浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

【本】大野晋『日本人の神』(河出文庫)

2014-02-02 22:46:07 | 読書
 今日届いた本であるが、一日で読んでしまった。大野晋は国語学者、岩波書店の『古語辞典』の編纂者でもある。ボクはこの辞典が発売された時購入し、他の古語辞典は捨てた。大野晋の岩波新書などの本をいろいろ読み、大野学説に親近感を抱いたからだ。他の古語辞典は終止形で語が掲載されているが、大野の辞典は連用形である。

 さて本書は、日本のカミに関わる歴史的な変遷を、大野の豊富な古典文学の知識を背景にして追究したものだ。

 カミについての歴史的説明で、近世の国学の意義がよく理解できた。国学者の中でも本居宣長がやはり秀逸であったようだ。もちろん時代的制約もあり、「天皇家の統治の正当性を主張しようと整理し編集された『古事記』の内容を、彼はそのまま事実と受け取り、弥陀のの本願に帰依するように、それを信じてそれに従い、それを守ろうとした」(99頁)。

 『古事記』の成立に関する歴史研究は、津田左右吉の登場があってなし遂げられたのだが、本居はその認識に到達できなかった。仕方ないことである。

 しかしその本居が切り開いた説が、この後政治的な変動と直結するようになる。

 ところで、本書で大野はカミという語が指し示すものは何かを調べて明らかにしたのだが、そのカミという語は「輸入語」であるというのだ。上代仮名遣いでは、上のカミや鏡のカガミの「ミ」と、神の「ミ」とは語源が異なり、「カミの語源を日本語の内部に求めることは不可能」(13頁)とし、大野はインド南部のタミール語にそれを求める。このタミール語説はにわかには信じられないが、本書に書かれている内容は、日本の神に関して基本的な知識を与えてくれる。

 ボクにとっては、とても参考になった。
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カミ

2014-02-01 11:54:26 | 読書
 井上ひさしの戯曲「闇に咲く花」は、神社の戦争責任を問うものになっている。出征して行く者は、ほとんどが地域の神社に参って出て行った。神社は、戦死者を生み出す場として存在していたというわけだ。

 その神社の集大成が靖国神社であるが、本来神社というのは死を穢れとみなし、穢れを遠ざけていたはずだ。しかし、近代日本は、招魂社=靖国神社をつくり、戦争での死者を、といってもすべての戦争死者ではなく、天皇制国家が取捨選択した者たちだけを神として祀り始めた。空襲で亡くなった民間人は、同じ戦争死者であるにも拘わらず、祀られもせず、補償もされなかった。軍人などには、その階級に応じ手厚い補償がなされてきたにもかかわらず、である。

 台詞に、「過去の失敗を記憶していない人間の未来は暗いよ。なぜって同じ失敗をまた繰り返すにきまっているからね」がある。果たして、神社は過去の失敗を記憶しているのか。

 さてその神社神道であるが、それがなかなか掴めない。今ボクは、それを考えようとしている。

 国語学者の大野晋が『日本語をさかのぼる』(岩波新書)を出している。それによると、カミの古形はカムだったという。そしてカム →カミは、「恐怖、畏怖、畏敬の対象ではあっても、人間的な交渉を持つ対象とは全然思われていない。雷、猛獣から始まって、山や川の通行をおびやかす存在とされており、支配者としてのカミも、恐ろしい存在としてしか把握されていない」(197頁)という。

 しかしそのカミは意味を変じていく。なぜか。ホトケが入ってきたからだ。ホトケは、もともとはBuddahaである。それは「浮屠」、「仏」のちには「仏陀」と音写された。日本語には濁音で始まる語はなく、すべて母音終わりであるから、ホトと読まれ、それに「目に見える形」を示す接尾語ケがつけられた(例:「さびしげ」、「かなしげ」のケ)。ホトケである。「ホト+ケ」は、すなわち、「仏の形」=仏像なのであろうと大野は推測する。

 そしてそのホトケは、カミと異なり「人々によって親しまれ、頼られ、困ったときには教示を与えてくれるものとしてみられている」(198頁)。

 このホトケがはいったことから、「非人間的性格、猛威のみあって人間的な情愛に欠けるカミは、平安時代には粗暴とか、人間以下の妖怪という意味に転落し、人に慈悲をたれるホトケの下に置かれたのである」(201頁)。

 大野は、「日本民族は、ホトケが広まる以前には、人間としてのさまざまな苦しみを人間一般の問題として救済してくれる大きな力を持たずに生きていた」、「人間世界に対して最大の力を持っていたカミも、最大の恐怖の対象であったにとどまり、その力が積極的に人間を愛し、あるいは許し、救済するという方向に発展するには、ホトケとの融合を待たなければならなかった」(201頁)と指摘する。

 そして幸福にあたるサチを分析するなかで、大野は、古代日本人の感性をこう記す。

 古代の日本人は、猟による幸福と農作による幸福とを享受していたのであり、それらの収穫が豊かでありさえすればそれをもって幸福と考え、それ以上の心の苦しみの救済などは考えていなかった

