浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

片思いの日本

2012-11-15 10:00:42 | 日記
 再選されたオバマ。14日の報道に、「オバマ大統領:20カ国・地域と電話協議 野田首相はなし」があった。

http://mainichi.jp/select/news/20121114k0000e030200000c.html

 アメリカにひたすら隷従し、お説ごもっとも、あかねが欲しいならいくら出せばよろしいですか、オスプレイの配備にアメリカ国民が反対するなら日本に配備したらどうですか・・・・などとしている日本には、協議する必要なし。

 それで中国や韓国などに居丈高になるなんて・・・。

 諸国は、日本をアメリカの「属国」とみている。オバマの電話協議のことも、諸国は熟知。日本人だけが、日本は「大国」だと思っている。
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検察の無法

2012-11-14 20:51:01 | 日記
 あらゆる事件で、検察が崩壊の危機に瀕していることを証明している。それでも検察は、居直りを続けているが、私たちは今回の小沢無罪判決についてもきちんと認識しておかなければならないだろう。
 
 その点で、もっとも原則的に評価を下している郷原氏の所論を読んで欲しい。

http://nobuogohara.wordpress.com/2012/11/14/%e9%99%b8%e5%b1%b1%e4%bc%9a%e4%ba%8b%e4%bb%b6%e3%81%ae%e6%a7%8b%e5%9b%b3%e8%87%aa%e4%bd%93%e3%82%92%e5%90%a6%e5%ae%9a%e3%81%97%e3%81%9f%e6%8e%a7%e8%a8%b4%e5%af%a9%e5%88%a4%e6%b1%ba%e3%81%a8%e3%83%9e/
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【本】加賀屋誠『生老病死の図像学』(筑摩書房)

2012-11-14 08:51:57 | 日記
 『UP』11月号で、佐藤康宏氏によって紹介されていた本の一冊を、図書館から借りて読んでいるのだが、加賀屋氏のこの本はすばらしい。名著といっても良い。

 まず文体が良い。流れるような文章で綴られているのだが、そのなかに広汎な学識と知性の輝きがそこはかとなく現れ出ていて、それでいてわかりやすい。

 佐藤氏は「中身は軽くない。・・・専門家も非専門家も巻き込む力のある書物だ。美術史学とは何かを説明しつつ、図像学、イコノロジーについての解説から著者の立場までを簡明に論じたプロローグが備わることで、研究の最前線の地点で説く美術史入門の一冊」と記しているが、この本が刊行されたことで、美術史の門を開く者が増えるのではないかと思う。

 「生まれることは苦しいか?」における出産の場面を描いた仏教説話画についての、古典の記述を背景にした説明は、わかりやすくとても興味深い。

 こうした記述はしばしば民俗学関連の本で見かけるが、そこらへんにいる無責任なエセ民俗学者のうすっぺらい記述とは異なり、深い学識と幅広く渉猟した文献をバックにしているから、説得力がある。

 ※ボクは民俗学は「学問」ではないと思っている。あまりにひどい表面的な叙述に辟易しているからだ。

 歴史に興味関心を抱く者には、ぜひ読んで欲しいと思う。
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史料の行方

2012-11-13 21:16:33 | 日記
 今日、浜松市東区中野町にある伊豆石で建造された土蔵の整理を行った。私の仕事は、なかにある書類の整理であった。

 マスクと軍手をつけて、ほこりにまみれた紙類のなかから、有用なものをさがしだしていく。この家は資産家であったので、地域の名望家として議員を経験している。

 中ノ町村については下記を見てもらうこととして、今日発見した史料について書く。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E3%83%8E%E7%94%BA%E6%9D%91

 まず村議会に提出された史料である。本来こういうものは永久保存である。しかし通常どこか大きな自治体に編入合併されるときに、「される」町村の史料は消える。つまり処分される。

