澤田展人の『アジアのヴィーナス』に掲載された最初の「アジアのヴィーナス」については、先に紹介した。
二番目に掲載された小説は、「天都山まで」。昨夜、それを読み終えた。
主人公は悠里、夫と男の子二人の4人家族である。悠里の親友であるあおいが、みずからの子どもを殺害し、自らも首を吊ったのである。悠里は、みずからを支えてくれたあおいが自死したことに、大きな衝撃を受ける。
あおいの夫は体が弱い直人。しっかりもので責任感あるあおいは、だから育児だけではなく、家庭の様々なことをひとりでやっていた。そのせいか、夜泣きが激しいため、育児に疲労を抱えていた。そのために自死を選んだのか。
悠里は、あのしっかりもののあおいがなぜ自死したのか、自死を止めることはできなかったか、煩悶を重ねる。
ある夜、悠里はひとり闇の中をあてもなく歩く。なぜ?なぜ?と問いながら、他方、あおいの命を救うことはできなかった自分自身を責める。
悠里の煩悶は理解できるし、さらに真夜中にひとり家を出て、自分自身とあおいとの関係をふり返り、苦しむ。その過程は、読む者を強く引き込んでいく。
澤田のストーリーテラーとしての面目躍如という感がする。それは「アジアのヴィーナス」でも感じたことだ。
さて、悠里は、天都山を登る、そして夜明けを、展望台で迎える。そこで、「急いで(家に)帰ろう」という気になる。ある意味の「回心」である。
しかしそれまでの緊迫した悠里の心情を追ってきた読者としてのわたしは、その「回心」があまりにあっけないように思えた。煩悶、煩悶・・・・・・・・そして「回心」。
あっけない「回心」のように思えた。