窪田恭史のリサイクルライフ

古着を扱う横浜の襤褸(ぼろ)屋さんのブログ。日記、繊維リサイクルの歴史、ウエスものがたり、リサイクル軍手、趣味の話など。

浦添城跡

2024年07月22日 | 史跡めぐり


これまでも沖縄の城(グスク)を幾つかご紹介してきましたが、2月19日、浦添城に行ってきました。

【これまでブログでご紹介した沖縄の城】
今帰仁城跡
座喜味城跡
中城跡
※首里城、勝蓮城にも行ったことがありますが、ブログ開設前。

 1945年の沖縄戦で徹底的に破壊されたため、あまり有名ではないかもしれませんが、初代琉球国王である舜天(在位:1187-1237)の時代に創建されたとされ、英祖王統、初代中山王察度(1321-1395)の三王朝が居城としたとされる城です。



 牧港を見下ろす高台にあり、戦略的に重要な場所であったと分かります。やがて琉球三山を統一することになる尚巴志は、1406年に察度王統の武寧を滅ぼし、父親の思紹を中山王に据えると、首都を首里に移しました。



 現在、前述の英祖王と第二尚氏7代尚寧王の墓とされる「浦添ようどれ」が2005年に復元されました。「ようどれ」とは夕凪を意味し、夕凪→静かから転じてお墓を意味するようになったのだそうです。



 暗しん御門(くらしんうじょう)跡。沖縄戦で破壊されてしまいましたが、元は天然の岩が上に覆いかぶさっており、トンネル状だったそうです。



 二番庭から中御門(なかうじょう)。この奥の一番庭がようどれです。



 英祖王と尚寧王(およびその一族)の墓は並んでおり、上の写真は向かって右側の西室(英祖王陵)。



 左側の東室(尚寧王陵)。中を見ることはできませんでした。尚寧王は、薩摩の琉球侵攻時の王で、薩摩から戻った後、浦添に葬られました。第二尚氏の陵墓は首里にある玉陵(たまうどぅん)ですが、陵墓の被葬者の資格を記した玉陵の碑文(たまうどぅんのひのもん)からは、陵墓を造営した第三代尚真王の長男である浦添朝満が外されていました(朝満は廃嫡され、異母弟である第5王子が第4代尚清王として即位)。後に朝満は尚清王によって玉陵に移葬されるのですが、尚寧王は朝満の曾孫であることから、浦添ようどれに葬られたものと思われます(尚寧王以降の王は、第4代尚清王の第2王子、第5代尚元王の系譜)。

繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした
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島津家の別邸「仙巌園」(鹿児島)

2023年03月28日 | 史跡めぐり


 昨年11月11日、13年振りに訪れた鹿児島で、薩摩藩島津家の別邸「仙巌園」の見学に行きました。錦江湾とその先に雄大な桜島を望む、広大な海辺の邸宅です。冒頭の写真は仙巌園から見た桜島です。



 初めに、入口直ぐ左手に設けられた「鹿児島 世界文化遺産オリエンテーションセンター」へ。中には、反射炉の1/10模型があります。近代に入り、島津斉彬によって庭園内に「集成館」と呼ばれる西洋式工業施設が造られ、その一つに鉄砲や大砲鋳造に欠かせない反射炉もありました。



 反射炉というのは近代に鉄の精錬に用いられた金属溶融炉のことで、上の写真で分かるように、燃焼室の石炭(上の模型では木炭に見えますが)の熱を天井や壁に反射させ、炉床に集中させることで鉄を溶かす仕組みになっています。反射炉を初めて見たのは、小学6年生の時の卒業旅行で行った伊豆の韮山反射炉だったと記憶していますが、今までなぜ反射炉というのか、その仕組みについて知りませんでした。



 そして外に出てすぐのところに見えるのが、反射炉(2号炉)の土台跡です。一部地中に埋まっており、実際はもっと高かったようです。反射炉は1857年に完成しましたが、薩英戦争(1863年)で破壊されました。



 つづいて庭園の散策。初めに正門。薩摩藩第12代藩主だった島津忠義が明治時代になってから建てさせたもので、屋根の裏側には島津家の家紋である丸十紋と五七桐が見えます。五七桐は、島津氏の祖、島津忠久(1179年~1227年)の時に摂政関白、近衛基通から賜ったものだということです。材木は楠が使われているそうですが、どっしりとした重厚感のある瓦といい、どこか本州とは異なる情緒を感じます。