 中ノ町村は1954年に浜松市に併合されるのだが、現在浜松市の書庫に残されているのは『中ノ町村沿革誌』だけである。あとはほとんど捨てられたのだろう。

 したがって、現時点で史料をさがすとすれば、村長や議員を務めた方が残された家ということになる。だが、家の建て替えなどの際、史料の多くは捨てられる。もっとも残る確立が高いのは、土蔵に保管されている場合である。

 ※ 規模の小さな合併の場合は、旧役場の倉庫などに残されることが多い。

 今回、二回の調査で、土蔵所有者の先祖が議員であった時代の議案書などの史料が発見できた。これは成果である。

 また先祖の方が、地元の企業の株主であったためか、数種類の営業報告書が発見された。中野町銀行、天竜木炭株式会社、遠州電気鉄道株式会社など。これらは地元の経済状態を明らかにするときの貴重な史料となる。

 時の経過は、過去を消していってしまうが、こうした史料は過去を再現することを可能にする。それが歴史のおもしろさである。
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【本】ロナルド・ドーア『日本の転機 米中の狭間でどう生き残るか』(ちくま新書)

2012-11-13 21:03:18 | 日記
 『世界』を買いにいったときに、店頭で見て購入してきた本である。ロナルド・ドーアはイギリス人で、日本語の読み書きもできる研究者である。彼の本や主張(『中日新聞』に時々論説を書いていた)における理性的・批判的な言説は、いつも傾聴に値するもので、私は彼の著書は注意深く読んできた。

 しかし、今回のこの本は、どうも焦点が絞り切れていない感がある。最後の「MAD(相互確証破壊)」に関する日本のとるべき行動の提案は、どうも非現実的であるように思えた。彼の意図はわかるのだが、日本政府がそんなことをするはずがない。

 「脱亜従米」というか、アメリカに隷従することを最善の策と考える人たち(政治家、官僚、財界、マスメディアなど)が多い(日本国民の多く、彼が指摘する如く50%以上)中、日本が核不拡散体制からぬけだして、相互にMADをもちあうということを提案するわけがない。それだけでなく、私はそれは果たして正しいことなのかという疑問を持つ。

 また内容的に「副題」に沿う内容が書かれていないようだ。どうも準備不足のまま本書を書いたようだ。

 現在87歳だと思うが、彼には理性的な言説をさらに発して欲しいと思う。
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【本】マーティン・ファクラー『「本当のこと」を伝えない日本の新聞』(双葉新書)

2012-11-12 11:15:08 | 日記
 日本のマスメディアの「本当のことを伝えない」現実を批判の俎上にあげた本が出た。この本意書かれていることは、まさに「本当のこと」である。

 昨年3月11日以降の原発報道でやっと一般の人びとに知られた事実ー新聞・テレビをはじめとした日本のマスメディアは、「本当のこと」ではなく、政府や官僚機構、あるいは大会社(たとえば東京電力)が選択して流す情報を、そのまま、彼らの意向通りに「報道」する機関であること、この実態を示しながら厳しく批判する。

 なぜそうなるか。著者は「記者クラブ」の存在をあげる。

 きわめて閉鎖的なマスメディアだけによって構成される組織。政府機関や地方行政機関(市役所でも県庁)でも、あるいは商工会議所などでも記者クラブがある。

 そこでは、それぞれの社のブースがあり、電話や電気、コピーは使い放題。ときには世話係の女性がいて、お茶を出したり雑用をこなしてくれる(今は変わったかもしれない)。経費は、それぞれの機関がもつ。

 しかしその記者クラブには、フリージャーナリストや雑誌記者、外国の通信社や記者も入れない。きわめて閉鎖的なのだ。

 そうした便宜を図ってもらっていることも、日本のメディアの批判精神のなさの原因なのかもしれないが、著者はこの「記者クラブ」の存在を厳しく批判する。

 「記者クラブ」をなくしたら、おそらく日本のメディア産業は、ジャーナリズムへと脱皮できるかもしれない、それほど問題の多い組織なのだ。

 「ジャーナリストとは、基本的に権力寄りであってはならない。権力の内側に仲間として加わるのではなく、権力と市民の間に立ちながら当局を監視し、不正を糺していく」(130頁)

