浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

【本】花崎皋平『静かな大地 松浦武四郎とアイヌ民族』(岩波書店)

2023-12-17 11:21:19 | 

 東京への往復の電車で何を読もうかと書棚から選んだのがこの本。買ってあるのに読んでない本がたくさんある。

 新幹線車内で読みはじめたら、これは読みとおさなければならないと思った。松浦武四郎という人物の名は知っていたが、具体的にどんなことをしていたかは知らなかった。そういえば以前『現代思想』臨時増刊号がこの松浦を特集していたことを今思い出した。確か、私はそれも購入している。

 松浦は伊勢松坂の出身、本居宣長のところである。松浦も国学を学んでいる。多くの和人がアイヌを蔑視していた時代に、松浦のアイヌとの間につくった対等な関係がうかがえる。といっても、アイヌは和人に徹底的に搾取収奪されていたから、松浦にとっては実質的に対等な関係ではないが、アイヌをまさに同じ人間として対していることがわかる。それは国学の影響か、それとも彼の人間性の問題か、おそらく後者であると思うが。

 しかし読んでいて、アイヌを直接管理し働かせる和人(「番人」)の卑劣なこと。彼等は重労働を強い、食料を与えず、結婚もさせないで人口を減らすなどの蛮行を繰り広げた。「番人」は、アイヌの娘を妾にしたり、アイヌの妻を横取りしたりしていた。以前私は、1930年におきた台湾の霧社事件について調べたことがある。台湾を植民地化した日本国家は、「原住民」(台湾ではこの呼称をつかっている)が住むところに警察官の駐在所を置き、警察官はその地域の「原住民」の長の娘を妾にしたり、「原住民」を酷使したりしていた。それと同じことが、蝦夷地で行われていたことを知った。植民者が行うことは時代を越えて共通している。

 松浦は「番人」たちの蛮行を細かく調べて書き留めている。

 和人がアイヌに対して行った無数の暴力、それは近代になっても継続された。

 そうした実態を知らず、知識もないままにネットでながされる偽情報を真に受けてそれを拡散させる自由民主党の国会議員、杉田某に、さらに怒りを覚える。

 「静かな大地」を、「和人」、日本人は、大いに混乱させてきた。そうした歴史をきちんと認識すべきである。

 

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東京へ

2023-12-16 21:50:08 | 学問

 今日は東京へ。明治大学で行われた某研究会に参加した。他者からの知的刺激を受けることも必要だと思い、研究会だけを目的に上京した。行くたびに、東京は高層ビルが増えている気がする。そして東京はどこでも人が多い。地方では高校生や中学生以外の若者は、東京ほどたくさんいない。お茶の水周辺ではそうした若者がたくさんいた。そして東京にはたくさんの人がいて、地方からときたま上京する者を疲労させる。

 研究会が終わったらすぐに帰った。帰りは「こだま」を利用した。空席が目立っていた。人びとは「こだま」ではなく、より速く走る「ひかり」に集中する。私も行きは「ひかり」を利用したが・・・

 今日話を聞いていて、大杉や野枝が遺した言説を単なる言説に終わらせないためには、現代の視点から捉え直しをする必要がある。だが彼らの言説を現代の視点から捉え直すというとき、どのような方法を採用するのか。彼らの言説は彼らが生きた一定の時間・空間のなかで生み出された言説なのである。その一定の時間・空間のなかで課題としてとりあげた問題が、今もって未解決の課題のまま残されていることを指摘することによって捉えなおすという手法もあるだろう。その実例としては、東大日本史担当の加藤陽子さんが「100分de名著 フェミニズム」で、野枝の「不覚な違算」を取りあげたことがある。ではそれ以外の手法はどうなのか。

 その捉えなおしというとき、みずからが対象者に入り込み、その対象者をみずからを表現する手段にする手法は、とるべきではない。そういう手法をとる「評伝」めいたものが多くなっているという。私はその一つを厳しく批判したことがある。

