静岡第一テレビのユーチューブチャンネルでは、袴田事件の裁判が行われるたびに、そのあとに行われる弁護団の報告会を録画して公開している。袴田事件については、いくつかの本を読み、よくもまあ証拠を捏造までして袴田さんを犯人に仕立てて、さらに死刑判決まで出させたものだとつくづくと思う。
証拠を捏造したのはだれかというとき、私は警察官だと思っていたが、当時捜査に携わったもと警察官は、味噌樽の中には何もなかったと言っている。検察官がやるとは思えないが・・・・というのが、私の気持であった。
しかしこの本を読んで、いや検察はやりかねない、と思った。この本とは、『われの言葉は火と狂い』(築地書館)である。今は亡き共同通信の記者斎藤茂男の『取材ノート』の一冊である(1990年刊)。そこには「徳島ラジオ商殺し事件」のことが書かれている。
事件が起きたのは、1953年11月5日明け方である。徳島駅前の三枝電機商会に賊が入り、三枝亀次郎さんが刺殺された。そこには奥さんの富士茂子さんと二人の子ども佳子さんが寝ていた。亀次郎さんは匕首で刺された。
警察は、外部侵入者による犯行であると見立て、その捜査を行っていたが、なかなか犯人を逮捕できなかった。そこに検察が入り込み、事件のシナリオをまずつくり、それにもとづき、奥さんである茂子さんが夫の亀次郎さんを殺したということにして、それにあうように、証人を逮捕したり、長時間の取り調べをして証言をとり、事件を組み立てていった。
その検事とは、「田辺光夫検事正、湯川和夫次席検事、村上善美・藤掛義孝両検事、丹羽利幸検察事務官らであり、」「さらに昭和34年5月当時の徳島地検・大越正蔵検事正、丸尾芳郎検事、高松地検の南館睦奥夫検事ら」(204頁)であった。
そして再審裁判で茂子さんが無罪判決を受けたのが1985年7月9日であった。そのとき、茂子さんはもう亡くなっていた。事件が起きてから、30年以上の歳月が経っていた。
私は茂子さんの再審決定や無罪判決のニュースを新聞等で見てはいたが、詳しくこの事件を知ることはなかった。しかしこの本を読んでいくなかで、検察の悪事、そしてその悪事を正当化した裁判官らの「犯罪」に強い怒りを持った。権力の担い手たちは、平気で悪事を働き、それに心を痛めることなく過ごし、問責されることもなく生きていくことができるのだ。それは政治家や官僚たちにも共通する。彼らは平然と悪事を働くのだ。
私は、そうした悪事を働いた検察官や裁判官の実名は、大きく報じられるべきだと思った。システムのなかの一員ではなく、個人として問責を受けるべきだからだ。検察官や裁判官は、上からの命令により起訴したり判決を書くわけではない(そういうこともあると思うが)。だとすると、やはり個人としての責任は問われなければならない。冤罪が明らかになった際には、それに関わった検察官や裁判官は免職になるという制度でもあればよいと思う。
斎藤も「まえがき」で、「戦後の冤罪事件のなかでも、徳島ラジオ商殺し事件は、こんなにわかりやすい学習教材はないのではないかと思うくらいの、冤罪の典型の一つである。しかも、すべて結論が出たいまになってみると、権力を持つ側の«つい判断を誤ってしまって・・・・»といった程度の過失が原因だったのではなく、明白な証拠がないことを重々承知しながら、暴力的にという表現が当てはまる強引さで、まったく非力の女を犯人に仕立て上げて形跡が濃いという点で、特異なケースである。国家権力というものの恐ろしさ、それがいったん誤った方向に回転したときに、どんな悲劇が現出するか、それがまざまざと立体像として表現されているのがこの事件なのだ。」(3)と書いている。
袴田事件もまた「特異なケース」のひとつである。証拠を捏造までするのだから・・・・
「徳島ラジオ商殺し事件」は、きちんと見つめるべき事件として、今なお存在している。
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寒い日が続く。こう寒いと、畑に立つにはつらいので、ひたすら読書に励んでいる。さて今日は何を読もうか。