 ウーム、これは今の日本人にも通用する感性ではないかと思ってしまった。
 
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石川啄木

2014-01-29 17:26:53 | 読書
 先日あのNHKで放映された「足尾から来た女」をみた。すべてフィクションであるそうだが、そこに石川啄木がでていた。

 暇になったら読もうということで、ボクは『石川啄木全集』(筑摩書房)を買ってある。まだ読んでいないので、そのきっかけをつくろうと、井上ひさしの戯曲「泣き虫なまいき石川啄木」(『井上ひさし全芝居』その四 所収)を読んだ。

 しかし井上作品にみられる時代(現代)との格闘が見られない。なぜだろうと思って解説を読むと、この作品を書いている頃、井上ひさし氏には家庭的な重大問題が生じていたとのこと。その重大問題の内容が、作品の内容に投影されていた。

 時代との格闘に挑戦する精神的ゆとりがなかったのだろう。

 しかしこの作品を読み、啄木の日記を読もうという気持ちになった。明日書庫に行って持ってこよう。なお『井上ひさし全芝居』その四は、図書館から借りたもの。なかに「きらめく星座」なども収載されているので、暇を見つけて読み進めるつもりだ。
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【本】井上智勝『吉田神道の四百年』(講談社)

2014-01-28 13:31:32 | 読書
 いろいろなことを学ばせてもらった。学ばせてもらったこと。

 吉田神道(唯一神道)とはどのような神道であるのか。
 神社への位階付与はどのようになされるのか。
 吉田神道が地域の神職とどのように結びついていたのか。
 吉田神道がどのように勢力を広げていったのか。
 吉田神道に対する勢力はどのようなものがあったか。
 一村一社などの神社統合は、近世でも行われていた。

 これらのことが、京都弁や名古屋弁をとりまぜた引用で、たいへんわかりやすく書かれていた。

 幕末期、遠州地方では吉田神道との連携により、神職のヨコのつながりができていったが、その吉田神道がどのように地域と結びついていたのかがよくわからなかったが、この本でなるほど、と思った。ただし、この遠州地域の神職と吉田神道とが具体的にどういう関係をもっていたかはまだ調べてみないとわからない。理解の入口に立ったということだ。

 一般的に、寺院の研究はあんがいあるのだが、神社についての研究はあまりないので、とても参考になった。

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「適正水準の専門知識を通じて濾過する」

2014-01-26 21:17:12 | 読書
 東京大学の憲法学者、長谷部恭男について、先日言及した。

 彼は、朝日新聞が発行している『Journalism』2014年1月号に寄稿している。「憲法96条と集団的自衛権 軽はずみな考えで変えてはならない」という、長い題の文である。内容は、日本国憲法を簡単に変えてはならない、という題通りのもので、その立論は明確であり、その論理も概ね首肯できるものだ。

 「現時点での有権者団の判断は、永続する団体としての国民の利益に関する正しい結論と一致するとは限らない」という指摘は、その通りであって、だからこそ簡単に変えられないような仕組みを憲法は持っているのである。

 また、集団的自衛権についても、その「否定は、日本にとって賢明な外交上の保険として機能してきた」と正当な評価を下す。

 これらの論点については、別段問題にする気はしない。

 だが最後に、秘密保護法に関してメディアに難癖をつけているのだ。『朝日新聞』をはじめとしていくつかのメディアが反対の姿勢を維持していたことを批判しているのである。

 その結論部分が、「適正水準の専門知識を通じて濾過する」であって、つまり秘密保護法を批判するなら、「適正水準の専門知識を通じて濾過して」報道せよ、というのである。

 その具体的な反論部分がこれだ。

 特定秘密として何が指定されているのかがわからない、という前提で批判を進めておきながら、たまたま秘密に触れた一般市民が重罰を科される危険がなぜあるのか、(特定秘密であることをそもそも知らないはずなのに、故意の立証が可能なのか)、最高裁の判例の趣旨を敷衍しただけの文言である「著しく不当な[取材]方法に関して、それが曖昧だという批判がどれほどの意味を持つのか、(それとも、正当な取材方法が何かを法律の条文でいちいち規定してもらわないといけないほど、ジャーナリストは子どもなのか、同様の制度を備えたアメリカ合衆国で、例えば9・11テロについて、どこで誰がどのような情報を得てテロを阻止しようとしていたかを克明に記したノンフィクションが多数出版されていることを、どう説明するのか、(日本のジャーナリストにそれほどの実力はないということか)と首を傾げざるを得ない批判論が、毎日繰り返されていた。

 ボクは、長谷部のこの反論を読んでいて、まずおめでたい人だなあと思った。大日本帝国憲法下、治安維持法を含めて治安立法がたくさんあったが、その運用は法律の条文通りになされていたと思っているのだろうか。そこに拡大解釈はなかったか、法律に基づかない弾圧や抑圧はなされなかったか、そういう事例は無数にある。たとえば政治学者・丸山真男は逮捕されて豚箱に囚われの身となったが、それは適正であったのか。
 長谷部には、そういう歴史の知識がないようだ。

 「著しく不当な取材方法」であるかどうかをまず判断するのは、警察権力であろう。それが裁判になって無罪となったとしても、取材者は莫大な損失をこうむる、そういう想像力はないのだろうか。