 過去の人物が遺した言説を捉えなおすというとき、やはり方法論を考えなければならないだろうと思う。過去の人物が遺した言説を説明することはそんなにむつかしいことではない。それを現代の視点から捉えなおすというときには、やはり方法論が問われるのではないかと思う。

 

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「戦略村」

2023-12-14 12:53:53 | 近現代史

 『週刊金曜日』で、本田雅和氏が、本多勝一氏がかつて取材したベトナム解放戦争のあとを追跡している。

 今週は、『母は枯葉剤を浴びた』で高名な報道写真家の中村梧郎氏を取材している。そのなかでこういう記述がある。 

 南ベトナム解放民族戦線の戦士らと、「一般農民」を切り離して接触させないよう、農村の民を有刺鉄線や竹槍で囲った人工の村に強制移住させ、集中管理する「戦略村」をあちこちに建設した。

 この「戦略村」は、すでに日本軍が「満洲」で行っていた。「満洲」でのそれは「集団部落」と称した。『満洲共産匪の研究』第二輯に詳しく記されている。「集団部落」の外は、「共産匪」が跳梁するところであるとして、無差別攻撃が展開されるのである。

 いずこの侵略軍も考えるところは同じである。しかし言うまでもないことだが、そのような「戦略村」、「集団部落」を建設しても、侵略軍は必ず追い出されるのである。

 そしてアメリカは、枯葉剤を広汎に撒布して、ベトナムの大地を汚し、そこに生きる人民に多大な犠牲を強いたにもかかわらず、それに対する責任を負わないばかりか、被害に対する補償についても押し黙るのである。それは侵略をこととするどこの国家にも共通するところである。

 ベトナム戦争は終わっているけれども、枯葉剤などの被害は続いている。アメリカの蛮行を、だからこそ現在も追及する必要がある。「悪行」は「悪行」として、その「悪行」を行った「アメリカ帝国主義」を忘れてはならない。

 

 侵略

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古賀さんの指摘

2023-12-14 10:35:58 | 政治

自民党パーティー券裏金問題の捜査で「安倍の呪縛」から逃れられるか 私たち国民がバカなのか問われている

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歴史叙述、他国の状況

2023-12-14 10:25:45 | 歴史

 リン・ハント『なぜ歴史を学ぶのか』を読んでいるが、驚くことがたくさん書いてあって、溜め息がでてしまう。歴史研究の方法などが書いてあった、ふむふむと読み進んでいくと、各国の歴史叙述は、どこの国もきわめて主観的で、これでは歴史というのは、マジョリティや政治権力の婢のままではないかと思った。

 次の文は52頁からの文である。

・・・・最近までオーストラリアの学校教科書は、1770年にジェームズ・クックが到着したことで始まり、先住民であるアボリジニの人々の長い歴史は無視されていた。2010年に改訂された『オクスフォード・イギリス史』は、依然としてイングランド人の視点からの「イギリス」史を語っていた。ウェールズは統治の失敗と混乱に苦しんでいたが、イングランドは平和と良質の統治をもたらした。フランスの歴史は、ほとんど奴隷制や植民地化の暴力を無視して、フランスの歴史を宗主国の視点から語ってきた。奴隷や混血民族の生活は、ほとんど登場してこなかった。英語圏の学者は、この点でフランスの先達にならってきた。(中略)フランスの教科書は、21世紀の初頭に至るまでフランス植民地における奴隷制の歴史を掘り下げることはなかった。

・・・インドでは、ふたつの大きな語りが注目を集めようと競合している。ヒンドゥー・ナショナリストの語りは、インドは外国からの影響力を遮断しようと闘う本質的にヒンドゥー国家であると長らく論じてきた。そうした語りのなかでは、2世紀にわたり現在のインド支配していたムスリムのムガール朝は、外国勢力であり、野蛮で暴力的で抑圧的となる。これと対照的に、世俗的なナショナリストの歴史家たちは、イギリスがやってきてムスリムとヒンドゥー教徒の共同体的分断を持ち込むまでは、宗教がインドを分断したことはなかったと論じた。(中略)20世紀を通じて中国の歴史家たちは、中国国家の同化作用を持つ権力を強調してきたが、それは漢民族以外の民族の統合を正当化するためでもあった。文化や文明の点で漢民族以外を劣等な存在として描く者もいた。2世紀あまり中国を支配した満州人は、能力にかけ、野蛮で文字が読めない民族として描かれている。

