秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
不思議だなと思う心、いつまでも忘れずにいたいな

閉業のお知らせ

質店は2021年8月に閉店いたしました。 昭和21年9月創業で75年間にわたりご愛顧賜りありがとうございました。

エキゾチック・マラケシュ、また行きたい街

2019-03-08 | 旅・モロッコ
過去に訪れた都市の中で、また行きたいと思えたところはそうそうありません。
確かにきれいけど、おもしろいけど、もうええわ、さいなら〜
また来たい、今度はこの街ぶら特化でと思ったのが、トルコのイスタンブールと、モロッコのマラケシュでした。

マラケシュのジャマエルフナ広場では、食べ物屋台とかいろんな大道芸とかわんさかいます。
ものすごくエキサイティングだったのに写真ない ヽ(´o`;

水売りをネット画像検索スクリーンショットで



当時、現場で写真撮ってないのです。
写真撮ったらチップが要るんですもん。
旅から帰って、写真撮らんかった、買わへんかった、食べなかった話をすると、
いつも子供からあほやな~と言われます。
もう二度と行くことないねんやろう、なんてケチやねんって。



この夜は、騎馬軍団の観光向けファンタジアショーが夕食込みで3時間半。
なのに、何にも覚えていない。


またまた調子にのって、モロッコ巻きできるストール購入、
2枚のストール、あれっきりそれっきり。
日本で一度も使ってないけど、どこいったかな。


翌朝のこと、
宿泊ホテルはシェラトンで、スーツケースを部屋の外に出す際に、うっかり2人して外に出てしまい、ドアが自動ロック。
中に入れなくなった。
相棒がホテルフロントへ走り鍵開けてもらえた。

シェラトンホテルという記憶なので、ひょっとしたらフェズでも同じくシェラトン、そちらでの宿泊時の失態だったかもしれない。
自動ロックで閉め出されるのはよくある話ですが、うちらの旅経験では後にも先にもこの時限りです。


何はともあれ、旅の終盤は疲れが蓄積してて、いろんなとこで慎重でなくなってたのでしょう。

最終日はマラケシュのあちこち巡り、塔やら庭園やら写真もいっぱい残ってる中から、一枚セレクト、これ選びますかってやつを。





でも記憶映像は全く残ってない。
疲れてたのかな。
もしまたモロッコ行くことあれば、マラケシュ中心に廻りたい。


夕刻、初日に宿泊したカサブランカのホテルに入り夕食済ませ、最後のオプションへ。

エキサイティング・モロッコ旅、最後の土壇場へ続きます。



広場のコブラ使いは、さすがに写真もいらんし、見たくもない人いるでしょう。
以下は閲覧注意ということで




サハラのオアシス結ぶカスバ街道

2019-03-07 | 旅・モロッコ


旅の5日目早朝からラクダに乗ってサハラ砂漠の日の出を見た後、
ホテルに戻り砂漠体験洋服から着替えて朝食後にトドラ渓谷向けて出発。

エルフードから次の宿泊地ワルザザードに至る街道は、カスバと呼ばれる城壁に囲まれた要塞都市が点在してます。
かつて隊商や遊牧民がラクダで行き交ったカスバ街道です。



アイト・ベン・ハッドウはグラディエーターのロケ地にもなってます。


緑の樹木はアルガンだったことを今にして知る。
アルガンオイルはここ数年、保湿クリームとして愛用してます。
当時聞いたのかもしれないけど、お土産にも買わなかった。




アンチ・アトラスを越え
184km走ってマラケシュへ。
モロッコの縮図と呼ばれるだけあって一番面白い街。
エキゾチックな古都はまた来たいと思った。


今にして、メモ書きしてたアンチ・アトラスって何?
調べてみました。


モロッコの国土を背骨のように走るアトラス山脈。
北から順に

モワイヤン・アトラス(中ぐらいの山脈)
  フェズから大砂丘のメルズーガへ
オート・アトラス(高い山脈)
  マラケシュからワルザザードへ
アンチ・アトラス(小さな山脈)

南のアンチ・アトラスは定番の旅行先から外れていることもあり、あまりなじみの無いエリアらしい。
山の傾斜が比較的緩く標高も2,000m台、南側なので気候も穏やか。

このあたりの集落で暮らすベルベル人は、山の斜面に段々畑を作ってる。
住居の土壁にじゅうたん干してたり、
地べたに座り込んで歓談してそなグループあちこちに居たり、
広い畑をぽつぽつ歩くねずみ男見たり…