近世においてアイヌ民族がいかなる支配を受けていたか、その詳細を学ぶことができた。松浦武四郎が残した本には、それが記されていた。シャモと呼ばれていた和人が、アイヌ民族を搾取収奪し、抑圧してきたことが描かれていた。
北海道に一度しか足を運んだことのない私には、アイヌ地名と今の地名とが次々と現れてくるのだが、私にはちんぷんかんぷんで、地名の説明のところは多く読み飛ばした。地名にこそアイヌの生活が込められているのだが、やむを得ない。
読んでいて、松浦を、花崎がこう評価していることに同意する。
私が松浦武四郎から学ぶべき第一のものと考えるのは、真実を追求することを通じておのれ自身が変わっていった、その在り方である。植民地を支配する民族の一員であり、しかもその政府の官吏になりながら、当時実質的に奴隷化されていた土着先住民族アイヌへの搾取と虐待を知るや、それを排除すべく批判し、直言し、彼らの友となろうとした生き方である。その自己変革はなお不徹底であり、日本国家の支配構造への認識において甘かったと、今日の眼で見、言うことはできるが、武四郎を凌駕してそのような道を歩んだ人物を寡聞にして私は知らない。
彼の旅の大部分は、和人としては単身ないし若い役人ひとりを同伴してのものであって、アイヌの案内人や村人と寝食を共にし、苦楽を分かち合い、悲喜を同じくしたことが、彼を変えた原因であることに間違いはない。心して学ぶべき点である。
武四郎はまた、歩く人だった。歩きながら考え、歩きながら観察し、歩きながら記録した人だった。したがって、彼の目の高さはその地で暮らす人びとと同じ高さにあった。自然のうちから感謝して人々の糧を得、子を育て、隣人と談話や歌舞を楽しみ、やがて土にかえる人生を世々送る人々に、神につうずる心と振る舞いを感受することができた人だった。彼自身は特に宗教深く信仰する人ではなかったが、他人の苦しみ、悲しみ、喜びに素直に共感できる人であった。(328~9)
私はとても立派な人物だと思う。
また、蝦夷地の地名を「北海道」に変えた際、松浦の提案が通ったという説明がある。私はそれを知っていたが、正確にはこういうことのようだ。
彼は、明治2年7月17日、「道名の儀につき意見書」を政府に提出している。その中で彼は、日高見道、北加伊道、海北道、海島道、東北道、千島道の六つを原案としている。そのうちの北加伊道と海北道とを折衷したようなかたちで「北海道」が正式名称に選ばれるのだが、彼が北加伊道を案とした理由は、アイヌ民族が自分たちの国をカイと呼び、同胞相互にカイノー、またはアイノーと呼びあってきたからというところにあった。北加伊道が北海道に変えられたとき、そこに込められた大事な意味を消された。(12)
蝦夷地の地名が北海道とされたあと、松浦は高給の「開拓判官」の役職を辞し、位階も返上した。明治政府によるアイヌ政策の片棒を担ぐことができなかったのである。
良い本である。アイヌ民族の苦難の歴史を知るとともに、アイヌ民族の誇り高い人びともみることができる。
朝日新聞記者。この本を読み終えて、この人も朝日を辞めたかなと思って調べたら、まだ朝日にいた。あんがい有能な記者は朝日を去っているが、この人は残っているようだ。
この本、『週刊金曜日』12月8日号で、雨宮処凛さんが「印象深い」本として、「風速計」で紹介していた。すぐに図書館から借りて読んだ。この人の本は、一気に読み進めることができる。それだけ筆力があるということだ。
日本鉱業という会社が、1960年代後半から80年代はじめまで、コンゴで銅の採掘をはじめた。そのために、多くの日本人がコンゴに渡った。幹部社員は家族を連れていったが、多くは単身でコンゴに行き、そこでコンゴの女性(年齢的には少女)と「結婚」した。
ところが日本鉱業は撤退し、それに伴い日本人労働者も帰国していった。そのあとに残されたのは、採掘施設と、日本人とコンゴの女性との間にできた子どもたちである。
この情報を得た三浦記者は、南ア共和国への特派員記者であったことから、コンゴに飛んでその事実を調べた。もちろん、日本人も帰国しているから日本でも取材活動を行った。