 歴史は、当該時代の権力の担い手による支配を正当化させるための手段となっているのだ。まさにイデオロギーそのものであるといえよう。

 リンは、ヘーゲルは講義の中で、「東洋はひとりだけが自由であると知っていたし、こんにちでも知っている。ギリシアやローマ世界は、自由である者がいたことを知っていた。ゲルマン人は、すべての者が自由であることを知っている。」と語っていたとし、

 ヘーゲルにとって、東洋は、未成熟、自省心の欠如、従属性、官能性、刹那主義を象徴していたのである。

 と記す。

 歴史は、偏見の眼で、権力者や権威者が都合の良いように語られる、ということだ。とするなら、現在の歴史修正主義がはびこるのも仕方がないか、と思ってしまう。

 これらの事実を踏まえると、日本の学問的な歴史研究は、よくがんばっているという評価を与えたい。

 

 

 またリンは、こうも指摘している。 

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【本】三木卓『柴笛と地図』(集英社)を読み終わる

2023-12-14 07:40:15 | 

 本書は、三木が静岡高校に在学していた頃の自己を振り返ったものだ。その三木の静岡高校の友人であった櫻井規順と城内中学校で同級生であった市原正恵(三木が好きだった女性である)、この二人と私は長い間交友関係にあった。

 三木は当初社研に入り、日本共産党を支持し、その系統の人たちと交流していた。三木は社研の上級生らから自治会長選挙に立候補することを求められ、一度はその気になった。その際、一緒に立候補する副委員長として櫻井規順の名が上がった(本書では梅木となっている)。櫻井は静高の新聞部長、ちなみに市原は静岡城北高校の新聞部長であった。

 櫻井について、三木はこうしるしている。三木が櫻井(梅木)を訪ねた時のことだ。

 梅木は普段は口数も少なくて、はっきりした意見表明しないことが多い。だからそういうやつだと思い込んでいたが、今日の梅木はそうではなかった。かれは、生徒自治副委員長に加納豊三(三木のこと)とともに立候補することに十分な意義を見いだしているようなのだ。

 豊三は梅木の部屋のことを思い返した。自分だって父親はいないが、梅木には母親もいない(櫻井は満洲開拓団からの引き揚げ者一家であった)。頼りにできるのは姉だけだ(姉は看護師をして櫻井を支えていた)。そういう梅木は、たいていの時間は一人で、あの部屋でぼんやりしていることになるだろう。そういうとき、彼は何を考えているのか?

 梅木は、こんなところから、一日も早く逃れたいと思っているだろう。姉にかけている負担をできるだけはやく取り除かなければならない、と思っているだろう。そして、かれもまた、革命を願っているにちがいない。

 梅木がそこまで腹を据えているのなら、やろうか。やれるかもしれない。お互い外地引揚者の無産者階級の子弟同士で心をあわせてやれば、できるかもしれない。しかし・・・

 などと来たときはちょっと違ったやや積極的な気分になった豊三は快くペダルを踏んだ。すでに日は暮れていた。

 この当時、三木は日本共産党の支持者であった。櫻井はすでにこの頃から日本社会党の支持者であり、その後も社会党とともに一生を過ごした。一貫した姿勢を堅持し、静岡県内の様々な運動に関わった。

 しかし三木は、日本共産党系組織の活動のあり方に疑問を持ち社研を去り、立候補もとりやめた。兄の影響もあって、三木は多くの文学作品を読み、いろいろなことを考えていたからでもあった。

 そして三木は文学に進み出ていった。静高の『塔』にみずからの体験を書いた作品(「この路地の暗き涯を」)を掲載した。それは、当時静岡大学にいた高杉一郎から賞賛された。ちなみに、高杉夫人は静岡城北高校の教員(小川順子)であり、市原正恵だけではなくその一家とも和やかに交流する関係であった。