 長谷部の憲法学は、国家に対する無原則な信頼が基盤になっているようだ。19世紀の政治家であり思想家であったアクトンは、「権力は腐敗する、専制的権力は徹底的に腐敗する」という重要な格言を残しているが、長谷部は国家権力を信じて疑わないようだ。

 長谷部には、この同じ号に掲載されている、保阪正康や藤田博司の文、そして昨年12月号の特集「国家・報道・自由」に関わる諸論考を読んで欲しいと思う。

 なお、長谷部は、9・11に関するわけのわからないことを記しているが、9・11は、起きてしまっているのだ。紹介されているノンフィクションは、たった一冊。それも英文の本だ。「俺は読んだぞ」とでも言いたげな紹介の仕方。

 しかしボクは、長谷部にこそ、「適正水準の専門知識を通じて濾過する」ことが必要だと思う。
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学問の意味

2014-01-26 12:26:39 | 読書
 『丸山真男回顧談』上(岩波書店)を読み終えた。この本を読むのは2回目。買ったときに読み、そして今回。

 ボクが何らかの研究をするとき、常に「現在」を見据える。「現在」がいかなる課題を持っているかを考え、そして研究テーマを決める。

 今ボクの頭にある主要なテーマの一つは、「国体論的国学」である。これを撃つこと、である。この「国体論的国学」は、戦時期に大きな力をもった政治思想である。丸山真男が『日本政治思想史研究』(東大出版会)も、これと対決すべく研究したものであった。

 丸山は、こう語る。

 いまみたいな時代に学問するということは非常に難しい。そういう時代だということですね。つまり、対決するものがないわけです。時代がそうなっている。一応なんでも言えます。とくに学問的論文ならなんでも言えるでしょう。学問的立場もいろいろあって、支配的な主張といったようなものはあまりない。要するに、ただ対象を研究するというだけになる。とくに社会科学をやるのに非常に難しい時代になっているのではないですか。

 しかし、今は「対決」すべきものはある、とボクは言おう。おそらく丸山も今生きていたら、同じことを言うだろうと思う。ただし、問題なのは、その「対決」すべきものの正体が不明確とでもいおうか、きちんとした形をもっていないということだ。「政治思想」などと呼べる代物を、「対決」すべき相手はもっていないのだ。

 子どもの頃、親に連れられて、怖い映画を見に行ったことがある。それは「液体」的なものが人間を溶かしていくというものだ。今は、その「液体」的なものが、政治的な動きの背景にあるようだ。その「液体」のなかには、理想とか希望といったものは皆無である。そうではなく、憎悪とか不定型な憤怒とか、いらだち、貧しさ、孤立、不満など、現在の世の中に対する否定的な感情、それがある。そうした感情を抱いている者たちと、現政権を構成している人々との間には共鳴板があるようなのだ。

 理性のトンネルをくぐり抜けることなく奔出する情動、それらは今はネットの世界に一応は閉じ込められてはいるが、その堰を取り除こうとする力が働いている。その力とは、「積極的平和主義」であり、「集団的自衛権」である。その先に何があるのか。

 丸山はこうも語る。

 ファッショというのはどこでもそうで、軍部がそうだけれど、厳格な実定法主義の立場からみたら許しがたい勝手なことをやる。あとで、それを法律で正当化するけれども、その時々においては法を破っているわけです。

 ファッショということばが、どうしても浮かび上がってくる。
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【本】安斎育郎監修『ビキニ水爆被災事件の真相』(かもがわ出版)

2014-01-25 16:27:47 | 読書
 胃腸の調子がよくないので、午前中、医者に行った。そこで買ったのが本書。ボクのかかりつけの医者は、聞間医師。ビキニの被爆者問題などをずっと前から取り組んでいる医師だ。

 診療が終わるやいなや、これを買って欲しいと言われた。刊行年月日は、今年の2月1日。おそらくできたばかりの本だ。

 今年は、第五福竜丸被曝60年。中高校生向けに書いた本だといわれた。A5版、80頁に満たないうすい本だ。帰宅してすぐに読んだ。

 第五福竜丸問題に関わる問題が、短く要領よくまとめられている。なかには焦点が絞られていない項目もあったが・・

 ビキニ水爆実験と第五福竜丸の被曝、それに関するアメリカの対応など、知っておくべき内容はほとんど盛り込まれている。ただ、一応福島原発事故に触れてはいるが、この時期、原発問題についてもう少しスペースを確保したほうがよかったのではないかと思われた。

 そうではあっても、読んでおくと便利である。

 なお誤植を3カ所見つけた。

 8頁 下から10行目 「二人の乗組員を・・・・翌朝には・・・東京大学医学部付属病院受診させる」  

 30頁 3行目 「全員が故郷を捨てを捨て」

 66頁 下から11行目 「ニューヨークで最大の教会で、」→「ニューヨーク最大の教会で」
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【本】保阪正康・半藤一利『そして、メディアは日本を戦争に導いた』(東洋経済)

2014-01-25 08:14:43 | 読書
 この本は、メディア関係者だけではなく、この社会の行き先を憂う人にも読んでもらいたい。

 最近ボクは、本を読むときは付箋をつけていくが、読み終わったら付箋だらけになってしまった。

 保阪氏も半藤氏も、現在の社会状況、メディア状況に危機感を抱いている。半藤氏は、自民党の憲法須案を読んで「驚愕」し、その草案が掲載されている新聞を破り捨てたそうだ。