父を日本人とする子どもたち、といってももう中年であるが、彼らは少数を除いて貧しい生活をしている。父親がいない、父が日本人である、ということから、コンゴの社会では貧しく厳しい差別の中を生きざるを得なかった。その子どもたち一人一人を訪ね歩いて話を聞く。
また英仏のテレビ局がながした、日本鉱業が採掘している間駐在していた日本人医師たちが、日本人とコンゴの女性たちとの間に生まれた子どもたちを殺害したという情報の真偽を確かめる。それは偽りの情報であったことが確認される。
全体として、取材過程がドラマティックに書かれ、そのなかで、日本という国の世界での立ち位置、この事実に対する日本企業の対応、そして子供を残して帰って来た日本人の現在などが描かれる。
この人の著書を読むのは確か2冊目(一冊目は『五色の虹』)だと思うが、とにかく読ませる。
並行して、『静かな大地』を読んでいるが、近世、蝦夷地を支配していた松前藩や幕府のもとで、アイヌを直接酷使していた和人の男たちもアイヌの女性を妾にしたり、強姦したりしていた。コンゴでは強姦めいたことはなかったようだが、一時の慰み者として他民族の女性を扱っていたことは共通している。
万博とかオリンピックとか、国が関わる大きなイベントが企画されると、多額のカネがそこに費やされる。驚くのは、まったく関係のない事業でも、それらと関わらせて国費が投入されるということだ。
東日本大震災の復興という枠の中で、東北、関東地方とはまったく離れた地域で多額の「復興予算」が費消されていたことを、私は忘れていない。
なぜ選挙時になると、自民党議員の演説会などに土建関係など、それらの事業に関わる企業の社員が動員されるのかというと、多額のカネが撒布されるからである。公共事業は「おいしい」という話もある。利益率が高いのだ。だからそれらの企業はその返礼として多額のパーティー券を購入するのだ。
おそらく万博という名で、あちらこちらで「公共事業」が行われていることだろう。そしてそこには多くの事業者がほくほくしながら群がっているはずだ。
日本の公共事業はすべて利権がらみである。国であろうと地方であろうとそれは変わらない。万博会場でいま建設されている木造のリング、経費は350億円と言われるが、そうなると一度1億円ということになる。建築士に言わせると、そんなにかかるわけがない、と言っている。要するに、万博という「公共」(?)的な事業から莫大な利益を引き出そうとしているのだ。
政治家と官僚(国や地方自治体)と建設業者が、国費や地方自治体の金を山分けしている。
『東京新聞』記事。
国民負担「1647億円」ではとても済みそうにない大阪万博 インフラ整備9.7兆円、国費の割合は非公表
自動車メーカーダイハツの不正は、日本における工業生産の劣化を象徴しているように思える。
軽自動車メーカースズキも検査の不正が明らかになり大きな問題となった。私は、スズキのトップ・鈴木修の浜松市政や静岡県政への介入に怒りを覚えているので、スズキ車は絶対に買わないことにしているのだが、ダイハツもこういう悪事を働いているのだから、スズキだけではなく、ダイハツも「買ってはいけない」会社となった。
我が家には車は2台あり、一台はトヨタ、もう一つはダイハツの軽自動車である。ダイハツ車は4年ほど前に購入した。とするなら、すでにその時期は、ダイハツが悪事を働いている時期となる。
『読売新聞』によると、ダイハツがで、「一連の不正が始まったのは1989年だが、2014年以降に急増した」とのこと。とするなら、我が家にあるダイハツ車はその時期につくられたものとなる。
ダイハツは記者会見で、新車の発売を停止するということだが、ではすでに走っているダイハツ車はどうするのか。安全を担保されないままに走り続けてよいのか。ダイハツ経営陣は、「安心して乗って」とほざいていた。なんという無責任発言かと思う。
カネもうけに邁進するあまり、車の安全性を考えないダイハツ。ということは、ダイハツ車を購入した人びとを顧慮しないという、製造責任を果たそうとしない無責任会社であるということだ。
カネ儲けを優先する日本の生産現場はもう終わった、ということなのだろう。日本製品への信頼を大きく損なう事態である。
日本企業の不祥事は、政治とともに、多くなるばかりである。