 三木は、市原と手紙の交換もし、また市原家を訪問したりした。そのやりとりが本書に書かれているが、地に足をつけていない三木の議論に対し、市原は適切な批評を加えていることがわかる。市原もまた、その読書量は若い頃から(そして晩年まで)すごかった。市原が結核で入院した病院にお見舞いに来た櫻井とはサルトルとボーボワールについて話し、櫻井が夏休み田舎の親戚の家に行くというと、アラゴンの「レ・コミュニスト」全4冊を市原から渡されたりした。 

 三木はその後早稲田の文学部に進学するが、市原は経済的に裕福な家庭であったが、結核のこともあり進学はしなかった。

 櫻井は静岡大学法経短期大学に進学した。1955年秋、その「法経短大祭」で、自治会役員であった櫻井等は山川均と羽仁五郎を呼んだ。講演の翌日、山川を大杉らの墓に案内すると、山川は墓碑を見て「大杉の字だ」といって抱きかかえるように墓石に歩み寄った。

 その櫻井と市原が再びつながりをもつようになったきっかけは、1973年9月16日の「大杉栄虐殺50年」の墓前祭であった。海野福寿(のちに明治大学教授)の呼びかけではじめられた墓前祭の事務局を櫻井が担い、そこには荒畑寒村、近藤真柄、瀬戸内晴美らが参集した。

 そして本格的に墓前祭が開始されたのは、1990年、市原が中心となった。櫻井もそれに協力し、2003年まで続けられた。

 2012年、市原は中止していた墓前祭を2013年から23年の虐殺100周年の2023年まで続けたいという遺志をのこして他界した。

 2023年、2013年から再開されたその墓前祭がピリオドをうったあとの11月、三木卓も、櫻井規順も他界した。

 三人とも、戦争を体験してそのなかで肉親を亡くし、戦後の民主主義を大事にしながら生きてきた。1940年代後半から50年代前半、静岡市で中学生、高校生として、その時代の荒波のなかで、彼等は政治、社会に関わりながら、膨大な読書をしながら時代の動きを掴もうとして生きていた。政治、社会の動きを捉え、みずからの生き方を模索するためには、先人が遺した文化、学問的な成果を吸収していかなければならない。それらを糧にして、三人はそれぞれに、政治、社会、文化と関わりながら生きてきた。

 今、戦後民主主義が捨て去られようとしているとき、戦争を体験した若者たちの戦後社会の、いわば産みの苦しみを知ることも無駄ではないだろう。本書にはそうした青春の群像が描かれている。

 私は三木卓は直接知らないが、市原、櫻井からは三木のことをよく聞いていた。その三人がこの世を去っていった。

 

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検察や国税庁は政治家には甘い

2023-12-13 09:17:47 | 政治

 青汁王子さん、検察も国税庁も、政治家には甘いのですよ。『議員秘書、捨身の告白』(講談社)にはそのことが書かれています。政治家はやりたい放題、それを検察などもほとんど見逃してくれます。

青汁王子「一般人も1000万円までちょろまかして、バレたら『訂正』すれば良いってことですか?」

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歴史研究の現在的位置

2023-12-13 06:57:19 | 

  「歴史についてのあからさまな嘘は、ソーシャルメディアの影響によって、より一般的な現象となっている。インターネットが、歴史的嘘が増殖するのを可能としている。というのも、インターネット上では、事実上、事前の検閲なしに、そして一切の制裁もなく、誰でも、どのような名前でも、そしてどのような内容でも投稿することが可能だからだ。きわめて異様な主張が広範囲に流通し、ただ流通しているという理由で一定の信用を獲得している。こうした状況において、歴史的真実を主張することは、市民として勇気が要ることだが、必要な行為となっている。」

