『ユリイカ』のハン・ガン特集号を読む。すべてを読み終えたわけではないが、そのなかで佐藤泉さんの「腐肉の愛しさ」に大きな衝撃を受けた。ハン・ガンの『少年が来る』『別れを告げない』を深く読み切っているという印象を持った。
「人間はどうしようもなく体を持っていて、そのため恥辱を抱えて生きていかなければならない」
これが、佐藤さんの通奏低音である。このことばで、ふたつの作品を読み解くのだ。
魂と体(肉体)。わたしの魂は、わたしの体と共にある。しかし、その魂と体は、いつも協調しているのではない。魂がよりよき生を求めて生きんとするとき、体は魂と協調してそのように生きさせるようなことはしない。体は、魂を裏切るのだ。
「私の意識の統御を超えて、病み、老い、死んで、腐る。私の身体は私が在ることから切り離すことはできないが、それは私の内の他者なのだ」と佐藤は書く。
激しい拷問が襲いかかってくるとき、良き生き方をもとめる魂が苦痛に耐えようとしても、体は苦痛に耐えられない。他者としての体が暴力に耐えきれなくなり、体が体としての役割を放擲するとき、魂も体と共に消えてしまう。体と共に、魂も死ぬ。
拷問でなくても、光州で戒厳軍の銃弾に斃れた場合でも、魂は消えていく。だが、ハン・ガンは腐っていく体、死臭を放つみずからの体を見つめる魂を描く。死後に於ても、ハン・ガンは、魂と体を融合させる。
ハン・ガンは、みずからの体と魂を融合させるだけではなく、他者のそれとも融合させる。それは、現実に光州で起きたからだ。
佐藤は、画家・洪成潭の経験を記す。ジャージャー麺の出前持ちの少年は、市民軍の一員として光州を守る。少年に、洪らは帰りなさいという。しかし少年は、「ぼくは生まれてはじめて人間的な待遇を受けました。それもすべての市民から。だからぼくが代わりに守らなければならないのです」、死んでも悔いはない、と。
洪はこう書く。「私たちは本当に美しかった。光州抗争の十日間、そのコンミューンの美しい記憶だけで、私は一生幸福に生きていける」。
「魂の連帯」。このことばを佐藤さんがつかっているわけではない。魂は、体と魂が協調しているときも、体が魂を支えることができなくなったあとでも、魂は他の魂と連帯することができる。わたしは、佐藤泉さんの文を読んで、「魂の連帯」ということを学んだ。ハン・ガンのふたつの小説は、時空を超えて、人間の魂と魂は共鳴し、魂が連帯できることを示したのだと思った。
しかし魂は、その魂を支えていた個としての体とまったく分離しているものではない。体が体としての働きを失っても、その体に刻印された諸々のことは、魂とともにありつづける。
光州や済州島に於て、国家権力により発動された暴力が、個々の魂と体に対して吹き荒れたのだ。
近代に於ける朝鮮半島は、いつ終わるともなく国家の暴力が襲いかかっていた。人びとは、その暴力に魂と体を奪われていった。そうした人びとは、しかし歴史のなかで忘却されてよいわけではない。魂と体は、それぞれがもっていた個人としての尊厳を取り戻さなければならない。
かつてそれぞれが体と魂を協調させていたこと、それを、現在魂と体を協調させている者たちが、「魂の連帯」により、呼び戻さなければならないのである。