Sさんから「秋山清著作集」が送られてきた。それと一緒に入っていたのが、この本である。著者の小沢氏は、新日本文学会の会員で、編集長や事務局長を歴任された方である。
新日本文学会は、『新日本文学』という雑誌を出していたが、会とともに今はもうない。新日本文学会の存在は知っていたし、『新日本文学』は、書店に行けば一冊はあった。しかし私はほとんど購入したことはない。
本書は、新日本文学会に関係した人々、すでに物故された方々のある種の追想である。取り上げられているのは18人、私にとっては直接会ったことのない人ばかりである。中には、名前を知っている人、著書を読んだことがある人もいる。井上光晴、秋山清、藤田省三は後者、菅原克己、石田郁夫、小野二郎、富士正晴、庄幸司郎は前者。いつの頃か、庄氏から市民運動の「告知板」がなぜか送られてきて、その後送金したこともあり、その際につけたコメントが「告知板」に掲載されたこともあった。本書を読んで、庄氏がいかなる人であるかをはじめて知った。
18人の人それぞれを、小沢氏がデッサンしていくのであるが、なるほどと思うところもあった。
寺島珠雄氏に関する記述で、「食へのこだわりは自主自律の基本だからだろう。飯のひとつもつくれぬ奴が主体性の確立などとほざくのは、笑止千万かもしれなかった。」(20)とあるが、その通りである。主体性の確立は自立的な生活があってはじめて言えるのであって、生活的自立ができない者が唱える主体性は、その存立基盤から疑ってかかるべきである。
そうそう、この本を送っていただいたSさんの名が、22頁に出て来る。「校正はベテランの」Sに「託した」、とある。
アナキスト向井孝の項で、向井の戯れ詩が記されている(( )内は私が入れた)。
立てば芍薬〈ギクシャク〉 座れば牡丹〈バタン〉
歩む姿は揺り(百合ではない!)の花 灰さようなら
関根弘の項目で、彼は60年安保で一枚のビラをつくったそうな。そのビラは、
「真鍋博にイラストを描いてもらった。岸首相、天皇、アイゼンハワーが裸で右から左に寝ていて、股間からキノコ雲が破裂していて、その上に「キシモイク、チンモイク、アーイク」。但し天皇は似顔ではなく菊の紋のシルクハットをかぶせていた。」
そのビラをデモの際に沿道の人々に撒いて行く。ビラをもらった人々が、一瞬あとにゲラゲラと笑い出したという。小沢の感想、「うーん、これが芸術運動なんだ!」。
この18人の中で、最後の田所泉。私にとっては未知の人ではあったが、興味を覚えてしまった。この人の本を読んでみたいと思った。
ここに記された18人の人間像、すでに皆物故し、過去のものになってしまっている。新日本文学会もない。
これら18人が生きた時代の半分くらいは、私も生きていた。18人の考えなど、私にとって共鳴するところが多い。私も過去の人になりつつある。
小泉純一郎が「郵政民営化」を推進した。「郵政民営化」すればサービスは向上するし、値段も下がると言っていた。そのような小泉の政治宣伝に、朝日新聞はじめメディアものった。そして恐ろしい勢いで、選挙で自民党を勝たせるようにした。
しかしその結果はどうか、郵便事業や簡保その他の事業がすべてサービス低下を招き、今度は郵便料の値上げとなる。
自民党がやることはすべて、庶民のためではなく、自分たちがもつ既得権益を維持すること、そしてさらにカネをもうけること、これだけである。
それが現在の裏金問題へとつながっている。日本には本来の政治はなく、政治という名のもとにおこなわれる、国家財政や地方財政から少数(自民党の政治家、官僚や財界)への多額のカネの分配しかない。税金を払う庶民はまったく置き去りにされているのだ。
演劇の台本である。本書にはほかの作品も掲載されているが、推薦されたのはこの「・・・つばき荘」なので、それに関してのみ記す。
まず読んでいて、これは台詞を覚えるのがたいへんだなと思った。登場人物は3人である。その3人が、ことばを連ねることで進行する。そして舞台は、「つばき荘」という精神病院のなかの診察室、保護室など狭い空間である。