 この文は、リン・ハント『なぜ歴史を学ぶのか』(岩波書店、2019年)からの引用である。

 私は、Xやインスタグラムなど、眉を顰めるような言説が飛び交うSNSはやってもいないし、見ることもない。短い文で主張すべきことを主張するのは無理だと認識しているからだ。実際SNSでは、「あからさまな嘘」が飛び交い、その嘘が人を集め、一定の勢力として街頭にまで進出している。そしてその嘘が、私が若いころには見かけなかった、学問的にはありえない、まったく無意味な内容のことを記した書籍が書店の店頭にも並ぶようになった。

 それだけではなく、それと並行して、「学知」というものが軽蔑されるようになった。まさに「事前の検閲なしに」「どのような内容でも」ネット上(ある種の「公共空間」でもある)にアップすることができるようになり、人びとは簡単に「公共空間」にみずからの言説を公表できるようになった。今までの「公共空間」で流通していたのは、ある意味で冷静な、一定の根拠をもった言説であったが、ネットの世界では、驚くような根拠なき乱暴な言説、日常生活では使わないような汚い言葉がつかわれるようになった。ネットは、人間の「悪」の露出を促進させたといってもよい。

 そうした悪罵を「公共空間」に投げ込む人びとは「ネトウヨ」といわれる。彼らは、南京虐殺はなかった、関東大震災時の朝鮮人・中国人の虐殺はなかった・・・・・・などと、歴史学上ではまったく問題にならない嘘を垂れ流している。当初、彼らの言説があまりに荒唐無稽で根拠なき嘘であることが明々白々であったので、歴史研究者たちは無視していたのだが、なんとその言説が「公共空間」で一定の力をもつようになり、歴史研究者たちも無視するわけにはいかなくなり、いかに彼らの言説が虚構にまみれているかを証明していった。私も、南京事件に関わった兵士の軍事郵便を発見することにより、いくつかの事実を提示する機会をもった。

 驚いたことに、当時私が参加していた自然科学の研究者たちの団体に、そうした人が参加してきて、一定の自然科学の知見をもった人物であるのに、南京事件はなかったというような言説をその団体のメーリングリストで流してきたのだ。私はただちに反論した。もちろん根拠を丁寧に示しながら、である。しかし彼はまったく頑固であった。ある意味で、宗教的な信仰の領域にまで入り込んでいるような「反論」をしてきた。一定の科学的な知見を持った人物が、きちんと立証できる事実に対して、なにゆえにそこまで主張するのか、私にはわからなかった。

 それ以来、歴史研究は、そうした人びとの存在を意識しながら行わなければならないという自覚をもった。

 さて『なぜ歴史を学ぶのか』は、原題は、HIstory:Why it Mattersである(「歴史、なぜ重要なのか」という意味となる)が、そうした時代における歴史研究の果たす役割を記したものだ。一読の価値がある。私は現在半分くらいまで読み進めた。厚い本ではない、歴史に関心を抱く方には読んでもらいたいと思う。

 

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カネ、カネ、カネ

2023-12-12 11:11:36 | 社会

 ほんとうにうんざりしてる。安倍派に集まるパーティー収入のカネ、それを議員が裏金とする。パーティー券を購入するのは企業。大企業ほどたくさんのパーティー券をかっているのだろう。そのカネは、ある種の賄賂だ。カネを出すから俺たちにもカネが儲かるようにしてくれよ、というのだろう。政治家は、そのために税金を補助金として与えたり、カネが儲かる仕組みをつくっていく。

 そして、あのマイナンバーカードを取得しようと役所に並んだ人びとも、2万ポイントのカネが配られるから・・・・

 カネ、カネ、カネ・・・・・

 最近流行のpay payで支払うとポイントがつくということもあり、人びとはそれをつかって支払いポイントを得る。そのポイントは、自治体が提供することもある。

 カネ、カネ、カネ・・・・

 私のように、通販以外は現金で買うことを原則としている者には、自治体などが提供するポイントはつかない。

 すべての道はカネによって敷き詰められている、という感じ。

 政治家も人びとも、国境なき医師団などにカネを寄付すればいいのにと思う。カネはあの世に持ってはいけないのだ。

 

