浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

美術手帖ウェブの討論

2020-10-30 20:33:00 | 

 美術手帖ウェブサイトで読んだ討論が『公の時代』(朝日出版社)としてまとめられているので、今日、図書館から借りてきた。

 その5「日本現代アートの始祖・望月桂と黒耀会」をもう一度読んだ。『韓国の民衆美術』(岩波書店)を読んで、少し美術に関心を持ってきている。

 韓国だけではなく、日本にも民衆美術の歴史があったことをきちんと認識しなければならないと思うからである。

 こういう問題意識が、対論者にはある(松田修と卯城竜太)。

つまり大正が、強圧的な公権力に対して「個」が自由を獲得しようとチャレンジする「公の時代」なら、戦後は、公権力の監視や検閲も弱くなることで「個」が享受した自由を謳歌したり、それをエクストリームに拡張しようとしたりした「個の時代」とも言えるね。そしていま、僕らは再び「個」よりも「公」が存在感を増しつつある時代に突入したと考えているわけだ。大正時代や昭和初期の「公」の問題は主に公権力の問題で、いまの「公」の問題は公権力による「権力の私物化」だけではなく、さっき話したような、新自由主義を背景にした、大企業の再開発や運営による「公のポリシーの民営化」や「個による公」っていう「閉じた公」の出現、ボトムからの通報や抗議といった「炎上」、そして スペースの運営側から「一般に配慮する」という名のもとに行われる検閲や規制もあるね。

 確かに大正期は、「個」というものの発言が「許された」時代である。「許された」という書き方は、言うまでもなく、公権力の規制が強くあったからだ。しかしその公権力に抗って「個」というものを主張した。大杉栄や伊藤野枝はまさにその典型である。しかしその「個」もつぶされた。

 そして戦後は、「個」が発揮できた時代ではあったが、しかし今やそれは「公権力」と「私企業の権力」により窒息されつつある。

 まさに私の問題意識と共鳴しあうのである。

 現代のアートの最前線と、共鳴するものがあるように思える。

 その「始祖」が望月桂だというなら、望月もアナキストであった。いつ買ったか不明であるが、ここに『漫文漫画』という本がある。大杉栄「著」、望月桂「絵」である。これを読みはじめようと思う。

 

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