東日本大震災のなかで福島原発が爆発し大量の放射性物質が流出した。当然危険地域から離れなければならないのだが、当該地域にある精神病院や老人施設が見棄てられた事例があった。この戯曲の背景には、その事実がある。
台詞の中に、
「私はとてつもなく大きなものに見放され、置き去りにされている」がある。これが一つのモチーフとなる。それは原発事故のような事故の際だけではなく、日常的に人びとは、「知らなくていい。考えなくていい。」(これも一つのモチーフである)のなかで生きていて、どうするかを決定するのは自分以外の誰かなのである。これらは精神病院のなかで語られているのだが、しかし、日本全体で、日々、人びとは「見放され、置き去りにされている」し、「知らなくてもいい。考えなくてもいい。」「意見を持たなくていい。」という状況の中で生きているのであって、精神病院にいる患者だけではない。
しかしそういうなかで、みずからの意思を明らかにする者がでてくる。原発事故が起きた場合のことを想定して対策を立てるべきだという意見である。しかしそれを経営陣が消し去ろうとする。カネがかかるし、そんなこと「できるわけがないじゃないか」。それがこの戯曲の葛藤である。
私が知らなかったことが台詞の中にある。
「昭和39年、西暦1964年に精神病の青年が駐日アメリカ大使ライシャワーを刃物で刺すという事件が起きました。政府はアメリカへの体面を保つために、精神病者の「隔離」を開始。国策としてです。それで精神病院建設ブームが始まった。政府は精神病院の開設基準を緩和し、病院建設への低金利の融資を行った。入院患者一人に対する医師の数、看護師の数を減らして人件費を切り詰め、高い収益を保証したことが功を奏し、医療のことなんか何も知らない金持ち連中が精神病院の経営に乗り出してきた。その一つがつばき荘です。今でも日本の精神科医一人あたりの患者数は35人、イギリス、ドイツ、アメリカ、イタリア、ロシア、フランスといった先進国の中では断トツ。2位のイギリス、ロシアが10人ですから、日本は3倍を超えている。医療の質は低い。精神病院は劣悪なまま、改善しない。国策だから、儲かる仕組みを変えたくない奴らがいる。肝心なところはほったらかしで、いたる所ごまかしだらけ。でもこの船に乗っていれば絶対に安全なんです。何千何万という人たちがこの船に乗って生活している。歪みは一部の人たちに押し付けられますが、見て見ぬふりを通せば気持ちよく乗り続けることができる。原発と一緒でしょ。米軍基地とも似ている。飲み込むしかないんだ。将来どうなるかなんて知ったことか。今を生きるだけで精一杯。心の中でみんなそう思ってる。」
この戯曲で、日本の精神病者への隔離政策の発端を知ることができた。ここにもアメリカが入ってくる。
「生き延びるかどうかを決めるのは自分を自由と思えるかだ。高木君。自由だ。自由が大事なんだ。」(56頁から引用。42頁にも、同じような台詞、「生きるか死ぬかを決めるのは自分を自由を思えるかどうかだでな」がでてくる。しかし「自由を」は「自由と」すべき、誤植だろう。)これもモチーフの一つである。
それはまた「名前を取り戻す。あなたの正しい名前を。」という台詞につながる。精神病院の院長山上の台詞、「子供の頃からですよ。求められている役割を素早く理解して果たすことができた。家でも学校でも。それで認められた。そうできることが嬉しくて、うまくやれないと悲しくて、役割が手に入らないともっと悲しい。役割を手に入れて上手にこなすことが私のやりたいことになった。」につながる。そこには「あなた」がなく、「自由」もない。そんな状態では、「あなた」の名前なんか必要ない。「あなた」は誰でもない存在なのだ。「名前を取り戻す」とは、「あなた」自身を取り戻す、回復する、確立することなのであり、そこにこそ「自由」がある。
さて「つばき荘」は、まずはその病院の理事長の「唾(つばき)」なのであり、「つばき荘」は同時に日本全体でもある。「いつかどこかで誰かが吐いて、大地をよごし、生活を破壊して、人間の尊厳を踏みにじるつばき」、それが日本を覆っている。
院長の山上は、雨となって降ってくるその「つばき」を飲みこみ、からだに受けることによって、「自由」になるのであった。