 その通りであるが、そうした記者は今はほとんどいない。サラリーマン記者で、権力やウエ(上)の者にへつらう情けない人間の集合体である。記者会見などでの質問を聞いてみるが良い、幼稚な何の意味もない質問を続けて平気である。

 さて本書は、紙を使った新聞の将来についても言及している。ニューヨーク・タイムスやワシントン・ポストなどアメリカの例をあげて説明しているが、これからはネットを利用したメディアへと移行していくだろうと推測される。

 独立性をもったネットメディアについていくつか指摘しているが、ProPublicaの独立系のネットメディアの紹介があった。

 http://www.propublica.org/

 まだアクセスしただけで読んでいないが、日本でも実現可能ではないかと思った。

 最後に、

A good journalist needs a sense of moral outrage.

という言葉があった。moral outrage は、庶民でも必要なことだ。
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永山事件

2012-11-10 21:48:12 | 日記
 今日岩波書店の『世界』を購入した。現代日本社会のありようを、理性的に考えていこうという雑誌。こうした雑誌は、とても少ない。ほとんどのメディアは、理性にではなく、人間の劣情に依存し、売れれば良いという無責任な放言を繰り返している。

 『世界』は、人間は信頼しうるということを背景にもつ雑誌である。

 特集は「領土問題と歴史認識」であるが、ボクはこの特集についてではなく、まず「永山事件 封印された鑑定記録」について語りたい。

 NHKの唯一の良心的な番組、教育テレビで毎週日曜日22時から放映される“ETV特集”。先月「永山則夫 100時間の告白~封印された精神鑑定の真実」は、重い問題を取り扱った番組であった。1969年、19歳の永山少年が4人を拳銃で射殺するという事件を起こした。第一審は死刑、第二審は無期懲役、最高裁では高裁へ差し戻し、最終的には死刑が確定し、1997年に死刑は執行された。

 獄中で、永山則夫は『無知の涙』(河出文庫)などを著した。極端な貧困の中に育った永山少年が、なぜ凶悪な犯行を侵したのか。

 実は、石川義博氏が永山少年の鑑定を行った。その鑑定を行う中で石川氏は、永山少年の肉声をテープにとっていた。番組は、そのテープをもとに、この事件を、現代の報復的な裁判が横行するなかで、もう一度問いかけようとしたものだ。

 すばらしい番組であった。それは以下で見ることが出来る。

http://www.dailymotion.com/video/xuclhm_yyyy-yyyyyyyy-yyyyyyyyyyyy-1-2-2012-10-14_news

http://www.dailymotion.com/video/xucpx9_yyyy-yyyyyyyy-yyyyyyyyyyyy-2-2-2012-10-14_news

 この番組を制作した堀川惠子氏がこの『世界』に記した文が、またすばらしい。過酷な生育過程をへて、永山は「どうして自分は生まれてきたのか」、「俺は何のために生きてきたのか」という問いを発する。思春期に抱く重大な問いである。人は、この問いに答えられないまま、あるいは問い続けながら生きていく。その問いは、多様な人間関係の中で、あるいは読書経験の中などで問われ続けていくのである。

 だが、永山の場合は、この問いに向かい合う契機を持たなかった。つまりそうした人間関係や読書経験を持てなかったのだ。

 残念ながら、時の経過は、永山少年のような生育過程をなくす方向には動かなかった、児童虐待とかネグレクトなどのことばが多く見られるような時代になってしまった。

 永山事件は、現代に再検証されるべきものである。堀川氏は、いずれ岩波書店で『封印された鑑定記録』を出版されるという。ぜひ読んでみたい。

 この『世界』の文章と、堀川氏が制作した番組も、見て、そして考える価値がある。
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【映画】トガニ 幼き瞳の告発