 特に人権制限の語句として「公益及び公の秩序」が記されていて、これは「権力者の利益」と同義であり、「(昭和戦前期の歴史を知れば)権力を掌握するものがその権力を安泰にして強固にするために、拡大解釈がいくらでも可能な条項を織りこんだ法をつくり、それによって民草からさまざまな「自由」を巧みに奪ってきたことが、イヤになるほどよくわかる。権力者はいつの時代にも同じ手口を使うものなのである。」と半藤氏は語る。

 半藤氏も、保阪氏も、今現在が、その「昭和戦前期」と似ていると思っている。まさにボクの認識と一致する。

 だからこそ、2人はジャーナリズムに期待するのだ。

 ジャーナリズムの健全さ、自由闊達さこそが政権のあり方を監視し、制限、国家を支えるための根幹なのである。

 ところが、ジャーナリズムの職に就いている者たちが「不勉強すぎる」と、まず慨嘆する。「いまの人たちは知らなくて当然という顔で取材しています」。

 メディア関係者も考えない、国民も考えない。だから「昔のように時間をかけて出来上がるファシズムではなく、あれよあれよという間に実現してしまうファッショ化ということはあり得る」。

 ボクも同じような危惧を抱く。というのも、もし尖閣諸島地域で日中の武力衝突が一度でも起きれば、日本人の不健全な大国ナショナリズムが噴き出し、一気に安倍政権が望む時代へと突入していくのではないかと思うのである。

 現在の国民がダメなのではなく、いつの時代も庶民は政治のことなんか、平和のことなんか真剣には考えてこなかった。

 今、『読売新聞』が購読者数で、全体的な発行部数は減っているようだが、トップである。その『読売新聞』は、『産経新聞』と並んで、威勢のいい放言で安倍政権と同一歩調を歩んでいる。しかし、いつの時代でも、好戦的な新聞が部数を伸ばしてきた。

 日露戦争の際、内村鑑三、幸徳秋水らを擁して非戦論を唱えていた『万朝報』が、戦争推進に変わったのは購読者が激減したからだ。他方、戦争推進新聞は、購読者数がぐんぐん伸びていった。

 戦争は、少数の政治家が国民を泥沼に引きずり込むのではなく、国民のナショナリスティックな嗜好が好戦的な政治家を支え、その政治家の跳梁をつくりだすのだ。

 9・11の事件直後の、アメリカ人の好戦的な熱狂を想起しよう。

 半藤氏はこう語る。

 日中戦争、あるいは太平洋戦争へと突入してしまった昭和の一桁の時代のリーダーたちというのは、かつての日露戦争の経験者ではないんです。つまり、「勝った、勝った」で日本人は世界に冠たる民族だと、日露戦争の栄光だけを背負って、あの時代の悲惨や悲劇、民衆的な苦しみというものを全然知らな人たちが国のトップに立っていたんですね。字義どおり夜郎自大の指導者たちです。
 それが昭和5年から8年、10年と、これから話に出てくる時代なんです。

 同じようなことがいま、起こっています。戦争の悲惨さを全く知らない、そして戦後民主主義の時代に腹をぺこぺこにして、汗と涙で苦労して国をつくってきた体験のない人たちが、ちょうど、現在のトップにいます。本当に皆さん、良い家のお坊ちゃんたちで、苦労知らずにそれぞれのいい環境で出てきて、天下を取りつつある、歴史というのは、そういう意味ではあまり変わらない。


 この後の引用や説明はしないが、現在の政治/文化状況への危惧を、お二人は縦横に語っている。学ぶところ多い本である。

 近現代史を勉強してきたボクは、お二人と同様に現在に「戦前」を感じる。


 
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御前崎市役所から

2014-01-23 11:17:35 | 読書
 旧浜岡町の原発関係資料の閲覧を求めていたが、その資料が、保管をしていた教育委員会から本庁に移されたということで見られなくなっているとい電話連絡があったことは、このブログでも紹介した。

 すると今日、ボクが送った申請書が返還されてきた。

 そこに付されていた1月16日付文書。


 さて、貴殿から『特別利用許可申請のあった「原発関係文書」は、現在貸出中であるため、貴殿の申請を受付けることができません。
 つきましては、特別利用許可申請書を返却させていただきます。


 「貸出中」というのは、『中日新聞』で広く報道されたため、御前崎市役所の担当部署が「精査」しているためである。もう永遠に見られないかもしれない。

 
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【本】荻野富士夫『特高警察』(岩波新書)

2014-01-23 10:55:01 | 読書
 荻野氏が蒐集した資料をもとに、特別高等警察の歴史を俯瞰したもの。ただし警察や内務省などが発行した資料をもとにして記述しているため、どうしても制度的、運用方法などに傾き、具体的な事例を記しているわけではない。特高警察により、小林多喜二や野呂栄太郎など、拷問により虐殺された者も多い。しかしそういう具体的な事例については、記述がほとんどない。それは、本書の目的がそういうところにないから仕方がないのだが・・・。