 正門からなだらかな坂を上ったところにある錫門。今でこそ埋め立てが進んでいますが、江戸時代はこの錫門の手前までが海で、船着き場があったそうです。江戸時代まではこの錫門が正門でした。名前の通り、屋根を瓦ではなく鹿児島の特産品である錫で葺いてあります。銅瓦というのは見たことありますが、錫は初めてですね。この朱塗りの門をくぐることが許されるのは、藩主など限られた身分の者だけでした。



 仙巌園最大の灯篭、獅子乗大石灯篭。笠石の大きさは何と8畳分もあるとのこと。その上の石が、獅子が舞い降りてきたように見える(つまり、下が頭)ことから、獅子乗大石灯篭と呼ばれます。



 御殿。



 中に入ることはせず、外から少し眺めただけですが、銀屏風というのは初めて見ました。



 望嶽楼。一見して唐様というか、少なくとも和様でないことが分かると思いますがその通りで、当時薩摩の支配下にあった琉球国王から贈られたものだそうです。



 望嶽楼からは、仙巌園の背後にそびえる山に「千尋巌」と彫られた巨石が見えます。以前このブログで中国蘇州の虎丘を紹介しましたが、そこでもあったように景勝地の巨岩に文字を彫るのは中国では見かけますが、日本の大名庭園ではここだけだそうです。他に江南竹林などもあり、望嶽楼と共に唐趣味をとり入れたものでしょう。



 曲水の庭。現在でもここで毎年4月に曲水の宴が催されるそうです。

仙巌園

鹿児島県鹿児島市吉野町9700-1



繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした
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飯山城-長野県飯山市

2022年08月03日 | 史跡めぐり


 3年ぶりの「史跡めぐり」です。2月に大雪のため行けなかった飯山を訪れ、隙間時間に散歩がてら飯山城へ行ってきました。



 上の地図(クリックすると拡大します)からも分かるように、飯山城は東を千曲川、西を関田・斑尾の山地に挟まれた狭隘地にある高さ30mほどの独立丘陵を削って築かれた梯郭式の平山城です。周辺の山には、とんば城、坪根城、山口城、岩井城などいくつもの山城があります。それらに比べれば単独のそれも低い丘に作られた城ですが、北は越後へと至る狭い地形、すぐ東側を千曲川が流れていることから要衝を抑える意味合いが強かったのではないかと想像します。



 飯山城の築城年は不明ですが14世紀にはあったとされ、1564年(永禄7年)に上杉謙信が、武田信玄に対抗するため本格的に改修し現在の城郭に近いものとなりました。1568(永禄11年)には武田軍の攻撃を受けますが、落城しませんでした。その後権力者の変遷とともに目まぐるしく城主が変わっていますが、江戸時代は飯山藩の藩庁が置かれ(上の地図は江戸期のものです。クリックすると拡大します)、明治以降、廃城となっています。

 今回は恐らく、城の南西側から入り、帰りは南の大手門側から出ました。冒頭の写真は南中門跡に民家から再移築された城門です。その後は、上の地図に沿ってご紹介していきましょう。



 西郭。写真を見ると分かりますが、石塁はほぼ本丸だけで、あとは土塁で築かれています。西郭には城主の私邸である西館が置かれました。



 西郭から帯廓へ通じる道。元々ここに道はなく、本丸へは二の丸からでなくては上がることができませんでした。



 もちろん、この帯廓から本丸へ上がる石段も元々はありません。



 本丸北側の枡形虎口にあったと思われる櫓台の跡。虎口(小口とも)とは郭への狭い出入口のことです。中世以降の城郭に見られ、防御のため様々な工夫が凝らされました。以前、このブログで韓国の「西生浦倭城」に遺る様々な形の虎口をご紹介しています。



 本丸二重櫓跡。飯山城に天守はなく、江戸時代は本丸と三の丸に二重櫓がそれぞれ1棟ずつあり、天守の代わりをしていました。東西9.9m、南北6.3m、二階建ての櫓だったと言われています。今は跡形もありません。