演劇を見て、同じような感想が書かれるようでは、面白くない。様々な解釈が可能となるような演劇を、私は好む。これは様々な感慨を鑑賞者に生みだす劇だと思う。この劇については台本だけを読んだのだが、精神病院が舞台であっても、そこでかわされる台詞には普遍性があるし、現代日本社会への怒りも表出されている。「つばき荘」という架空の精神病院を舞台にすることによって、日本全体の病理を示しているように思える。
そして打開する途は、自由な個の誕生である。他者ではなく自らが決定し、他者の期待に添うような生き方ではなく、自らが自由に選び取る生を生きること、それが示されている。
」
原題は、History:Why it Matters である。「歴史:なぜそれが重要なのか 」が日本語訳である。
歴史(学)は、現在のように、ネットを主要な舞台にして、今まで積み重ねてきた歴史的知見を否定する言説がはびこる事態となっている。そのような時代だからこそ、そういう言説と闘うことが急務となり、その意味でも歴史(学)は求められている。
しかし、歴史(学)は、やはり厳密に学問的に行われなければならない。リンは、そうした時代状況の中での歴史研究の在り方を提示している。
「歴史的真実を確定することは、決定的に重要である。それがなければ、政治家の嘘やホロコースト否認論者に対抗することができない。・・・・歴史的真実は二層構造になっている。第1の段階では事実が問題となり、第2の段階では解釈が問題となる。議論する目的でそれらを分離することは可能だが、現実の歴史実践のなかでは、ふたつは相互に結びついている。事実というものは、意味を与える解釈に組み込まれなければ、動き出すものではない。そして解釈の持つ影響力は、事実に意味を与える力を基盤としている。」(27頁)
確かに私たちは、史資料に書かれた事実をもとに、それらを解釈しながら歴史の流れの中に位置づけていく。史資料に記された事実がなければいけないし、それらに書かれている事実を解釈しなければ、それらは単なる孤立した事実の束にしかすぎない。
「事実と解釈とのあいだには密接な関係があるが、歴史的真実についての疑念を惹起する。しかし、それはまたそうした疑念を解消する、いっそうの研究に対するたえざる誘引を生み出してくれる。仮想上の批評家がナポレオンは自分ひとりで法を起草したわけではないと異議を述べるとき、私はもっと掘り下げて、彼が実際に審議に参加した証拠ならびに彼の見解に対する協力者の理解についての証拠を発見することが求められよう。このようにして、解釈をめぐる論争は、より多くの事実を提示することになるのだが、以前の解釈、事実、論争は、視界から消え去れことはない。それらは将来の仕事に対する基礎を提供してくれるのである。」(39頁)
このように、提起される疑念に対して新たな事実を提示することによって、歴史的真実はより精緻なものになっていくのだ。事実をどう解釈するか、その解釈はそれぞれ異なることがあるかもしれないが、そうであっても、それらの解釈は史資料に記された事実によって当然制約があり、そういう制約の中での解釈をめぐる論争により、歴史的真実はより確かなものになる。
「過去と現在の権威主義体制が歴史を操作し記憶を支配しようとする試みにもかかわらず、歴史と記憶はそうした統制を突破するひとつの方策でもある。それは、歴史学という学問のなかで訓練をされた者によって執筆され教えられる歴史によるところが大きい。歴史はエリートによるエリートのためのエリートについての研究として始まった。しかし時間がたつにつれて、歴史の記述や教育も変化してきた。歴史は民主主義社会の防衛のための最前線ではないかもしれないが、最前線に近い位置にあることは間違いない。なぜなら、歴史の理解は、嘘を構成する事実誤認という霧のなかをかき分けて進む能力を高めてくれるからである。さらにいえば、歴史はアイデンティティをめぐる論争に常に再生可能な領域を提供し続けてくれることで、民主主義的な社会を強化してくれる。新たな関心、新たな研究、新たな史料、これらが、そうした領域を再活性化してくれる。再生と論争の過程で、集団、国民、世界はより強固な基盤を手にすることができる。」(81頁)