 読むべきは最後のほう。ナチスドイツのゲシュタポとの比較のなかでの、この記述に「なるほど!」。

 特高警察は思想検察の主導した「転向」施策には消極的で、拷問を含む厳重な取調べと処罰こそ運動からの離脱や思想の放棄をうながすという立場にたっていたが、その大前提には思想犯罪者といえども「日本人」であるゆえに「日本精神」に立ち返るはずだという見通しがあった。(188頁)

 
 そして「特高警察の「解体」から「継承」へ」という、戦後の章は、読みどころがあった。

 戦後治安体制は、「1950年代半ばまでに」確立した、という指摘はその通りだと思う。そうした動きを静岡県というフィールドで検証してみたいと思う。

 
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【本】上田誠吉『ある北大生の受難 国家秘密法の爪痕』(花伝社)

2014-01-21 16:10:22 | 読書
 朝日新聞社が発行している『Journalism』を購読している。ジャ-ナリズム精神をほぼ喪いかけている朝日新聞社がこういう雑誌を発行していること、これは「贖罪」なのかと思ってしまう。

 だが掲載された文には、読む価値があるものが多い。12月号は、その特集が「国家・報道・自由」である。巻頭には、外岡秀俊氏の「秘密保全の法律がいかに濫用されたか 現実を直視しよう」である。この文を読み、この本を知った。

 外岡氏は、もと朝日新聞記者。外岡氏はまさにジャーナリストとしてジャーナリズムの世界を生きてきた。つまり批判的な精神を失わずに、新聞界を生きてきた人である。

 さて本書の紹介に入る。

 1941年12月8日、北海道大の学生が逮捕された。軍機保護法違反の罪だ。彼は旅行が好きで、千島や樺太、「満州」などを歩いた。そして彼の先生であり、とても親しいクエーカー教徒の英語の先生夫妻(アメリカ人)がいた。日常的に行き来していた彼と、その先生夫妻が逮捕されたのだ。

 裁判の結果、北海道大学の学生・宮沢弘幸は懲役15年。そして先生・ハロルド・レーンも懲役15年、その妻ポーリンは懲役12年であった。軍機保護法違反であった。

 もちろん、全くのえん罪である。宮沢は、旅行の見聞をレーン夫妻に話した、いや話したという記憶もあるわけではない。特高がそのようにしたのだ。

 たとえば根室に海軍飛行場があるということ(「軍事機密」?)を話したという。だが、これはアメリカの有名な飛行家・リンドバーグが10年前にそこに着陸し、アメリカの新聞などにも書かれていた。そこに海軍飛行場があるということがなぜ「軍事機密」になるのか。だが特高はもちろん、検察も裁判所もそう認定した。

 「右軍事上の秘密は、法規若くは官報を以て公示せられ、或は海軍に於て公表されざる限り、依然保持せらるざるべからざる趣旨」であって「軍機保護法により保護せらるるもの」だというのである(「大審院判決」)。

 このえん罪事件に関わった者たちは、戦後最高裁判所の裁判官になるなど一切の咎めを受けていない。司法界に戦争責任追及の動きはなかった。

 この事件は、国家権力が、いずれ交換することを予想して、レーン夫妻を重罪とすることによって、在米の日本人スパイと交換できるようにでっちあげた公算が強いようだ。懲役15年というのは、ゾルゲ事件の次に位置するほどの重罪である。

 しかし、ただ単に旅行好きの学生と米国人教師夫妻が札幌にいて、彼らが交流しているという事実だけで、事件を創作してしまう。そして自らが創作した筋書き通りの証言を得るために、駆使されたのが拷問であった。

 宮沢弘幸は、戦後、獄中で結核となりやせ衰えて、27歳で亡くなった。レーン夫妻は、いったんはアメリカに送還されたが、戦後再び北海道大学にきて教鞭を執った。

 何が秘密かわからない、という秘密保護。日本は、「戦前」へと戻りつつあると思うのは、ボクだけだろうか。

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【本】森達也『クラウド 増殖する悪意』(dZERO)

2014-01-19 16:36:02 | 読書
 実を言うと、彼のドキュメンタリー作品は見たことがない。おそらくドキュメンタリーこそが彼の主要な仕事なのだろうが、ボクは見たことはない。ボクは、彼の発言ばかり読んでいる。

 彼の発言はクリアだ。そして本質をずばりと衝いている。この本も、遊びはない。おそらく直球ばかりだ。だからこそ、小気味が良い。

 読んでいて、学ぶところがある。同感するところが多い。彼もボクも、今の社会を憂えているからだ。

 さてこの本、たくさんのテーマを扱っている。どのテーマについても、ボクが見るところ、まっとうな視点からの記述となっている。

 まず彼は水俣を訪れている。ボクも未だ訪れたことがない。7月に九州に行くことになっているから、そのときには必ず寄るつもりだ。彼は石牟礼道子さんに会っている。そして『苦海浄土』に言及し、これだけを引用している。良い文だから、ボクも引用する。

