量と水路設計を引継いだのは、紀ノ川流域に蟠踞した井口氏で、これが紀伊国那賀郡粉河荘を本拠にした」

アルザス グランクリュ リースニング

2015-04-05 | 日々是好日


頂き物のワインをいつ開けるか、悩ましいところですよね。
時には人が集まるパーティに持っていくこともありますが、少しづつワイングラスに注いでいったら味わうまでもない事がよくある。

ワインに詳しくないので多少の好き嫌いの味はあっても、それがどのランクかはわからない。
自分で買ったもの以外は誰からどんな時にもらったかが一つの目安。


瓶のラベル見てたら、アルザスのグランクリュは安物でもなさそうだったので調べてみた。

WUNSCH ET MANN ウンシュ エ マン は200年以上の歴史ある生産者の一つでした。

Grand Cru グランクリュは自社畑のぶどうだけ使ってる

リースリングは ぶどうの品種の一つ。
ウンチク見てると、
骨格のはっきりした味わいで、メリハリがあり、合わせてミネラル感も豊かに感じ、膨らみがあり、非常に豊かなリースリング だって。

Hengst ヘングストは、ウィンゼンハイムの南南東の斜面、標高は270m~360m。
土壌は石灰に泥灰土で、非常に寿命の長い骨格が固いワインを生み出します。


製造年にもよるのでしょうが、だいたい2000円後半から3000円のお値段付いてました。
金曜日に駅前のホテルで近隣小学校の140周年祝う会ありました。
だいたいあのホテルの会費7000円の場合で数千円程度の料理に飲み放題付きです。
そこで飲んだまずいワインに比べると雲泥の差でした。

庶民がなんもない時に開けて もったいワインだったかも。

和歌浦の玉津島って、かつてモンサンミッシェルみたいだった?

2015-04-03 | 古代史のミステリー

アーチ型の石橋は和歌浦のシンボルにもなっている不老橋です。
第10代紀州藩主徳川治寶の命によって、嘉永4年(1851年)第13代藩主・慶福の治世に完成しました。
片男波松原にあった紀州東照宮御旅所の移築によるものだそうです。

日曜日、和歌山の桜見物に紀三井寺参拝した後、築港のレストランへ行く前に和歌浦へよりました。
昔から和歌浦という地名はよく耳にしていても行ったことなかった。
玉津島と片男波を結ぶ砂嘴と周辺一帯を和歌浦とよぶようです。

この不老橋を対岸から撮影した画像もらってきました。


右側に塩竈神社、石橋に隠れてますが左側に玉津島神社がありました。

江戸時代中期18世紀 桑山玉洲の絵



玉津島神社の祓所から神社になった塩竈神社は、3年前に和合の松が倒れるという事件がありまし。、


松の木は車を直撃したが幸いにも運転手の人は軽傷ですんだようです。
また山部赤人歌碑も同時に倒れたと記録されています。


和歌浦を記事にするにあたり調べてたらとても興味深いことがわかりましたので、まず見たままからご紹介します。


塩竃神社の背後が鏡山。
たまたまこの巌窟でお祓いをうけられているのに出会いました。

江戸時代の和歌山では「一に権現(紀州東照宮)、二に玉津島、三に下り松、四に塩竃よ」と歌われたそうです。



玉津島神社の背後にある神奈備山が奠供山です。
鳥居右手に「奠供山」という石碑。
何と読むのかわかりませんでしたが、「てんぐやま」でした。
耳でてんぐやまと聞いたら、「天狗山」を想像するでしょう。

疑問その1 なんで奠供山という漢字を使うのか



神社フリークには、和歌の神様として有名な玉津島神社




「玉津島 見れども飽かず いかにして 包み持ち行かむ 見ぬ人のため」
この付近の景色の良さを絶賛した歌のひとつです。
今は小山ですがかつては島であり、あたかも玉のように海に点在した風光明媚な地だった。


「若の浦に潮満ち来れば潟をなみ葦辺をさして鶴鳴き渡る」

かつては玉津島は潮の干満で陸と続いたり離れたりする景観を呈していたらしく
まるでフランスのモンサンミッッシェルのようですね。

疑問その2 ただ単に景勝の地の観光だけで数多くの歌が残されたのだろうか



玉津島神社の祭神は、三女神
稚日女尊(わかひるめのみこと)
神功皇后
衣通姫(そとおりひめ)