歴史(学)は、民主主義的な社会にとり、必要な学問なのである。
郵便料金が値上げされるという。ある意味で仕方がないと思う。
郵便物ピークから半減 値上げしても1年で赤字 電子化で窮地に
昨年ごろからか、ポストに配達される郵便物が急減した。それまでは毎日我が家のポストには郵便物が入っていたのだが。
私自身は手紙を多用する。メールで連絡を取ることもあるが、できるだけ、とくに絵葉書を使用する。だから切手を常備している。
書簡は歴史研究で重要な資料となる。私自身は、軍事郵便、田中正造が同時期に国会議員を務めた河井重蔵宛の書簡などをまとめたことがある。たとえば、正造の書簡には、幸徳秋水など初期社会主義者を自由民権運動を継ぐもの、とみていたことが書かれていて、新たな知見を得ることができた。
作家などの『書簡集』も出版されていて、当該人物を研究する際には、こうした書簡集は必ず使用する。あるいは政治家などの書簡も、政治史を理解するためにも重要である。
メールでやり取りする場合、メールは短い文でやり取りするし、なんらかのかたちで残されることも少ないだろう。書簡は、メールとは比べ物にならないほどきわめて重要なのだ。
だから私は、事務的な連絡する以外は、書簡でやりとりするようにしている。
郵便配達は、どのようないなかでも配達されるから、その人員を維持するために多額の人件費が必要となる。重要なインフラといってよいだろう。そのインフラは維持されなければならない。小泉純一郎内閣の「郵政民営化」は、そうしたインフラを破壊する一階梯であった。
また人びとが本を読まなくなったことも郵便配達物の減少につながっているだろう。私は『選択』、『世界』、『週刊金曜日』を購読しているが、いずれも郵便による配達だ。これらの雑誌の購読者は、あまり多くはない。
書簡、手紙が減るということは、文化の衰退を意味することにもなるのだろう。郵便文化の復興を、私は望む。
歴史に関わる言説が、書籍・雑誌はもとより、ネットやSNSで無数に流通している。私が若いころは、少なくとも書籍にはいい加減な内容のものはなかった。しかし今は、書籍ですら、まったく史実と異なる内容が、おどろおどろしく書き記されている。ネットやSNSはもちろんである。
『なぜ歴史を学ぶのか』に、こういう記述があった。
集合的記憶が、書物や博物館からテレビ番組やインターネットの噂まで、多様なかたちをとって形成されている。トラウマ的な出来事であろうとも、国民的偉業であろうとも、集合的記憶は過去についての真実の説明に基づいているとき、アイデンティティをかたちづくる最も有効で持続性のある仕事をおこなっているといえる。一般市民は、注目を集めるようなものだけでなく、できる限り正確な歴史的出来事や歴史的経緯を知らされねばならないのである。問題は、正確性と人為性との間のバランスであり、それはまた歴史的真実とそれをどうやって立証するかという問題に私たちを連れて行ってくれる。26頁
歴史研究者たちは、集合的記憶を形成すべく、「できる限り正確な歴史的出来事や歴史的経緯」について、人びとともに明らかにし、提供していかなければならない。そうした意識をもって研究に励むべきではあるが、しかし近年、その歴史研究が「視野狭窄」におちいっているという。リン・ハントもそれを指摘している。
視野狭窄は、業績を残すための専門特化の必要性によって悪化させられてきた職業病である。98頁
歴史家たちは、最先端の議論についていくために視点を狭隘化してきたのだ。101頁
「業績」として、つまり歴史研究者が研究者としての「生業」を得るために、現代的な、広い視点をもたずに、ちまちまと狭隘なテーマを追究する傾向が強くなっている。しかしそれは「集合的記憶」へとつながっていくのであろうか。様々な紆余曲折を経てつながっていくのだろうが、しかし狭隘化したテーマでの研究の、「集合的記憶」への道のりはあまりに長い。
大学でそういう研究を行うのはまだよいが、パブリックヒストリーの「現場」としての民間の研究団体でそういうことを推奨し、顕彰するのはいかがなものかと思う。