 

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「国境なき医師団」

2023-12-12 06:12:49 | 国際

 自分自身がすべきであるが、できないときにはお金を出す、それが私のやり方だ。

 いま、ガザはイスラエルによってそこに住む人びとが「一掃」されようとしている。許せないことだ。イスラエルという国家が現在の地に建国された1940年代後半から、国際社会は不当なことをしたと考えてきた。ヨーロッパのキリスト教徒たちは長期間ユダヤ人を差別し、とりわけナチスドイツはユダヤ人を根絶やしにしようとした。

 ヨーロッパ人がそうした差別を克服し贖罪したいとするなら、最適な解決策をとるべきであった。しかし彼らをはじめとした国際社会は、パレスチナに住む人びとをその居住地から追い出し、そこにイスラエルという国家をつくった。差別を続けてきたヨーロッパのキリスト教徒は、ユダヤ人差別の歴史的責任をとらなかった。

 その結果が現在のガザのありさまだ。

 イスラエルは、ガザから、西岸地区からパレスチナ人を追い出し、その地をイスラエル国家に包摂しようとしている。そこに住む人びとが、殺されようと、けがをしようと、そんなことは一切構わない。それは長い間続けられてきたことだ。多くのパレスチナ人は理由もなく殺され続けてきた。パレスチナ人の怒りと絶望を、私たちは想像しなければならない。

 現在ガザや西岸地区で行われているイスラエルの蛮行は、多くの戦争を経る中でつくられてきた国際社会のルールをまったく無視するというきわめて理不尽なものだ。許してはならない!イスラエルは、ただちに戦闘行為を止めるべきである。

The current Israeli brutality in Gaza and the West Bank is extremely inexcusable and totally disregards the rules of the international community that have been created through many wars. It must not be tolerated! Israel must immediately cease its combat operations.

 現在、イスラエルの激しい攻撃のその下で、国境なき医師団の医療チームが活動を続けている。今までも国境なき医師団は、世界で医療が求められている現場に行き、医療活動を行っている。そういう人たちを、私たちは支えなければならないと思う。

 国境なき医師団が、この問題をユーチューブにアップした。見てほしい。

 

【トークイベント】ガザ地区で目撃した現実──今、私たちに何ができるのか

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「人生不可解」

2023-12-10 21:18:47 | 社会

 先に紹介した『夏目漱石と西田幾多郎』(岩波新書)のなかに、「煩悶青年」ということばがあった。子どもから大人への過渡期、人生とはいかなるものか、どのように生きたらよいか、人生とは生きるに値するものか・・・・などの疑問を持つ時期がある。旧制一高の藤村操は、「人生不可解」ということばを遺して、華厳の滝に身を投げた。

 そのような人生上の煩悶を抱えた青年が「煩悶青年」といわれるのだが、しかしそうした煩悶を持たない者もいる。そういう問いを持たないまま大人になった者は幅広い教養に欠ける。

 子どもから大人へと成長する過程で、「煩悶」することは、私の経験から言っても貴重である。というのも、人生上の回答のない問いを抱えながら、様々な書籍に手を伸ばすからである。西洋文学や日本文学、哲学・・・・何か回答が書かれているのではないかと思い、活字を追うのだ。活字の中には、考える手立てが隠されている。もちろん回答はない。だけど、読みながら考える。

 三木卓の『柴笛と地図』にでてくる豊三も、光江も、そしてそのほかの者たちも、人生を探索しながら、文学などに入り込んでいった。彼らの読書量は膨大で、私が読んだこともないものも読んでいる。そして読んだ本について、意見を交わす。「煩悶」は読書へ誘う薬であり、その薬はやがて教養という豊かな文化的豊穣をつくりだすのだ。

 近年、若者が本を読まなくなったという。子どもから大人への過渡期において、「煩悶」することがなくなったのだろうか。

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歴史は何に寄与できる?

