作家の三木卓が11月18日に亡くなった。私にとって三木卓は全く知らない作家であった。しかし、三木が「満洲」から帰って来て住んだのが静岡市。小学生から高校卒業までの生活の中で、いろいろな人たちと交わった。そのなかの、とくに三木と関係あった二人を、私はよく知っている。
その一人、櫻井規順(もと参議院議員)も、11月21日に亡くなった。もちろん二人とも88歳であった。三木と櫻井は、静岡高校で一緒だった。
三木は、静岡時代のことをこの『裸足と貝殻』、『柴笛と地図』で描いている。前著は「満洲」からの引揚から中学校卒業までの日々を描いている。戦争直後の静岡市、そしてそこに生きる人びとの姿が描かれている。
引き揚げ者である三木一家、父親は「満洲」で亡くなっているから、貧しい日常生活だ。三木だけではなく、周辺にはより貧しい人びともいた。
そして学校も大きな変革期にあった。六・三・三・四制の学校制度、男女共学の実施など、教員にもいろいろな人がいた。
静岡市における戦争直後の状況が描かれていて、静岡市民にとっては良い教材となるだろう。
そしてもう一人、静岡時代の三木と親交があった市原正恵、この本の中では「石上光江」となっているが、三木とは城内中学校で一緒だった。市原は静岡城北高校に進んだが、高校時代も三木や櫻井と交流があり、それは『柴笛と地図』に描かれている。
市原は、2012年に亡くなっている。今年11月、「あの世」で三人は仲よく語らっているのだろう。
今日、『裸足と貝殻』を読み終えた。『柴笛と地図』は、市原正恵遺稿集を編集したときによんだが、『裸足と貝殻』は読んでいなかった。
いずれこの三人の交流について紹介したい。櫻井、市原から三人の交流を何度も聞いているからである。
〈付記〉三木が、市原をどのように見ていたか、それを書き記しておこう(472~3ページ)。
光江は文芸的な才能を持っているばかりではなく、演劇にもその能力を閃かせていた。島村民蔵先生は、幾人かの女子生徒をめでられていて、上級生たちがやっている同人雑誌に名指しでその数人の名前をあげたばかりか、彼女たちにロザリオの鎖を掛けてやりたいとまで書かれていたので、先生は御老齢でいらっしゃるからそういうことを書いてもいいのだ、と思いはしたものの、その大胆さには腰を抜かしたものだったが、光江はそのなかの一人に入っている少女だった。
豊三も彼女の舞台は見ている。それは二年の秋の文化祭の「眠れる森の美女」でのことで、例の、織機の錘が王女の指に刺さって死ぬという邪悪な魔女の呪いに宮廷のみなが右往左往しているとき、敢然として死の呪いを眠りの呪いに軽減させる正義の予言者の女の役を演じた。そのときの彼女は、頭から純白のショールをまとっていて凜々しく、こういう雰囲気を持ち得る少女は、自宅へ帰ってからもきっと、豊三の味わい乏しい日常に比べて、はるかに素晴らしい充実した心と物質の生活をしているにちがいない、と思ったのだった。
光江と話をする機会が欲しい、と豊三はその夜思った。文章を見ても、彼女は年齢より深い考えを抱いているように思われる。たしか父親は戦争で亡くなったと聞いた。光江とならば、いろいろなことが話せそうな気がする。松木のように、とは思わないが、ふつうの女の子とはちがう。通じあえる話が持てそうだ。それにしても、もうこの学校を卒業するまで一年もない。彼女はどこの高校へ進学するつもりだろう。
その前、下校時に光江に会った際の記述(471頁)。
下校時に渡り廊下のところで、石上光江に会った。光江は豊三より背が高く、面長の美少女である。クラスがちがうので口を利くことはあまりなかったが、彼女が短歌を学校誌に発表していたことは知っていたし、文章はしっかりしていることは知っていた。
私が市原さんと会ったとき、すでに40代であったから、「美少女」ではなかった(ゴメンナサイ)。しかし文章はうまかったし、彼女の読書量はすごく、分野を問わずに幅広かった。