 昔の言葉は織物のように生地目があって、触れば指先で感じることができたのに、今の言葉は包装紙のようにガサガサとうるさくて生地目がないの。

 これは知らなかったのだが、1980年代以降、確定死刑囚の再審に裁判所は耳を傾けなくなっている、という事実。彼の指摘ではじめて気づいた。免田事件や島田事件で、えん罪が明らかにされたことから、「組織防衛」のために、再審を認めなくなっているというのだ。そういわれてみれば、名張葡萄酒事件や袴田事件も、最終的に裁判所は常に再審を却下している。司法機関の国家意思を感じる。となると、袴田事件も・・・日本の国家は反省をしない。反省しなくても、国民が抗議しないから、それが可能となる。

 また彼が教える学生たちは、笑うときに必ず顔の前で手をたたく、という。ボクはそういう場面をテレビで見たことはあるが、それ以外では知らない。彼は、学生たちのそうした所業は、メディアから「感染」したという。バラエティ番組からの「感染」という事態をもとに、日本人の集団への同調性を指摘する。そうかもしれない。多数派への同調性は、とても強い、そういう国民だ。

 「在特会」について、「(そこに)集まる若者たちに特定の政治性やイデオロギーはほとんどない」(104頁)と指摘する。その通りだと思う。この文の題は、「悪意や憎悪が正義や善意の鎧をまとう」。彼らに何らかの憎悪があるのだろうとは感じる。その憎悪を彼らは排出する。排出するものをみると、そこには何もない。きちんとした理性的な検証もなにもない。あるのは、ネットで知った根拠ない事実である。その事実をもとに悪罵を書き付ける。

 今浜松で起きている小学生たちがノロウィルスに感染する事態が起きている。ボクもこれについてはメディアなどに報じられていない事実をつかんでいるが、公表するのはやめた。なぜか。この事件に関する2チャンネルを読んだら、「ノロウイルスは韓国起源」など、根拠なき悪罵がいっぱい記されている。きっと当該会社には、攻撃的な電話がたくさんかかったいるのだろうと思う。通常の会話ではでてこないようなことばが記され、そこには「悪意」しかない。まさに「悪意」が「正義」の弊衣を身にまとっているとしかいいようがない。ネットは、人々の奥深い「悪意」や「憎悪」をおもてに出すツールとなっている。

 このほか、個々で紹介したい論点は無数にあるが、長くなるので一つだけ。以前ノルウェイで、島にきていた若者77人を殺害するという事件が起きた。その事件にノルウェイの人々がどう対処したのか(「なぜノルウェーは77人殺害犯許せたのか」)を読んだとき、彼我の人間理解に関する「差」を感じた。ノルウェイの高官が語ったことをここに記しておく。

 ほとんどの犯罪には三つの欠落が関係しています。まずは幼年期の愛情の欠落、次に成長期の教育の欠落、そして現在の貧困。つまり金銭的余裕の欠落。このうちどれか、場合によっては複数が、犯罪の背景にはほぼ必ず存在しています。ならば犯罪者に対して社会が行うべきは苦しみを与えることではなく、その欠落を補うことなのです。だってこれまで彼らは十分に苦しんできたのですから、苦しみを与えることに意味はないのです。 

 この本、是非読んで欲しい。参考になるところが、ほんとうに多い。


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ひとつの事態

2014-01-16 16:33:46 | 読書
 今年の元旦から、『中日新聞』は、浜岡原発にかかわるカネの流れについて、3回報道した。その際に使用された資料は、私が所属している静岡県近代史研究会会員が調査してきたものである。


 たとえば1月7日の「中日春秋」。

ある米国の作家は、言った。「金持ちというのは、私たちとは違う。彼らは私たちほど、税金を払わないのだ」。きっと異論のある高額納税者の方も多かろうが、源泉徴収の額に吐息を漏らすサラリーマンは、うなずいてしまう言葉だ▼そのため息とともに納められる税金が、一兆円も投じられる会社がある。東京電力だ。そんな経営危機にある会社が、海外に二百十億円も蓄財しているのだという▼免税制度をうまく使ってのことで違法ではないらしい。だが、自分の蓄えはそのままに、他人の懐をあてにするというのは、「私たちとは違う」感覚の持ち主としか言いようがない▼中部電力は、浜岡原発の地元・旧浜岡町(現静岡県御前崎市)に、七十億円以上もひそかに寄付していたという。

 まこと気前のよい話ではあるが、そのお金とて、元は電気料金として私たちが払ったもの。消費者や住民が知らぬところで巨額のカネが動く、その不透明さ▼秘密の寄付は、原発の建設にあたり、地元の合意が必要だったころに行われたそうだ。カネにものを言わせたと受け止められてもしょうがないだろう▼増税ラッシュと公共料金の値上げに苦しむ身にしみるジョークがある。これも米国の作家の言葉。<カネがものを言う、ということを私は否定しない。現にカネがこう話すのを、私は聞いたことがあるのだ。「さようなら」とね>


 そしてこれ。1月9日の記事。

基金35億円 町内に分配 旧浜岡町、中電寄付など
  2014.01.09 第2社会面 

 中部電力浜岡原発の立地する静岡県の旧浜岡町(現御前崎市)が、中電からの寄付金などを積み立てた基金三十五億円を、合併で市になる二〇〇四年の直前に、町内全六地区に分配していた。市は各地区の金の使い道を把握しておらず、専門家は「公金の扱い方として放漫だ」と指摘する。