こうした風景が旅情を誘い、モロッコ旅してる~という気分に浸れました。
でも車窓からで、心のシャッター切ってたので写真は無い。







サハラ砂漠とベルベル人と

2019-03-06 | 旅・モロッコ


旅の5日目早朝4:15起床。
エルフードのホテルから4WDに分乗してメルズーカ大砂丘へ。
サハラ砂漠の日の出を待ちます。





日が昇るまでは、満天の星もみごとだった。

エジプトのフンコロガシのつもりで記念撮影。
この時の手袋をラクダ降りる時にあげる約束してたら、ジャンバーもくれって言う。


ベルベル人は商売上手で、したたか。
化石入りの磨いた石とかをいくつか売りつけられた。
ディラハムあんまり持ってないから、ドルで払うと言うと、いやユーロにしてくれと。
あの2005年はユーロの方が強かったのを砂漠の民は知っていた。



ソリ遊びも体験させてくれた。





ラクダ乗り体験はオプションで5000円でしたが、お値打ちあるアクティビティでした。
体験中は自分のことで精一杯。
後で聞いたけど、同じツアーの男性客がラクダから落ちたが大怪我にはならずにすんだそうだ。



ベルベル人の家。

モロッコの人口の半分ぐらい占めるベルベル人、みんながこんなテントに住んでるわけじゃない。

マグレブ(北アフリカ)の先住民らしい。
沈んだアトランティスから来たかもね。


ウィキペディアによりますと、ベルベル人は、
自称はアマーズィーグ(転写: ⴰⵎⴰⵣⵉⵖ)。アマジグ人、アマジク人という呼称もこれ由来である。
ベルベルの呼称は、ギリシャ語で「わけのわからない言葉を話す者」
を意味するバルバロイに由来し、ヨーロッパの諸言語で Berber と表記されることによる。





モロッコのアトラス山脈越えでハプニング

2019-03-05 | 旅・モロッコ


旅の4日目 2005/1/13
8:30に、宿泊ホテルのシェラトン・フェズを出発。
この日のバスの最後尾がうちらの席だった。

だいたい2時間程度走ったらトイレ休憩です。
もうすぐやなと、バスの後ろのガラス窓から外をみた。
なんと⁉️
白い煙がバス下部から立ち上がってる。

こっそりふたりで確認して、これはヤバイのとちゃう❓
しかしこの時点で大声あげて異変伝えたら、最後尾のうちらはどうなる⁉️
まだ爆発するほどでもないので、しばし様子を観察しようかと思うまもなく休憩場所に到着。

最後にバスを下車する時に伝えた(^^;

なんと❗️
エンジンオイルが漏れてたそうで、補給オイルはアトラス山越えのドライブインに置いてない。
荷物の積み下ろしをするポーターの青年が、タクシーで町まで取りに行った。
修理完了するまでに結局1時間は要したので、ミントティーとか飲んで時間潰した。

無事に再出発できて、
ザード峠 (標高2178m )で記念撮影。



大事に至らずよかった (*´ー`*)



エキサイティング・モロッコ、世界最大の迷路@フェズ

2019-03-05 | 旅・モロッコ


旅の記録を残したファイルで、このモロッコの旅だけ異様にコメント書き込んでありました。

2005/1/12 旅の3日目は世界遺産フェズ観光だった。

その前日は、現代の首都のラバスと、17世紀の首都だったメクネス観光を経てフェズで宿泊。
写真はいっぱい残っててもほとんど記憶ないけど、
アラビア式トイレだけは、覚えてる。
街もトイレも、掃除は行き届いてました。





参加したツアーのチラシより簡単な地図




フェズは9世紀から1200年の歴史が積み重なる街で、
旧市街地域のメディナは世界最大の迷路として有名です。

ひと足踏み入れると、地元のガイドがいないと迷って外に出れなくなると脅かされてスタート。



車が通れない細い路地で結構アップダウンがあったような記憶。
少し高台で王様の避暑地と説明聞いたような。

「アトンショーン!」
フランス語で「どいて」って呼びかけられ、振り向いて脇を開けるとロバが引いた荷馬車が通る。

そうしたロバのウンチが石畳落ちてることもあるので足元も見ながら歩く。
テイクアウトできる食べ物店の美味しそうな匂いも充満し、
金物細工の叩き出す音もリズミカルに響く。
行き交う現地の男性はねずみ男みたいな民族衣裳着てるし、これだけでも異国情緒たっぷり。