2012-11-10 14:50:10 | 日記
 韓国映画である。
 
 ボクの正義感が、ムラムラと湧き上がる映画だった。聴覚障害者の子どもたちが、校長や教師などから性的迫害や暴行を受けていた。新しく赴任した美術の教師が、その現実に立ち向かっていく。

 しかし、せっかく告発しても、地域の権力基盤を構成している校長等が、カネをばらまくなど様々な手段を講じて執行猶予となる。韓国社会も、日本の社会と同様に、正義はなかなか実現しない。

http://dogani.jp/

 ただ、この映画の原作を読んだり、映画をみた人びとが立ち上がって、犯罪者たちを追及し学校を廃校にさせるなど、正義の実現に向けて闘ったという。

 人間として許せない現場を見たとき、あるいはそういうことを知ったとき、私たちはどういう行動をとるか。見て見ぬふりをするのか、それとも許せないという人間的怒りを持ってたちあがるのか、そういう重要な選択に迫られることがある。後者が選ばれなければならないのは言うまでもないが、しかしその道がとても厳しいこともありうる。
 ボクは思う、後々後悔しないようにするためには、人間的怒りを持って一歩踏み出すことが最良の精神的に安定する生き方である、と。

 映画の中で次の言葉が綴られた。

 私たちが闘い続けるのは、世の中を変えようとしているのではなく、世の中が私たちを変えられないようにするためです

 汚い世の中が、私たちの純粋な気持ちや正義感を曇らせていく。そうさせないのだという決意も必要かと思った。

 見て欲しい映画である。シネマイーラで、16日まで上映している。11時50分~上映(125分)。


 
 
 
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刺激

2012-11-09 22:24:41 | 日記
 今日午後畑に行ってサツマイモを掘った。一輪車を押して畑に向かう途中、校外学習をしている小学生の集団にあった。大きな声で挨拶され、同じように大きな声で挨拶を返した。未来の日本を担う人びとである。

 さて、今日『UP』11月号が届いた。出版社は自社が発行する書籍の宣伝をするために、PR誌を発行している。たとえば岩波書店は『図書』、筑摩書房は『ちくま』など。『UP』は東京大学出版会である。

 東京大学出版会は、多くの学術書を発行している。私も必要な本は購入しているが、最近は購入するよりも、できうる限り図書館で借りようとしている。しかし近くの図書館にない場合はやむなく購入することがある。

 今年5月、『岩波映画の1億フレーム』が刊行された。伊藤守氏によるそれを読んだ感想が載せられている。この本、読みたいと思った。静岡県内の図書館には、たった一冊、佐久間図書館が持っている。なぜ佐久間図書館が所有しているかというと、なかに佐久間ダムのDVDがあり、またその映画についていくつかの論攷があるからだ。

 読みたい、しかしこの本は館外貸し出し禁止だという。佐久間図書館に行くのは、遠すぎる。となると買うしかないか。7770円である。さてどうしたものか。

 また国際法学者・最上俊樹氏の「世界の美しさへのまなざし」という文があった。この文に市井三郎の『歴史の進歩とは何か』(岩波新書)からの引用があった。「(歴史の進歩とは)各人が、自分の責任を問われる必要のないことから負わされる苦痛を減らすことである」ーであるが、学生時代だったか、市井の本を読んだとき、ボクもこの箇所に大いに心を動かされた。歴史の進歩に貢献するとするということは、「自分の責任を問われる必要のないことから負わされる苦痛を減らすこと」である、とするなら、たとえばアメリカ軍機による爆撃で傷つき殺されるベトナムの民衆の「苦痛」をなくすために自分は何ができるのか・・・などを考え、ボクは実際、ベトナム戦争反対の運動に参加した。