 町は3号機の増設に同意した一九八二年、条例を制定し、地域自治振興基金を創設。町は同意時に、公表した寄付十八億七千万円に加え、非公表の寄付二十九億二千八百万円を受け取る約束を中電と交わした。

 中日新聞が入手した当時の町の文書には、公表・非公表の寄付の双方から計二十三億二千五百十二万円を基金に充てる計画が示されており、八二、八三の両年に分けて、実際に同額を積んだ。基金は当初から各地区の持ち分が決まっており人口などに応じ12~27%の割合が定められていた。町の決算書によると、九八年に十五億円を増額するなど基金残高は三十五億円に達した。合併時の町の人口は二万三千人で、一人当たりにすると十五万円に上る。

 合併直前の〇二、〇三年に基金を取り崩し、全額を分配した。基金設置当初の割合だと、四億~九億円が各地区に渡った計算になる。千九百世帯の地区の口座には、町から〇三年五月に六億四千五百三十四万円が振り込まれた。

 当時の浜岡町議の一人は「合併で旧御前崎町と一緒になるのに、そんなもの持っていたら混乱する」と話した。御前崎市財政課の担当者は「少なくとも市になってから分配後の管理はしていない」と話した。中日新聞は一三年十一月下旬に六地区に書面でアンケートをしたが、使途を回答した地区はなかった。

 対応極めてルーズ

 京都府立大の川瀬光義教授(地方財政)の話 基金の取り崩しや各地区への分配は、議会の了解を得ているはずで、手続き上の問題はないのではないか。ただ、公金である以上、自治体が分配先に対して使途の報告を求めず、使途を把握していないとしたら、極めてルーズとしか言いようがない。


 そして1月1日の記事。

浜岡増設で53億円約束 地元町に 中電、公表せず寄付
 
 中部電力(名古屋市)が浜岡原発3、4号機の増設同意を、立地する旧浜岡町(現静岡県御前崎市)から得た一九八〇年代、公にした寄付金三十六億円とは別に、公にしない五十三億円を支払う約束を町と結んでいた。町が秘密扱いにしていた文書を本紙が入手。当時の町長は「金額を大きく見せたくなかった」と話し、寄付金とは別の「分担金及び負担金」の項目で会計処理していたと説明した。

 中電と町は3、4号機の増設同意時に「協定書」を交わし、3号機の八二年八月に十八億七千二百万円、4号機の八六年四月に十八億円の寄付金(協定書上は協力費)を中電が町に支払うと公表していた。

 入手したのは御前崎市教委保管の旧浜岡町分「原発関係文書」で、七〇~八七年度の中電との金銭授受を示す文書が含まれている。存在を公にしない「確認書」「覚書」があった。

 3号機の協定書を交わした八二年八月の同じ日に、協定書分に加算して二十九億二千八百万円を支払う確認書が交わされた。確認書には、町の地域医療の整備計画が具体化した時点で「別途町からの要請に基づき応分の協力措置をとる」との記述がある。八四年十二月に地域医療整備への協力名目で十七億円の寄付の覚書を交わしており、確認書に沿ったとみられる。

 4号機でも協定書と同じ日に六億八千百万円の確認書と十七億円の覚書を交わした。

 七五年から十二年間、町長を務め、協定書や確認書、覚書に調印した鴨川義郎さん(86)は非公表を「中電側の意向。隣接自治体の嫉妬があり派手に見せたくなかった」と話した。

 確認書などに沿った実際の支払額は「覚えていない」と語ったが、数年に分けて「分担金及び負担金」の項目に振り分け、寄付金を少なく見せたと認めた。

 町の決算書では、確認書や覚書を交わした年から数年間、それまで数億円規模だった分担金及び負担金の額が十数億円に増えた。御前崎市は「寄付を隠したかは分からない。負担金を規定する条例が見当たらず、その点で不備があったかもしれない」と説明する。

 旧浜岡町が中電からの寄付金を決算の歳入で振り分けた「分担金及び負担金」は、自治体の事業の一部を受益者が負担する制度で、通常は保育料や住民から徴収した下水道整備費の一部などが入る。地方自治法は分担金について「(事業で)特に利益を受ける者からその受益の限度において分担金を徴収することができる」と規定。事業ごとに個別の法や条例に基づいて徴収する。分担金と負担金に明確な区別はない。

 中電広報部の話 要請に基づいて協力金を出すことはあるが、相手のあることであり、個別具体的な内容については回答を差し控える。

 本来は公表すべきだ

 名城大都市情報学部の昇秀樹教授(地方自治法)の話 分担金・負担金に全く性質の違う企業の寄付金を入れることは極めて不適当だ。違法とされてもおかしくない。一方、自治体に寄付を公表する義務はなく(非公表自体は)違法とはいえない。ただ民主的行政を目的とする地方自治法の精神から見て好ましくない。公表しなかった寄付は、増設受け入れの判断に影響したと考えられる金額で、本来は主権者である住民に明らかにすべきだ。