2023-12-10 21:18:47 | 

 定期購読している『世界』が送られてきたが、リニューアルされていた。今までの慣れていた感じとは異なるが、リニューアルの評価はいずれしてみたい。

 さて、歴史家の松沢裕作氏が「歴史学は世界を変えることができるか」という大きなテーマで書いている。氏は、「歴史学はこのような(不条理な)抑圧を世界から減少させることに寄与することができるか」と問い、「私は、歴史学はそれに寄与しうると考えている」と、最初に結論が書かれている。

 ここで私は、氏の主張を紹介したり、なぞることはしない。身近に見る最近の研究動向について言及したい。

 私もささやかながら歴史研究に携わってきたが、個人としては(自治体史ではそうはいかないので、あくまで個人としての研究である)、「不条理」なことをなくすことに関わることを研究の対象としてきた。南京事件や、在日コリアン史、朝鮮女子勤労挺身隊、「満洲移民」など、国家が否定したい「事実」を歴史的事実として証明することなどに尽力してきた。要するに、政治社会的な視点をつねに持ちながら、研究対象に接近してきた。私が個人的に師事した歴史家のほとんどは、政治社会的な視点をもちながら研究を進めていた。私もそうであるべきだと思ったから、そのような研究をしてきた。

 だが、最近の研究では、そうした政治社会的な視点をもたないものが増えているような気がする。あるいはそうした研究を評価する傾向といおうか。

 時代が変わった、という感が強い。

 歴史学は、何に寄与できるのか、やはりそれを問わなければならない、と思う。

 

 

 

 

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スポーツ優遇体制

2023-12-10 16:53:29 | 社会

 『日刊ゲンダイ』のこの記事。その通りだと思う。多くの高校でも同様な仕組みがある。スポーツ優遇!運動部に入っている生徒は、成績が悪くても、授業中寝ていても、ほとんど許される。授業時間以外、ひたすらスポーツをやっているのだから、という理由だ。

 部活動、スポーツ優遇体制が、日本の学校教育を破壊してきた。

日大の病巣を「ルポ大学崩壊」の著者が抉る「スポーツ優遇の無法地帯にメスを入れない限り…」

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【本】三木卓『柴笛と地図』(集英社)

2023-12-10 15:47:28 | 

 三木卓が静岡高校に在学していた時代を描いたものだ。

 読みながら、静岡市と浜松市との違いを痛感した。

 浜松市の政財界が、静岡大学から浜松市にある工学部と情報学部を奪い取って浜松医大と一緒にして一つの大学にしてしまおうしていたが、静岡大学の静岡市にある学部がそれに反対して、現在は暗礁に乗り上げている。浜松市の政財界が、人文系の学知を軽視して、カネ儲けに直結する工学、医学、情報をまとめ、人文軽視の政府の意向を追い風にして、新たな大学をつくろうとしている。浅ましい話だ。

 長い間浜松市に住んでいて、よく私は自嘲気味に「文化なき浜松」と言っていたが、この本を読んでつくづくそう思った。静岡市には戦前は旧制静岡高校があった。それが静岡大学になったのだが、そこには人文系の学者たちが住んでいたはずだ。浜松市には浜松高等工業学校、のちに浜松工業専門学校となり、それが戦後静岡大学工学部になった。もちろん、それ故に、人文系の学者は浜松市にはいなかった(ただし、静岡大学教育学部浜松分校が1965年まで存在していたから、その関係で少しは在住していた)。

 そうなると、静岡市の方は、人文系の知的刺激は格段に多いことになる。高校生であった三木卓も、市原正恵も静岡大学にいた高杉一郎との交流があった。浜松には高杉一郎がいなかった。

 この本で描かれている時代は1950年代前半であるが、文化的な境遇は、はるかに静岡市が優っていると思った。豊穣な文化的境遇の中で、高校生は文学や音楽、美術などに関して、高校生にとっては背伸びではないかと思えるような内容の会話が、高校生の間で飛び交う。そういう知的刺激のなかで育っていく場合と、そうでない場合とでは、大きな知的格差が生じる。