 またこの文に引用されていた国際法学者のひとり、スイスのアンネ・ペータースの「(法の機能は)弱者を救済することにこそある」に、心動かされた。その通りだと思う。しかし現実の世界では、そうなってはいない。

 また佐藤康宏氏の連載「日本美術史不案内」は毎回とても面白い。今回の「電車の中で読める本は限られている」で紹介された『生老病死の図像学』(筑摩書房)は読んでみようと思う。

 うすい雑誌であるが、この小冊子からもたくさんの刺激を受けることができた。それだけで、今日は良い日だった。サツマイモもたくさん取れたし。

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【本】西村時夫『私の履歴書 「らい予防法」をこえて』(皓星社)

2012-11-08 22:14:13 | 日記
 みずからの人間観を根底から揺り動かす本である。値段は2700円、ぼくは購入した。図書館で借りて読もうと思ったが、静岡県内の図書館には一冊も入っていない。どうしたことか。

 アマゾンでは、3冊が中古品として発売されている。送料込みで656円だ。

 西村時夫は本名ではない。本名は、西田博司。御殿場市にある国立のハンセン病施設・駿河療養所に入所したとき、父から与えられた名だ。西村が入所したのは、1956年、中学二年生の時だ。愛知県に生まれた西村は、ハンセン病と診断され、駿河療養所に送り込まれた。

 1947年からハンセン病の特効薬プロミンが日本でも使用され、すでにハンセン病は不治の病ではなくなっていた。ではなぜ、西村は駿河療養所に送り込まれたか。それは、日本政府がハンセン病者を隔離し、そこで生活させることによって(治療をするのではなく)「絶滅」をはかっていたからである。法律的には、1931年に制定されたらい予防法が生きていたからである。

 駿河療養所は、1944年傷痍軍人療養所として開設されたところだ。

 そこへ送り込まれた西村は、様々な経験をする。人間としての尊厳を踏みにじられ、病に冒されながら、必死に生きる。

 その経験から生み出された西村の文章や、講演での語りは、読む者の魂を揺り動かす。それは、厳しい境遇の中を、主体的に生き抜いてきたからである。

 西村は、2004年肺がんで亡くなった。しかし、西村のこの本は、永久に生き続けていくことだろう。

 この本を読むことにより、私たちは戦後におけるハンセン病者への厳しい差別、西村をはじめとした人びとの人間の尊厳をめざした闘い、そして2001年の判然病国賠訴訟における熊本勝訴判決以後の動きなどを知ることができる。

 ボクは、静岡県の歴史に、ハンセン病者の置かれた客観的な状況と、ハンセン病者たちの主体的な闘いを描こうと思う。そのために、この本はとても有益である。
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冤罪に気をつけよう

2012-11-07 22:13:27 | 日記
 『冤罪ファイル』という雑誌が発行されているほど、日本は冤罪大国である。最近でも、脅迫文をメールで送りつけたとして、無実の人びとが逮捕されている。

 インターネット社会、いつ自分がこういう冤罪事件に巻き込まれるか分からない、という不安の時代に生きている私たち。

 できうる限り、警戒する必要がある。

 そのために、読んでおこう。

http://gendai.ismedia.jp/category/blindspot

 日弁連による、こういう集会もある。

http://www.nichibenren.or.jp/event/year/2012/121109_130131.html
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「この空を飛べたら」

2012-11-06 20:29:56 | 日記
 中島みゆきの唄を、時々聴きたくなる。「時代」という唄から、中島みゆきには注目してきた。歌謡曲などにはまったく興味関心がないのだが、中島みゆきだけは聴き続けている。

 そのなかでもっともよく聴くのが、「この空を飛べたら」である。1978年に作詞・作曲され、加藤登紀子が歌っていた。

 当時つきあっていた女性が、英語を学ぶためということでイギリスへ旅立った。ボクは東京まで送っていった。

 見送ってからがたいへんだった。寂しくて寂しくてたまらなくなった。彼女のホームステイ先にしばしば電話した。イギリスで知り合ったというスペイン人の友人宅へ行ったとき、スペインの友人宅へも電話した。