そうした雑踏を、はぐれないようついていくのはかつてないエキサイティングな観光街歩きだった。


1999年にエジプトをまわりましたが、
彼の地はピラミッドの古代と、中世から近世にかけてのイスラムと、近代のイギリス統治時代が混在してました。
でもちゃんと住み分けて存在しててちゃんと境界線がある感じ。

それに比べてモロッコは混とんとしてました。
その中に放り込まれたような困惑が強くあり、これが興味深くもありしんどいとこでもありました。




皮のなめし工場見学も匂いといい、経験したことない体験だった。

街歩きの最後にフェズの民家に入らせてもらった。



家の中心に天井高く外光を取り入れる工夫されてた。
ここでミントティーがふるまわれたような。

こんなふうに混沌として、それでいてスラム街ではなくちゃんと民が暮らしてる地域、他に思いあたらない。





モロッコのお金 ディラハム

2019-03-04 | 旅・モロッコ


旅だった当時がちょっとしたモロッコブームだったかも。
カード会社のCMで、
お金で買えないものがある プライスレス
このフレーズとともに映像でディラハム登場してたような記憶が。

関空ではディラハム置いてなかったのでユーロに両替。
到着したカサブランカで、とりあえず1万円をディラハムに変えたら791とレシートまで残ってる。
昨夜ネットで為替相場みたら、今なら1万円で860ディラハム程度でした。


フランクフルトから3時間半かかって到着したカサブランカがスゴイ霧だったのは、そのシーンが蘇るくらい覚えています。
よく着陸できたこと、グッジョブ 👍

空港からホテルまで、深夜なのに倍の時間要したと書いてるからよっぽど霧が深かったことか。


その両替したディラハムを旅始まって少し経ってから二千円程分けて欲しいと頼まれました。
ホテルでの両替レートがお気に召さなかったのでしょう。
未だかつて、名前も知らないツアーの人に依頼されたのは、あとにも先にもこの時だけ。
同行のお連れなら時に貸し借りして日本円で精算したりはあります。

その後、薔薇エッセンス入りクリームを3個買った時も1つ分けてと依頼されました。
その方は帰国便のフランクフルトでタラップから転落され、持病の発作かと手持ち荷物からニトログリセリンを奥さんが飲ませた、あの男性でした。


モロッコってやっぱりマニアックな国でしょうから、ツアー参加者は海外旅行の猛者ばっかりでした。
私と連れは旅の初級クラス、となるとあの一緒に帰国できなかったご夫婦は全くの初心者?
太っ腹にお金ばら撒く必要全くないけど、ケチなうちらの数段上行くのは驚きでした。

まさかまさかの最後にあんな事故に遭うなんて。
海外保険入ってないと、入院治療費、奥様の滞在費、通訳等々で1千万はかかると聞きました。
おまけにカードお持ちでなく手持ち金も限りあるでしょうから、娘さんが日本からお金持ってくるんだって。

個人的にお話する機会はなかったので、お名前はもちろん、どこにお住まいで何故モロッコツアーを選んだかは謎です。


次回から、どんなトラブルに見舞われたか順を追って。


奈良の一刀彫雛人形・立雛2号(神泉作)

2019-03-03 | 日々是好日


奈良の一刀彫りの内裏雛。
コンパクトでかさばらないお雛さまの極致です。
40年以上前に奈良へ行った時に買ってもらいました。
今ネットで確かめたら、今でも売ってたけどお値段倍になってた(@_@)
お顔は今のより昔の方がうんと気品あるように見える。

奈良の一刀彫は800年以上の歴史をもつ伝統的な技法で、桧(ヒノキ)などの木材を材料に、ノミで豪胆に形を彫りだします。
無骨とも思えるシンプルな形と、金箔や絵具で彩られた華やかな色彩とが見事に調和するところに、高い芸術性を感じさせる逸品です。

