「てだのふあ」は、沖縄の言葉で「太陽の子」という意味である。原作は灰谷健次郎の『太陽の子』である。私はこの本を読んだことがないので、この評には自信がない。
私はミュージカルが好きである。とりわけ音楽座のそれが好きで、むかしはよく見ていた。ミュージカルは楽しく、心が躍り、歌、台詞、ダンスがちりばめられていて、メリハリがあり、あっという間に時間が経っていて、見終わってから「ああみてよかった」と思う、そういうものだ。そして見終わったときの感動は、ただ楽しかったというものではなく、ミュージカルそれ自体が主張したかったことがじんわりと感じられてくるというものだ。
さてこの「てだのふあ」である。最近は演劇のなかでも複数の歌やダンスがはいっているものもある。「てだのふあ」もミュージカルではなく、演劇としてもおかしくはないように思えた。
というのも、歌やダンスが少なく、メリハリがない。原作が主張したいテーマを前面に押し出しているが故に、ストーリーがなめらかに進行しないところもあり、ミュージカルとしてはどうかなと思ったからである。脚本がよくないと、私はみた。キャストはがんばっていたのに・・・・
テーマは、楽しみながら鑑賞しているなかで静かに心に入ってくる、というものがミュージカルでなくてはならない。しかし「てだのふあ」は執拗にテーマが演じられていく。
「てだのふあ」の内容は、もちろん沖縄の歴史や今現在の状況をあらわしたものである。沖縄戦、沖縄の人びとに対する差別、辺野古基地建設問題など、沖縄が抱えてきた諸問題、それらが本土に住む人々には関心を持たれていないという状況が、問題解決を遅らせているのであるが、それがキャストによって演じられる。
沖縄の問題は、演劇のテーマとして取り上げられるべきであると、私は思う。沖縄で行われる選挙の度にカンパの要請があるが、私は必ず応じているほどだ。
しかしそれをどのように表現するのか。原作の『太陽の子』を読んでいないので何ともいえないが、芸術としての表現は直截的でないほうがよいと思う。
ミュージカルは音楽やダンス、そして台詞によって構成される。ストーリーは歌やダンスによってメリハリがつけられ、観客はリズムに乗せられて運ばれていく。しかし「てだのふあ」には、そのリズムがなかった。観客は運ばれなかったのだ。観客は、通常の演劇と同様に、しっかりと話の展開を凝視しなければならなかった。
ミュージカルとうたうべきではなかった。
なお、みていて、笑ったり、ほろっときたりしたところもあった。