 電話していないときは、空を見上げていた。彼女が飛び立っていった彼方をいつもみあげていた。

 そしてそのとき、本当に「この空を飛べたら」と思った。

 ああ人は 昔々
 鳥だったのかもしれないね
 こんなにも こんなにも
 空が恋しい


 空が恋しい、というのは、彼女が恋しいということでもあった。


 この女性とは結婚することはなかった。わが青春の一幕であった。 

 今、その曲を聴きながら、昔を思いだす。

 なぜこんな事を書くのかというと、ずっと独身を続ける男性による「なぜ結婚しないのか」を記した投稿で構成したNHK教育の番組を見たからだ。経済力もなく自分に自信がない、結婚する相手として(自分は)価値がないのでは・・・などという投稿に、驚いたのだ。

 結婚するとき、自分の経済力とか、相手にとって自分は・・・なんて考えなかった。結婚したらという後のことなんか考えずに、とにかく一緒にいたい、ということで結婚した。一時の迷いかもしれなかったが、とにかく突き進んだ。

 参考にしていただきたい。


 
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【本】和田春樹『領土問題をどう解決するか』(平凡社新書)

2012-11-06 08:26:07 | 日記
 政府やマスコミが、日本が抱える「北方領土」、「尖閣」、「竹島(独島)」について、ただ日本政府の主張を垂れ流し、いたずらに対立を煽っているだけに終始していることを憂う人は多い。残念ながら、そうした憂いは、表に出てきていない。なぜか。あまりに大きな力が働いているからだ。

 周辺諸国との対立がでてくるとき、それは一体誰がそうさせているのかを見極める必要がある。中国との厳しい関係は、やはり沖縄のオスプレイ配備や自衛隊の先島諸島への配備問題とリンクしているだろう。日本の企業が、中国で大きな被害にあっても、平気でいる人びとの影が推測される。というのも、そういう過去が日本では存在しているからだ。

 もちろんそれはアメリカという国家である。アメリカという国家は、みずからの「国益」を維持発展させるためには、謀略活動をはじめ、何でもやる国家であることを知っておいた方がよい。

 それはすでにこのブログでも紹介した孫崎享の『戦後史の正体』(創元社)、『日本の国境問題』(ちくま新書)などで指摘されている。

 今回、とくに「北方領土」の問題に関して、詳細な資料に基づいて、和田春樹氏がその経緯を詳述した。それが本書である。本書を読むと、日本政府がみずからに都合の悪い資料を隠し、主張を大きく変えてきたことがわかる。そしてその背後にいるアメリカの存在がきちんと書かれている。

 さらに、本書は、どういう解決が現実的なのかを提起している。「北方領土」問題に関しては、「2島返還論」が現実的であり、それ以外はない。外務官僚の東郷和彦氏、鈴木宗男氏、佐藤優氏が推進した政策が、歴史的にも、現実的にももっとも妥当なものであったということができる。ところが、政府は、彼らを失脚させることにより、現実的な解決を大幅に遅らせてしまった。

 なぜ日本は、こうした周辺の隣国との間で「領土問題」を引きずり、対立をあえて大きくし、現実的な解決に進み出ていかないのか。どういう勢力が解決を遅らせているのか、しっかりと考えるべきだ。

 そのためには、マスコミや政府の意図的な宣伝に惑わされることなく、こうした資料に基づいた本をきちんと読み、賢明な国民になることが求められている。

 対立を必要としている勢力の意図を見抜き、隣国との平和共存、繁栄こそが、もっとも必要とされるはずである。
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大学生増加策は何のため?