サイトは☞ こちら



午前中に太極拳の稽古行ったら、入口階段に桃の花が挿してあった。


今日のひな祭りはこれにて終了。



午後からBBSの総会出席して、
家に帰って夕食済ませてから、モロッコ旅の続き書こうと思ってた。

ビール飲んでたら、焼肉食べに行こうとお誘いの電話 。

やった〜 行く〜(^O^☆♪
わびしかったひな祭りが思いもかけない展開に。



牛すじの上等はこんなに柔らかいのね。


左のグラスはキウイチューハイにおまけで金柑入りが、柑橘類の味追加でよかった。

ハマグリと牡蠣のホイル焼き、櫛形に切ったたまねぎとの組み合わせ最高。
真似しようと思う。




焼肉店いとはんのママは料理上手なので、ちらし寿司も美味しかった。

もちろん焼肉も食べたから2kgちかくも体重増えてた。


エキサイティングモロッコはまた明日。

エキサイティング、モロッコ その1

2019-03-02 | 旅・モロッコ


この写真は、2005年1月10日 場所はフランクフルト。
このブログを始めたのが2005年4月なので、その数ヶ月前の旅、ものすごくエキサイティングでした。
いつかブログにも旅の記録を残しておこうと思いつつ、あっという間に14年。
もうすぐ平成おわるし、2003年と2004年のイタリアの記録も書いたし、やっと巡ってきた感じです。


本箱の1番下の段にA4クリアファイルが並んでます。
写真とか、切符とか、行程表とか、主に海外旅行の記録を残してますが、滅多に見ることない。

久しぶりに、2005年1月のモロッコファイルを取り出しました。

2004年の暮れに大掃除してたらギックリ腰になり、まだ完全に回復しないまま出発の日を迎えた。
2005/1/10 関空を10:20am に飛び立ったルフトハンザ機は約13時間でフランクフルト着。
時差があるので14:55、昼下がりでした。

このツアーでの航空券の半券が保存してないのは、
ANAのマイルとルフトハンザはアライアンスしてて後日申請できると教えてもらいチケット半券を郵送したからです。

モロッコのカサブランカへは22:15発に乗るので、トランジットが7時間もあり、
その待ち時間を利用してフランクフルト市内観光が組み込まれてありました。
もっと数時間内に出立する便もあったかも知れませんが、
深夜便は1/10程度にディスカウントされるんだそうで、安さを追求する団体旅行ではやむを得ません。


ゲーテの家を見学に行き、家の前で待機してる写真の一番手前に、
ごま塩頭の男性の頭が写ってますが、帰国の便でフランクフルト着いたとき、タラップから降りる際に足を滑らせて救急搬送されました。
左隣の奥様と共に一緒に残られて、ツアーで一緒に帰ることができなかった。
海外旅行保険に加入されてなくて、カードもお持ちでなくて大変だと添乗員さんから伺いました。
その後どうされたんだろうとずーっと心に引っかかってますが、旅行社に尋ねるわけにもいかず、、、


実はこのツアーはいろいろてんこ盛りのドタバタがあり、あんなエキサイティングな旅は後にも先にもないぐらい。

まず1番最初、1/10朝8:20 関空ターミナルビル4階の南団体受付カウンターに集合した時から変でした。

1999年のエジプトの旅から年に一度、海外へ一緒に旅してた連れ、学生時代からの長〜いつきあいです。
しんどそうな青い顔してやってきた。
「どうしたの、大丈夫?」


この時は単に体調不良程度かとおもいきや、
帰国後しばらくしてわかったことに彼女はとんでもないものを連れてきてたのかも知れなかった。
あとになって、数々の事件を思い出すと腑に落ちるのでありました。


続きは⤵︎
モロッコのお金 ディラハム - 秋麗(あきうらら)

モロッコのお金 ディラハム - 秋麗(あきうらら)

旅だった当時がちょっとしたモロッコブームだったかも。カード会社のCMで、お金で買えないものがあるプライスレスこのフレーズとともに映像でディラハム登場してたような記...

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最後の晩餐、最後の審判を現地で観る

2019-03-01 | 旅・イタリア


2003年1月、もう16年も前に訪れたイタリア旅行の記録です。
ルネッサンスの最高の芸術作品を現地で観るというツアーでした。

世間は米朝会談の怪談でもちきりかもしれないけど、お気楽に旅の記録を綴ります。


旅立つ前夜、猫かわいがりしてたギズモが、ベランダで近所のボス猫に噛み付かれ大騒動。
屋内に逃げ込んだそのトラ猫は、ビビりまくってオシッコあちこち振り撒いて逃げた。
その掃除が大変だった。