 ボクは、これらの報道によって、今まで御前崎市(旧浜岡町が合併した)が公表していた資料が非公開になってしまうのではないかと思い、御前崎市教育委員会に対して文書調査の「申請書」を送った。すると昨夜、原発関係資料は本庁で精査中であり、その結果いつ見ることができるようになるかわからない、見られなくなるかもしれないという電話をもらった。

 危惧していたことが現実となった。これが一つの事態である。
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ラスキ

2014-01-14 22:07:46 | 読書
 ラスキは、イギリスの政治学者である。もうずっと過去の人である。

http://kotobank.jp/word/%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%82%AD

 さてそのラスキの著書(『信仰・理性・文明』。これは岩波書店から1951年に中野好夫訳で刊行されているが、丸山が書評を書いたときには出版されていないので、原書読んだのだろう。原書Faith, Reason, and Civilisationは1944年。)を、丸山真男が書評している。「西欧文化と共産主義の対決」(『現代政治の思想と行動』所収)である。書かれたのは、1946年。しかしその内容は、ラスキの著書の内容も含めて、現在にも生きる内容である。

 まず指摘しておきたいことは、第一次大戦と第2次大戦の間、ラスキは「快楽の組織されたる外面化」に言及している。つまり「戦間期」の社会状況としてこういうことを書いているようなのだ。

 「ヴェルサイユ条約から第2次大戦までの20年間は、理性とか規準とか、計画し予測する能力とかが、ともかく通用していた世界から、不合理、暴力、価値の絶えざる逆転、未来の不可測性と浮動性の支配する世界への急速な堕落の時代」

 これって、今のことじゃないのか、と思ってしまう。

 ラスキは、その背景に知識人の堕落を想定しているようなのだ。

 「19世紀の傑出した知識人は、バイロンであれ、ディッケンズであれ、スコットであれ、バルザックであれ、みな大衆の生活の切実な課題と取り組み、同時代の人々の思想と感情に決定的な影響を与えた。さればこそ、大衆はバイロンの死に人格的損失を感じ、ディッケンズのうちに星とたわむれる巨人の姿を謙虚に承認したのである。それはまさにデモクラシーの勃興期に於ける知識人と大衆との美しき結合であった。・・・・(ところが)インテリは大衆に呼びかけることを止め、社会的革新への関心も打ち捨て、次第に支配階級の添え物に成り下がったのである。それは知識人の最高の任務を裏切ることであり、この任務を怠ったことが、ドイツの、イタリーの、フランスの悲劇を招来したのである。」

 この言説は、現在にも通じる主張でもある。

 しかし現在は、知識人の地位が低下し、「知」を尊重しない風潮、それは特にインターネット世界の書き込みに端的に現れているが、それが力を持っている。

 書店のでも積まれている本には、根拠なき放言を書き散らしたものが多い。そういう本が売れている。

 歴史は繰り返す、このことを、丸山真男を読んでいて感じる。ずっと前にこの本を読んだときに、感じなかったことを感じている。恐ろしいことだ。





 
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これでよいのか!

2014-01-14 14:49:39 | 読書
 日本の経済政策は、輸出を基調とする大企業優先に特化している。たとえば自動車の輸出が減ると、減税や新車購入に対する補助金を出したり、そして円安にふれるようにする。

 円安になると、海外にほとんど依存する石油や天然ガスなどの輸入価額が増大し、国内向けの需要に対応して生産している中小企業などが物価高により影響を受ける。一般の人々の生活も物価高で影響を受ける。一部の輸出大企業に勤める者たちだけが、円安の恩恵を受ける。

 今日の『東京新聞』夕刊の記事。


過去最大の経常赤字 5928億円、11月国際収支

2014年1月14日 夕刊

 財務省が十四日発表した二〇一三年十一月の国際収支速報によると、海外とのモノやサービス、投資の取引状況を示す経常収支は五千九百二十八億円の赤字で、比較可能な一九八五年以降で最大の赤字額となった。原油などの輸入が膨らんで貿易赤字が拡大したのが主因だ。投資に伴う所得収支の黒字によっても補えず、日本経済の外貨を稼ぐ力の衰えが鮮明になった。

 経常赤字は二カ月連続。これまで最大の赤字額だった一二年一月の四千五百五十六億円を更新した。一三年一~十一月の累計の経常収支の黒字額は四兆円弱にとどまっている。

 十二月も低迷が見込まれ、一三年全体の経常収支は年間で過去最少だった一二年の四兆八千二百三十七億円の黒字を下回るのがほぼ確実だ。

 輸出から輸入を差し引いた一三年十一月の貿易収支は一兆二千五百四十三億円の赤字だった。赤字額は十一月としては最大、全月でも三番目の大きさ。

 輸出は前年同月比17・6%増の五兆六千三百十六億円、輸入は22・1%増の六兆八千八百五十九億円。火力発電の燃料に使う液化天然ガス(LNG)や原油を中心とした輸入が、自動車をはじめとする輸出の伸びを上回って増加している。

<国際収支> 日本と海外とのさまざまな経済取引を集計した統計。モノやサービスの取引を示す「経常収支」と、直接投資や証券投資などの「資本収支」に大きく分かれる。経常収支は、輸出入の差額である「貿易収支」、輸送や海外旅行などの動きを示す「サービス収支」、利子や配当の受け払いに関する「所得収支」などで構成される。

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