2012-11-05 21:29:49 | 日記
 田中真紀子文部科学大臣が、4年制大学の新設を許可しなかった。許可されなかった3大学は、青天の霹靂であっただろう。なぜなら、大学を改組したり、新設したりするとき、その準備過程から文科省とは頻繁に接触して、文科省の言うとおりに申請書類を整え、文科省の言うとおりに一定の人事を行い、文科省の意に沿わないことは一切しないで、ひたすら大学側は腰を低くして文科省の言うがままに行動してきただろうからである。

 そうすることによって、大学審議会を通し、もう当然来年4月から開学できると思って準備してきたら、文科省の大臣からダメといわれたのだ。

 子どもの数が少なくなっているのに、毎年毎年新しい大学が開設され、あるいは新しい学部が新設され、各大学は拡張に拡張を重ねている。こうして大学は、どんどん入りやすくなっている。ところが一定のレベル以上の大学には学生が集まるが、そうでない大学には学生が集まらない。したがって定員を満たしていない大学がたくさんある。

 それでも、文科省は大学を増やし、学部学科を増やす。それは何のためか。まず文科省の官僚の再就職先を確保するためだ。

 大学側があたらしい学部をつくったり、4年制へと改組する際、文科省と綿密な交渉が必要となるが、その際、文科省のもと官僚を雇用しておけば、交渉はうまくいくし、設置も容易になる。だから、少しでも大学を改組しようとするときは、どの大学でも文科省の官僚の天下りを受け入れるのだ。

 国立大学も、今では国立大学法人○○大学となっているが、文科省からの予算をとるべく、どこの国立大学も文科省の天下りを積極的に受け入れている。

 今度の田中大臣の措置に驚いたのは、申請した大学だけではなく、文科省の官僚も驚いただろうと思う。田中大臣の決定は、文科省の官僚への打撃でもあるのだ。

 私は、3大学には同情の念を持つが、現在の大学生増加政策は停止すべきであると思う。大学には、たとえ私学であっても、膨大な国家予算が投入される。しかし学生のなかには、バイトに勤しみ、学問研究とは無縁の生活をしている者も多い。本来行くべきではなかった者が学生となっているのだ。

 これからつぶれていく大学も増えてくる。ここらで立ち止まるべきだ。
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原田正純さん

2012-11-04 23:00:57 | 日記
 今日のNHK教育のETV特集は、水俣病患者に誠心誠意関わってきた原田正純さんの歩みを放映した。

 原田さんは、今年6月11日に亡くなった。テレビに映し出された顔は、ほんとうにいい顔だ。テレビに出てくる野田をはじめとした政治家諸君の顔と比べてみると、何と人間的なことか。

 原田さんは、水俣の患者の姿を見てしまった。見てしまった責任を終生負い続けた。すべての医者が、原田さんのように責任を負うわけではない。おそらく原田さんは、選ばれたのだ、患者たちに。

 水俣を中心とした地域には、水銀を体内にとりこんだ魚介類を食べた人が多い。しかし水俣病患者であることは、差別を受けることでもあった。だから、耐えられるなら耐えようと、みずからの症状を隠してきた人がたくさんいる。

 加害企業チッソも、政府も、できうるかぎり被害者を少なくしようと画策してきた。差別されることをおそれて隠すことを悪用して。

 水俣病患者に対する措置をみると、フクシマでこれからでてくる事態を、できうるかぎり過小評価しようという行政の姿が推測できる。

 いかなる学問も、いかなる立場で研究するかが問われるのである。みずからには何の責任もないにもかかわらず、一生を不自由な身体で生きていかなければならない人たちの立場に立たずして、何の学問と言えようか。学問というのは、今の社会をより良くするためにこそ存在しなければならない。

 どんな学問をやるときでも、立場は常に弱者の立場、ボクがいつも言う「底辺の視座」から見つめなければならない。

 今日のETV特集をみて、言いたくなったことを記した。

 原田正純さんの「水俣学」の本を、一冊でもいいから読んで欲しい。
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