奈良時代の聖武天皇は当時「弱浜(わかのはま)」と呼ばれていたこの地を、素晴らしい景色にちなんで「明光浦(あけのうら)」と改め、さらにこの地の景観を守るため守戸を置くことを命じた。
詔によって、春秋2回、祭器に供物を盛り神々に供えたと伝わります。

奠供とは神事に用いる祭器のことで、
この地は神の降臨する場所とされ奠供山(てんぐやま)と呼ばれるようになりました。

聖武天皇は即位してすぐに和歌の浦に行幸され2週間滞在。

山部赤人は、柿本人麻呂と並ぶ万葉の代表的な歌人で
奈良時代・聖武天皇のあちこちの行幸に従駕し土地讃めの歌を作っています。


神亀元年(724)甲子の冬の十月五日に、紀伊の国に幸す時に、山部宿禰赤人の作る歌一首

やすみしし 我ご大君の 常宮と 仕へまつれる 雑賀野(さひかの)ゆ そがひに見ゆる 沖つ島 清き渚に 風吹けば 白波騒き 潮干れば 玉藻刈りつつ 神代より しかぞ貴き 玉津島山 (6-917)

反歌二首
沖つ島荒磯(ありそ)の玉藻潮干(ひ)満(み)ちい隠りゆかば思ほえむかも(6-918)
若の浦に潮満ち来れば潟を無み葦辺(あしへ)をさして鶴(たづ)鳴き渡る(6-919)


疑問その3 なんで聖武天皇は即位してすぐに和歌浦へ行幸されたんだろう?

そして2週間も滞在されたって、ちょっと長すぎる。
何か理由があるに違いないと思えました。

こうした疑問をもって調べていると、引っ掛かってきました!

和歌の浦みちしるべの会
丹生都比売神社・日前宮と玉津島神社

一部抜粋させてもらいます
「現在の紀ノ川は西流して海に流れ込んでいるが、古墳時代は大谷古墳の南西部で大きく屈曲して南に流れ、現在の和歌川河口部で海に流れ込んでいた。
紀ノ川河口部が和歌浦にあった頃、瀬戸内海をとおり、朝鮮半島へ行く玄関口でもあった。
豊富な木材により造られた船と巧みな航海術を持つ紀氏は、大和に政権を持つ天皇家にとって、紀氏はなくてはならない氏族であった。

古代の港は、河口を少し遡ったところに置かれるので、和歌山平野に大きな力を持っていた紀氏・その始祖を祀るのが日前宮。
その一族の紀ノ川上流の天野社神輿が、紀ノ川河口部に位置する玉津島に渡御し、帰りに日前宮草の宮にも渡御した。
紀氏と丹生氏の神事を執り行う聖地であった玉津島。
玉津島での神霊の存在を背景として、聖武天皇の玉津島行幸があった」

神別氏族:紀国造家「日前国縣神宮」神職家
・神武天皇のとき「紀伊国造」としたとある紀直の祖
・天孫降臨の時、日像、日矛両鏡を奉斉し「日前国縣神宮」に祀った
・紀の国紀氏は古墳代初頭の昔から紀国の豪族であった




古代、紀ノ川は和歌の浦に河口部があり、そこは島々があたかも玉のように点在した風光明媚な地。
そのなかの玉津島は潮の干満で陸と続いたり離れたりする神々しさが神奈備となる。
神のおわす所として崇められ、丹生より稚日女尊、息長足姫尊(神功皇后)らを勧請し、玉津島神社が設けられたのでした。

大和政権初期から紀氏はたいそう勢力が強かったようで、皇后や妃になられた方も多いようです。
第49代光仁天皇の母(施貴皇子の妃)は紀橡姫(とちひめ)で紀氏の出身。771年皇太后を追贈されています。

紀三井寺が開基されたのは770年為光上人によりますが、そのもっと昔から名草山も聖地だったからなんでしょう。

このあと午後には、紀の川市の粉河寺に参詣しましたが、こちらも770年創建。



歌川広重の描いた和歌浦


月日は流れ、てんぐやまとその周辺和歌の浦に往時の面影は見られません。
天橋立に比肩する風光明媚なる景勝地は、近現代において著しく地形が変わったのも大きな一因でしょう。


Wikiページによれば、その栄枯盛衰は驚くべきものがありました。

平安中期、高野山、熊野の参詣が次第に盛んになると、その帰りに和歌浦に来遊することが多くなった。
中でも玉津島は歌枕の地として知られるようになり、玉津島神社は詠歌上達の神として知られるようになっている。
また、若の浦から和歌浦に改められたのもこの頃であり、由来には歌枕に関わる和歌を捩ったともいわれる。

