7日から毎週一回の歴史講座「遠州地方と日本の近代」の講師をつとめている。発表のあと、参加者の方から本多隆成氏の『定本徳川家康』(吉川弘文館)の三方原合戦の記述について感想を求められた。
元亀二年の三方原合戦、信玄は青崩峠から南下してきた、というのが通説であったが、本多氏は駿河から海岸線を通り、袋井、見付、合代島、さらに天竜川を渡って三方原へという説をとっている。これは柴裕之氏の新説ということだが、私はこの説を知らなかった。柴氏の説は、2006、2007年の『武田氏研究』に掲載されているらしい。
本多氏は常日頃史料にもとづく手堅い研究をされているから、本多氏が柴説をとるというのなら、柴説を補強するような史料でも見つけたのかもしれない。
というわけで『定本徳川家康』を図書館から借りてきた。
学説は変化する。もちろんいい加減な根拠で変化するのではない。なぜそう考えるに至ったかをじっくりと読み、考えるべきだ。
三方原合戦のところだけ読んでみようと思う。
元亀二年の三方原合戦、信玄は青崩峠から南下してきた、というのが通説であったが、本多氏は駿河から海岸線を通り、袋井、見付、合代島、さらに天竜川を渡って三方原へという説をとっている。これは柴裕之氏の新説ということだが、私はこの説を知らなかった。柴氏の説は、2006、2007年の『武田氏研究』に掲載されているらしい。
本多氏は常日頃史料にもとづく手堅い研究をされているから、本多氏が柴説をとるというのなら、柴説を補強するような史料でも見つけたのかもしれない。
というわけで『定本徳川家康』を図書館から借りてきた。
学説は変化する。もちろんいい加減な根拠で変化するのではない。なぜそう考えるに至ったかをじっくりと読み、考えるべきだ。
三方原合戦のところだけ読んでみようと思う。