2019年、某所で「竹久夢二とその時代」というテーマで話したことがある。約90分で夢二の生涯を追いながら、その時代を描くというものだ。そんな短時間で夢二を語り尽くせないことはわかっていたが、如何せん、時間はそれしかない。
夢二が若い頃、荒畑寒村ら初期社会主義に関わった人びとと交流があったこと、関東大震災に際会し、文章とともにスケッチを新聞紙上に描いたこと、そして多くの女性との遍歴、さらに海外旅行、とりわけドイツでナチスの支配を体験したことなどを一挙に話した。
最近、夢二のもっとも愛した彦乃の日記や手紙があり、それをもとにした本が出版されていることを教えてもらった。それがこの本である。
彦乃と夢二の関係はこうだ。講座の際使ったスライドの一部。
夢二が関係した女性の中でも、最愛の女性。日本橋の紙商芙蓉社笠井宗重の長女。日本女子大付属女学校出身。夢二と出会った頃は、女子美術学校日本画科の学生、「港屋絵草紙店」に通い、1915年5月夢二の「戀人」となる。しかし父親に反対され、逢うこともままならず、手紙で連絡し合った(書簡はたくさん残っている)。
1917年6月 京都で夢二、不二彦と生活するようになる。夏、三人で北陸旅行をする。
1918年3月 彦乃の父が彦乃を東京に連れ帰る。
1918年 8月、夢二、不二彦と九州、そして長崎へ。 8月下旬、彦乃も九州へ、しかし9月初め結核が重症化し別府で入院。9月末、岡山を経由して京都・東山病院に入院、父・宗重により京都府立病院に転院。夢二の面会は拒絶。夢二は11月東京へ戻る(恩地孝四郎宅→菊富士ホテル)。12月、彦乃がお茶の水順天堂病院に転院(面会謝絶)。1920年1月死亡。夢二は彦乃との日々について『山へよする』(1919年2月)を出版。
夢二が終生離さなかったプラチナの指輪の内側には「ゆめ35 しの25」と刻まれていた。「ゆめ35」とは、彦乃に会えなくなった夢二の年齢。「しの25」は彦乃が亡くなった年齢。
このレジメをつくったときには、彦乃の日記や手紙が残されているのを知らなかった。本書は、夢二の日記や書簡(これは書籍化されている)だけではなく、彦乃のそれをつかっているので、ふたりの関係がきわめて具体的である。
まだ最後まで読んではいないが、すでに30歳になっているのに、少年のような夢二と若いのにとてもしっかりしている彦乃、ふたりの愛の駆け引き、これは瀬戸内寂聴がいう「(愛の)雷に打たれた」ことのない人には理解しがたいだろうが、私にはそれがよくわかる。雷に打たれて始まる愛であっても、双方の駆け引きのなかでそれはより深まっていくのだ。
この頃、夢二はたまきと別れているが、子どもが三人いる。彦乃との生活をこころから望むが、お互いの事情で順調には進まない。大きな障害がたちはだかっている。それがこの本に具体的に描かれている。
夢二は、彦乃と海外に行こうと提案する。彦乃が亡くなった後、夢二はハワイ、アメリカ西海岸を経由してヨーロッパにいく、そして晩年台湾にも行く。夢二の海外への旅にふみきった理由には、彦乃と語り合ったこともあったのかもしれない。
夢二を理解するためには必要な文献であった。この本は2016年に出版されている、知らなかった。