1950年に毎日新聞による「新日本観光地百選」の海岸の部にて1位を獲得すると、その美しさが全国的に知られるようになり、加えて縁結び信仰が強かった玉津島神社の存在意義も相俟って、全国随一の新婚旅行スポットとなり、観光客は一段と増加した。さらにその後は瀬戸内海国立公園への編入も決定したことで、年間宿泊者350万人を数える一大観光地に成長した。
1965年ごろになると、新婚旅行の人気スポットは、宮崎など九州地方に西漸して、その影響を受けた和歌浦は宿泊客の減少が著しくなり、宿泊施設数はピークの半分に減少
昭和中期に隆盛を誇った反動で、多くの廃業ホテル、旅館を生み
バブル期を迎えても、すでに観光地としての魅力を奪われていた和歌浦は開発、投資の対象にもならず、そのまま放置されていた
2002年頃に廃墟ブームが勃発すると、巨大な廃墟物件を抱えていた和歌浦は「廃墟の聖地」と揶揄されるまでになっていた
特に高度経済成長期に安直な建て増しを行い、迷路のような構造となっていた廃業旅館は、サバイバルゲーム愛好者や廃墟マニアにとって屈指の人気スポット
2005年10月にこれらを含めた廃墟物件は軒並み撤去されることになり、一連の騒動は終止符を打った。
2011年に漸く国の名勝に指定され、雑賀崎周辺は瀬戸内海国立公園の特別地域に指定されており、其々保護されている。





今年は高野山開創1200年で次々と記念式典執り行われています。
その高野山が聖地となるまでに、この紀ノ川下流で歴史の積み重ねがあったのですね。

ポイントでWi-Fiストレージもらった

2015-04-02 | 日々是好日


NTTフレッツ光はやぶさのポイントが貯まってて4月末で期限が切れるのがあると通知ありました。
なんか商品に替えないともったいないと、提示商品の中から選んだものは
Wi-Fi SDカードリーダー(スマホ充電機能付)
モバイルバッテリーとしても使えるのがいいかもと思いました。 

土曜日の夜届いて、日曜日和歌山から帰ってから説明書読んで、デジカメ画像の何枚かをiPadに移しました。
すでに投稿記事にその画像使い、スマホ充電できるのも確かめました。



ストレージってよく知らない単語だったので、確認。

ストレージ 【 storage 】 外部記憶装置
コンピュータの主要な構成要素の一つでデータを永続的に記憶する装置。
磁気ディスク(ハードディスクなど)や光学ディスク(CD/DVD/Blu-ray Discなど)、フラッシュメモリ記憶装置(USBメモリ/メモリカード/SSDなど)、磁気テープなどがこれにあたる。
コンピュータ内にはこれとは別に、半導体素子などでデータの記憶を行う主記憶装置(メインメモリ、メモリ)が内蔵されている。
利用者がプログラムを起動してデータの加工を行う際にはストレージから必要なものをメモリに呼び出して使う。




きょうは花見日和で明日からの雨で散ると聞いてて、ご近所の満開を見てきました。
以下画像はスマホ撮影で、これが一番便利やね。








この緑道より淀川パークマンションのほうがキレイよといわれ足を伸ばしました。




確かに桜って花は皆下を向いて咲いてるから花見でにぎわうのね。
枝から長い花柄の先に花がぶら下がり、その重みで花が下を向くんだそうです。

シチリアでみたアーモンド、ウズベキスタンでみたアンズ、
一見桜のようで違いはわかりませんでしたが、花のつき方で見分けれるそうです。

敦賀気比の哲幣くん、鳥肌もの!(◎_◎;)

2015-04-01 | 世情雑感
昨日、高校野球選抜の準決勝で大阪桐蔭は敦賀気比に敗れました。
敦賀気比 11 - 0 大阪桐蔭
なんと6番松本哲幣くん 2打席連続満塁ホームラン!!
このニュースだけでも驚きました。
大阪桐蔭は先日の五億円裏金のニュースもすごかったけど。

去年夏との2季連続同一カードの準決勝です。
去年は15-9で勝ったのに、この選抜の見事な負けっぷりには目がテン。

そして今日の決勝は北海道の東海大四で、つい先ほど3-1で優勝。
8回裏に松本哲幣くんの2試合連続大会17号の勝ち越し2点本塁打が決勝打ですって。
ありえへん

初めて北陸に優勝旗がもたらされます。
生中継見てないので夜のスポーツニュースで見せてもらいます。