浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

美術とことば

2025-02-08 16:43:51 | 美術

 昨日、芸術は何でもありであって、自由だと記した。美術の場合は、何でもあり、はその作品で示されなければならない。諸々の作品をもとに、それらから帰納的になにものかを、観る者は捉えるのである。

 今日、豊田美術館のパンフレットを読んだ。それには、展示されている「新印象主義とアナキズム」「モンテ・ヴェリタ:逃避と創造の地」「シチュアシオニスト・インターナショナルとアスガー・ヨルン」「ロシアと集団行為」「マルガレーテ・ラスペ」「コーポ北加賀屋」「オル太」「大木裕之」についての簡単な解説が載っていた。それらの多くは、写真などをともないながら展示場にも掲げられていたものだが、字も小さく詳しく読めるほどの展示状態ではなかったので、わたしは読まなかった。

 それら解説文を読んでいて、なかなか理解しがたい内容であると思った。

 「新印象主義とアナキズム」のところでは、シニャック、スーラらの絵画が展示されていた。彼らは点描画で新境地を開いたのだが、その解説に「絵の具を混色することなく、ひとつの色班をひとつの単位として、画面に均一に並べる新印象主義の絵画は、支配されることのない個々の自律とそれが織りなす全体調和という、アナキズムの理念の具現化ともみえる」とあった。スーラらがアナキズムと関係があったことをわたしは知らないが、点描という方法をそのように捉えることは、一面可能であると思うが、はたして画家本人はそのような意思をもっていたのだろうかと、ふと思う。

 「モンテ・ヴェリタ」はスイスにある。「真理の山」という意味だという。そこにいろいろな文化人や学者等(ヘルマン・ヘッセ、ユングなど)があつまってある種のサロンを形成していたようだ。展示場の写真を見ると、裸でダンスしていたりして、新興宗教の団体のように見えたが、そこは「逃避と創造の場」であったという。

 次は、「シチュアシオニスト・インターナショナル」。初見である。『美術手帖』のHPには解説があった。そのメンバーのひとり、アスガー・ヨルンの絵が展示されていたが、フムフムという感じでみた。ネットでは、彼女の絵をたくさんみることができる。アスガー・ヨルンについては、この解説がよい。上野俊哉氏の「ヨルンは労働より遊戯を、物質との遊びから得られる生の無意識の能動的享楽を肯定し、物質との目的のないコミュニケーションにアート(芸術と技術)の原理を置いている」は、なるほどと思う。そういう意味の絵画としてみることができる。

 「ロシアと集団行為」。無意味の中の意味、その意味はその場で創造されるのだ。それをネットでもみることができる。しかしその場で創造される「意味」が、多くの人にとっての「意味」かどうかはわからない。解説には「集団行為においては、集団と称しながら、その行為を決して等しく共有することができない。曖昧なゾーンでの出来事を、どうしてひとつの事実として語ることができようか。集団行為は、いくつものアクションを通じて、個と集団、個人の体験と記録の共有の関係を問い、記憶=歴史の記述を複数化することで、一つに回収されることへと軽やかに抵抗しつづける」とある。言われてみるとその通りであって、同じ行為を集団で行っていても、個人個人の動きは異なり、そこで感じることもそれぞれ異なり・・・・しかしこれって、当たり前のことじゃない?そういうところに着眼した点は感心するが、それがいかなる「意味」をもつのか。

 「マルガレーテ・ラスペ」以下についての言及は、もうやめる。

 ただ書いておきたいことは、芸術はその作品をみるのであって、展示されている作品からキュレーターの意図をさぐる。この展覧会のチラシ、パンフレットの記述、他者が理解できる文が並べられているわけではない。芸術をことばでもって表現することは、そもそも難しいのである。

 「近年、芸術を含むあらゆる場で、旧来の制度や差別への連帯闘争が試みられています。それらは切実な抵抗の態度であり、私たちを鼓舞する重大な拠り所となるものの、ゆえにこそ小さな個別の才を均してしまう危うさと隣り合わせにあるものともいえます。このギリギリの状況において、私たちのこの表現や日常的な振る舞いは、いかに一つに回収されることなく共存し、それでも抵抗の力を持ちつづけることができるのでしょうか。そのそれぞれの試みがアナキズムの実践だと言えます。」

 これはチラシに書かれていた文である。「旧来の制度や差別への連帯闘争」ということばがわからない。「旧来の制度や差別するものに対する闘争への連帯」というのならわかる。

 芸術はことばでは説明できない。説明できないからこそ、作品が適切に並べられていなければならない。

 この展覧会、一部では評価が高いようである。わたしは評価はしないが、受容することはできた。

 

 

 

 

コメント
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