 私が羨むような知的環境で、三木卓は青春時代を過ごした。

 そして政治。三木卓の背後に、当時の日本共産党の活動が迫る。三木卓は、共産党を支持しながらも、共産党系の組織に勧誘されはするが、みずからはそうした組織に入ることを拒否する。三木が当初入部した静高の社研は、共産党系の政治組織の影響も入り込んでいた。そうした組織と自己との距離をどう保つか、三木はそれに苦労して、それに関わる小説を書いた。

 ※共産党やその系列の組織は、みずからは絶対的に「正しい」という意識を持っているが故に、組織外の他者に対し政治方針などを押しつけることにためらいはない。そういうあり方に、組織外の人びとは疑問を抱くのだが、そうした疑問が生じていることを、彼等は知っているのだろうか。そしてその組織が、方針を転換したときには、組織内の底辺にいる人や周辺にいる人びとを精神的に大きく傷つけることがある。そうしたことを、果たしてかれら共産党やその系列の組織は、自覚しているのだろうか。

 「満洲」からの引き揚げ者である三木一家は、貧しい。しかし静岡市には、三木が羨む経済的豊かさをもった家庭があった。三木と同様に石井光江も父がいなかったが、母親の実家が豊かであったから、経済的に困ることはなかった。また、そういう家庭の友人が、静岡高校にはいて、三木も交友関係をもった。経済的豊かさと文化的な豊穣は比例するのだが、貧しき者も、主体的な努力により文化的豊穣に「ありつく」ことはできる。

 この時代、静岡高校の生徒は、すべてではないが、文化的豊穣の場を創りだしていたことがよくわかる。

 三木卓である豊三は、石井光江を好きだった。「たしかに自分は、できるならこの少女とともに生きていきたいという望みを抱いていた。もちろんそんなことは不可能だ、ということがわかっていたから、思うことを自分に禁じていたけれども、思ってもみなかったなどとは絶対にいえない。」(462頁)と書いていることから明らかだ。

 もちろん、石井光江、すなわち市原さんはそれを知っていた。

 1950年代の地方都市に生きる高校生の文化的なものへの憧憬やそれとの接触、彼等がどのようなものを読んでいたのかなど、本書は、ある種の歴史的読み物として楽しめる本である。

 最近、文学や音楽、美術など幅広い分野に興味関心をもつ人が、私の周辺からはいなくなった。市原さんは幅広い教養を持った人だった。そういう人びとは次々と亡くなっていった。また研究会には、専門的な研究をする人はいるが、幅広い教養をもった人がいなくなった。面白くない!!その一言である。

 だから本を読むしかなくなった。

 

 

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その時代を生きる

2023-12-09 19:57:50 | 

 今三木卓の『柴笛と地図』を読んでいる。三木卓の静岡高校時代である。静高に入学してのいろいろなことが書かれているのだが、高校生であると同時に1950年代前半の政治社会情勢がストレートに三木の精神に入り込んでいたことを知る。

 何年か前に読んだはずだが、あまり覚えていない。おそらくその時は、石井光江(市原正恵)との関わりを調べる為だったから、飛ばし読みをしていたのではないかと思う。

 三木が高校生活を描くということが、その時代を描くことになっていると、読みながら思う。三木が体験したこと、それに近いことを私も体験をしている。三木は静高社研であるが、私も高校で非公認の社研に属していた。三木が社研でエンゲルスの『空想から科学へ』を読んだように、私も社研でそれを読み合わせをしている。

 三木が書いたように、私の高校生活を書くことも、意義があるのではないかと思いながら読んでいる。

 静岡高校は、今はどうか知らないが、授業の一時間が100分だそうだ。私の高校は一時間が75分であった。長い授業時間で、40分が過ぎた頃、半分過ぎたなといつも確認していた記憶があるから、100分の授業はたいへんだっただろうなと思う。とはいえ、自分が歴史講座で話す際には、基本90分(それでも足りない)だから、100分というのはひとつのまとまった話をするには最適な時間ではないかと、今は思う。

 

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