そして旅の初日、関空に8:10am 集合。
もうすっかり心は旅モードに切り替わった写真から。

※昔の写真って、どれもこれも建物や景色の前に立ちはだかってるのばっかり。
もう時効だからいいかとアップすることに。
ブログ始めてずいぶんアングルが変わってたのを実感しました。




フランクフルト乗り換えでミラノに着いたのは夕方17:25
なんで時間まで分かるかというと、
旅の栞リーフレットもアルバムファイルに保存してるから。

旅の2日目、ベローナまで170km行って観光してまたミラノに戻る。
ベローナはいい街でした。
ロミオとジュリエットのあの有名な街です。


レイナルド ダ ヴィンチの最後の晩餐は完全予約制で、予約ないと見学できないのです。
サンタ・マリア・デッレ・グラッツィエ教会のなかの昔修道院食堂だった場所に描かれています。



どんな具合だったかほとんど忘れてるので調べてみた。

「最後の晩餐」の見学はグループごとになっており、
1グループ30人ほどが15分交代で見学するしくみになっている。
入口からこの食堂までは4,5枚のガラス戸で仕切られていて2,3分おきに新しいドアが開き、
徐々に「最後の晩餐」へと向かってゆくことになる。
次々とドアが開くたびに少しずつ緊張感が高まってゆく。・・・
続きはこちらで



ミラノからベネツィア近郊のメストレの街のホテルで宿泊。

次の3日目は午前中にベネツィア観光。
ここの教会は、サン・マルコ
外の浸水で心動かされ、中で何を見たか記憶ない。

昼食後、フィレンツェまでの途中にあるラベンナへ。
サン・ヴィターレ教会のモザイク画は素晴らしかった。

フィレンツェで連泊し、
旅の4日目まずはピサの斜塔は補修中で上に上がれなかった。
でも教会そのものも立派なのが想定外だった。


午後には走行距離110kmで シエナの街へ。



行くまで全く知らない街だった。
フィレンツェと対峙してた大きな街なだけあり歴史の重層が興味深かった。

旅の5日目、フィレンツェ花の聖母教会(サンタ・マリア大聖堂
ツアー40人はいたと思うけど、塔に上がったのはうちら2名の他1名。



友達が登ってる途中で酸欠でか気分悪くなってヒヤヒヤ。

ウフィツィ美術館でボッティチェリのヴィーナスの誕生とか春とか、ラファエロの多くの作品とか、短い時間ゆえ駆け足見学。


午後、また175km走ってアッシジへ。
サン・フランチェスコ教会のフラスコ画も圧巻だった。

またまた181km走ってローマへ。


だいたいイタリアの街は200kmまでで次の大きな街に行けます。
ローマ帝国だけでなく、いろんな時代の〇〇帝国の首都とかがあちこちにあって、京都と奈良がすぐ近いような感じ。

スペインやトルコの周遊と違って、数時間もかからずに次の観光地に着きます。
午前と午後で違う街を見て、教会行って、どこがどこやったか、教会の名前すら❓

毎晩ホテルで眠りにつく前に、
「今日はどこ行ったでしょうか」の確認テストしてました。
それでも16年も過ぎればほとんど忘却の彼方です。




ローマでは、ちょっと有名なサボイホテル連泊だった。



旅の6日目、ヴァチカン市国



大きな壁画ミケランジェロの最後の審判、これも現地行かないと見れませんものね。
天井画を手鏡に写して見てる現地の若いシスター見ました、なるほど〜

どっと疲れて外へ出て記念撮影。
後ろに花嫁さん写ってるのに今にして発見。

ローマ市内定番観光地、トレビの泉コロッセオ、そしてスペイン広場



ツアー代金底値の冬は、空は灰色で気温も低くて寒い。
そこへ雨降ったら最悪。
引ったくりに遭わないようバッグをしっかり小脇に挟んでめっちゃ肩凝ったし。


イタリアは情報も見学するものもいっぱい溢れてます。
さらにユーロに変わって間もない頃で、頭いっぱい目一杯の旅だった。

この機会にそんなこんなを懐かしく思い出せて、またしばらくは記憶に残ると思います。


*書き上げて画像見たら、「ここ行って来ました!」と言わんばかりの写真ばっかりでウンザリ。
被写体になるということは、撮影者はガイドさんや知り合いだけでなく、行きずり通りすがりだったりするわけで。
でもこれもあの時代の生き様だったんだと思い直し記録残しておきます。
アングルなんてどうでもよくて、行ったよ〜という証明写真を良しとする価値観を持ってたということですね。