亡くなった安倍晋三が政治権力を掌握して以降、パブリックな場でも、明白な虚偽を語っても、嘘をついても、シラを切り、ウソをつき続ければ「平気」という風潮が生まれたように思える。
かつては、パブリックな場では「良識」が支配するという状況があったように思える。
しかし安倍晋三は、その「良識」が基調となるパブリックな場を、そんなことはどうでもよい、という状況に変えた。すなわち、「良識」の場としてのパブリックを、安倍は破壊した、といえるのだろう。
最近の、兵庫県知事選、それにまつわるその後の動向を見ても、まさに「良識」が消えているように思う。それはテレビなど、公共メディアでも繰り返されるようになり、日本の公共の場は、「良識」がなくなってしまったというしかない。
こうなると、あまりに反良識的な意見、それはSNSを中心に跋扈しているようだが、それらは警察権力などにより取り締まらざるを得なくなるのだろうか。
わたしはこの背景には、社会を構成する個人が、個々バラバラになっている、という状況があるのではないかと思う。バラバラになった個人が、SNSという公共空間に接していて、そのまま、即時的に、その公共空間に、その場の思いつきや嘘や暴言など、どんなことでも発信することができるようになったことにあるのではないか。
そういうものがない時代には、個人が周囲にいる人びと(そこには異なった意見を持った人びともいたはずだ)と、一定の話し合いや確認作業をへて何らかの公共空間に言論として発していたのではないか。
いま、国家権力と個々の人びとの間には、社会集団、社会組織がなくなっている。時に、個々バラバラの個人が群れることはあるかもしれないが、そこには議論はなく、ゆるやかな「合意」だけが存在する。
パブリックな場に於いても、「良識」なんていらないんだ、という風潮を、時の首相が始めたのだから、こうなるのは、しかし必然でもあったのだろう。