『なぜ歴史を学ぶのか』(リン・ハント)を読んでいたら、こういう記述があった。9~10頁である。
記念碑破壊のパラドックスは、1789年のフランス革命のなかに最も明確なかたちを取って顕れてくる。革命家自身は1794年に「暴力行為」という言葉を発明したが、それはフランスを非キリスト教化しようとする戦闘的分子による行きすぎた熱狂的行為を非難するためであった。つまり、教会から金や銀を掠奪したり、パリのノートルダム寺院にある国王象の頭をたたき落したり、教会を理性の神殿へと転用したりする行為を指している。教会のなかには売却され、倉庫や商館へと変えられたものもある。革命の指導者は、封建制や君主制の象徴が破壊されるのを正当化する一方で、ラテン語が書いてあるものや平等の精神と両立するものは保護されるべきだと論じていた。革命家たちは、1793年には、王権、教会、亡命貴族などから押収した美術品によって、すでにルーブル宮殿に世界最初の国立の美術館を建立していた。1795年に革命家たちはさまざまな修道院や僧院からかき集めた彫像や墓石などで、フランスにおける記念碑の最初の博物館を開設した。要するに、暴力行為と保護は手を取り合って進んだ。過去の記念碑の攻撃は、革命家たちに文化的遺産についての考察を促したのだった。憎悪の対象となる象徴も、もし芸術として再評価されるならば保護されうるものとなる。
フランス革命時に、旧社会の象徴となるようなものに対する破壊や略奪が行われたことは知らなかった。教会が封建制の象徴的なものであるがゆえに、破壊の対象となったようだが、日本においても明治維新時に神仏分離・廃仏毀釈が行われ、寺院や仏像等が破壊され、仏像などが海外へと流れていったことがある。現象面で、日本とフランスは共通するところもあるが、決定的に異なるのは、日本の廃仏毀釈・神仏分離は、天皇を神として、権威の源として位置付けるために行われたことである。いわゆる国家神道の構築のための手段であった。たしかに寺院が幕藩体制の民衆支配の一環としてあったことは事実ではあるが、徳川封建体制の象徴となるような存在ではないだろう。だいたい近代天皇制国家の担い手たちの出自は、封建制下の支配層である。
また寺院や仏像などの破壊は地域により異なるが、かなり激しく展開され、仏像などは捨て置かれた。近代化の中で軽視された仏像などを美術品として再認識させたのは、フェノロサや岡倉天心であり、それは1880年代で、破壊に携わった者たちは「保護」という認識をもたなかった。
時代の大きな転換期に、こうした「暴力行為」が、日本だけではなく、フランスでもあったことを知ることができた。
『東京新聞』が社説で、「ホロコーストの呪縛」を論じている。そのなかで、「迫害されたつらい体験を教訓として、自分たちの安全確保を最優先するあまり、他の民族の痛みに鈍感になっているのでしょうか」とある。
私は、この地域におけるイスラエルの行動は、そんなものではないと思う。彼らは、かつてユダヤ人が受けた迫害の記憶とは無関係に、過ぎ去った時代につくられた宗教的言説を実現しようと、パレスチナ人を追放し、あるいは「処理」して、大ユダヤ国家を樹立しようとしているとしか思えない。
ハマスの襲撃後、「ドイツの政治家らは、「イスラエルの安全を守ることはドイツの国是」」だとして、ガザの民衆が多数殺されてもイスラエル批判を封じているとも記されている。
ドイツは、アウシュビッツにみられるように、もっともユダヤ人を迫害した国家である。そのドイツが、みずからおかした迫害という罪責を、パレスチナに住む人びとになすりつけた、肩代わりさせたのではないか。イスラエルが、ハマスによる攻撃がなされる以前から行ってきたパレスチナ人迫害・虐殺に、ドイツはどう対応してきたのか。厳しくイスラエルを批判してきたのか。ドイツが行ったユダヤ人迫害と、イスラエルが行っているパレスチナ人迫害は、同質ではないか。
ドイツが、イスラエルによるパレスチナ人迫害を批判しないということは、みずからのユダヤ人迫害の罪責をきちんと見つめていないということではないのか。いかなる迫害をも認めない、という立場こそ、ドイツが採用すべき立場ではないか。