浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

無法の時代へ

2014-04-14 22:41:48 | 社会
 新自由主義という思想が、国家の思想になってから、今までつくりあげられてきた法制度が、法がそのままであっても、実質的に法が機能しなくなる、あるいはその法を無視する、それも公的権力が。

 無法の時代へ、舞い戻る。まさに「中世へ」戻ってしまったような気がしていたが、今度は憲法を無化しようとし始めた。

 集団的自衛権なんて認められる余地なんかまったくないのに、「解釈」で認めてしまおうという安倍。しかし、日米安全保障条約にも当然違背していることに気がついているのだろうか。


 無法の時代へと、日本は大胆に進む。自民党の中にも、良識ある人はいる。村上氏は、『世界』でもインタビューに答えている。

 以下は『朝日新聞』の配信。 


「行政府の法解釈、立憲主義の否定」自民・村上誠一郎氏

2014年4月14日00時25分

■村上誠一郎・自民党衆院議員

 憲法解釈の最終的な責任の所在は司法にある。立法府や行政府がやるべきことは、最高裁から違憲と判断されないような法をつくり解釈して運用することだけだ。自らが解釈して法をつくれば言葉はよくないが、八百長以上のものだ。行政府が法解釈して自分で勝手にやれば、立憲主義を否定することになるから私は反対している。

 国家安全保障会議(日本版NSC)はできたが、諜報(ちょうほう)機関はない。アメリカなど他国の情報に頼らざるを得ない。誤った情報で戦闘に引きずり出されたら、誰が止めることができるか。

 集団的自衛権の問題を憲法9条に関してしか考えていないかもしれないが、閣議決定で憲法解釈が変えられる手法が通れば、例えば主権在民や、基本的人権の尊重などにも及ぶ。憲法自体の存在意義がなくなる非常に危険な状態になることを心配している。(BS―TBSの番組で)
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社会学

2014-04-14 13:36:56 | 読書
 ボクは、「民俗学」は、いい加減な学問であるという認識を持っている。あることを主張する時、その根拠となるものが、きちんと証明されなくても、主張してしまうというのが「民俗学」だ。つまり、主張の根拠を問わない。根拠があやふやでも、それは許されてしまう。

 今日ボクは、大澤真幸の「明治ナショナリズム」という論文を読んだ。『近代日本のナショナリズム』(講談社)に所収されている。

 テーマは「ナショナリズムからウルトラナショナリズムへ」となっているが、読み進めていくと、この論文で大沢は何を論じようとしているのかよくわからなくなってきた。町田の住人がしばしば社会学はいい加減な学問だといっていたが、そうかも知れないと思い始めた。

 Aということを主張し、そのAを前提として「もしAが本当であれば・・・」として、次の論に進む。ではAが「本当」でなかったらどうするのか。自分で何ごとかを主張し、それが「もし本当なら・・」と仮定のまま宙ぶらりんにしたことを、今度はそれについて「なぜそう言えるのだろうか」とくる。

 論が緻密ではなく、難解な語句を多用することによって煙に巻くような書き方だ。書き殴っているような感じ。

 また大正期に「天皇なき国民」を措定し、田邊元や西田幾多郎を持ってくるかと思えば、マルクスはでてくる、フーコーは出てくる、保田與重郎も三木清も・・・・・。その引用の仕方は、彼ら思想家自身の思想全体を無視して、利用できるところをつまみ食いしていく。

 途中まではなるほどと思いながら読んでいたが、途中からボクは空中分解だ。思いつきをもとに、多くの思想家の言説を寄せ木細工のようにあつめて、外から見たら一定の像を結ぶように見せて、中に入るとまったく迷路、という文章。

 歴史学ではぜったいにやらない手法を用いて論を進める。融通無碍としかいいいようがない。

 図書館から借りた本。買わなくてよかった!!
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