 現在飯山城は葵神社の境内となっています。



 本丸裏手の不明門(あかずもん)跡。江戸時代後期にはほとんど使われなかったことから不明門と呼ばれています。写真に見える石段も江戸時代にはなく、明治になってから作られたものです。19世紀初頭の絵図には「冠木門(笠木を柱の上方に渡した屋根のない門)」だったと記されています。



 本丸から二の丸へと降りていきます。写真奥に見える標識の向こうが三の丸です。このように、地形の険しい側に本丸を置き、それを囲むように二の丸、さらにそれを囲むように三の丸を配置する縄張りを「梯郭式」と言います。

 江戸時代、二の丸には二の丸御殿が置かれ、藩の執務を行う政庁として使用されました。



 坂口門跡。江戸時代前期、二の丸の東側に矢場や馬場が作られ、そこへ通じる通路として設けられました。



 再び二の丸から本丸北側の枡形虎口を望む。もう少し近づいて観察すればよかったです。



 二の丸から見た、千曲川。千曲川は、日本一長い川である信濃川の長野県側の呼び名です(何故か新潟県内を流れる部分を「信濃川」と呼びます)。下流は長岡、新潟に通じ、上流は長野、上田、佐久に通じることから戦略上非常に重要な川であり、これだけ河岸近くにある飯山城はやはり重要な戦略拠点だったものと思われます。



 西郭を見下ろす位置にある帯廓。その名の通り、郭というより通路ですが、有事にはここに兵を配置し防御に当たったことでしょう。



 最後は大手門側に降りました。写真右上に見る鳥居あたりにかつては大手門があったのではないかと思われます。なお、城を囲む堀は埋め立てられ、現在は残っていません。



 なお、翌日訪れた、臨済宗の再興者で、有名な白隠慧鶴の師である道鏡慧端が終生を過ごした庵、正受庵。道鏡慧端は真田信之の子で、飯山城で生まれたのだそうです。

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孫武苑-中国・蘇州

2019年03月05日 | 史跡めぐり


  続いて、同じ穹窿山にある「孫武苑」へ。現存する最古にして最も広く読み継がれている兵法書『孫子』を著した孫武がここに隠遁し、孫子十三編を著したと考えられているところです。


 
  ただ、初めに断っておかなければならないことは、孫武は史書にほとんど記述がないことから、実在したかどうか不明だということです。まして本当にここに隠遁していたかどうかは、伝説の域を出ません。1972年、中国山東省銀雀山で、前漢時代の墓より「孫子」の竹簡(竹簡孫子)が発見されました。しかしそれも、『孫子十三篇』と『孫臏兵法』が別物であったことが証明されたにすぎません。また、『孫子』自体も後代に書き加えられたり、順番が入れ替わったりしており、謎が多いのも事実です。その割には、巨大な資料館あり、博物館ありと随分大々的に観光地化したものだと思います。したがって、以降の孫武の記述については、あくまで伝説であることを前提として進めていきたいと思います。

  因みに、上の写真の「兵聖孫武」の「武」の字が変ですが、ガイドによれば「武」の字を分解すると「二つの戈を止める」となり、「兵は国の大事なり、察せざるべからず」、「戦わずして勝つ」と兵書でありながら、不戦を強調した『孫子』に通じるのだとの説明でした。日本でも武道の世界で同じことを聞いたことがあります。即ち「武道」とは「争いを止める道」なのだと。しかし、「武」の「止」は「とめる」ではなく「足」であり、「武」とは、「戈(ほこ)」と「止(あし)」を組み合わせた象形文字です。もちろん、「戈を持って戦いに行く」というのが本来の意味です。ただ、説得力はあります。


【孫武の時代の世界(クリックすると拡大します)】

  孫武は今から約2500年前、春秋時代末期の人物。斉(現在の山東省)の生まれで、後に斉を乗っ取り王族となる田氏の出だとされます。その後、陳、孫と姓を変え、斉を出て当時の新興国、呉(現在の蘇州)にやってきます。すぐには仕官せず、ここ穹窿山に隠遁し『孫子十三篇』を著したとされます。

  その後、呉の宰相であった伍員(子胥)に見出され、呉王闔閭に謁見。その才能を認められ、将軍として登用されます。将軍となった孫武は、柏挙の戦いの陽動作戦で大国楚を破り、余勢を駆って楚の都、郢城を陥落させるなど、才能を発揮しました。その後も呉の太子不差を補佐し、対立する越(現在の浙江省)を滅亡寸前に追い込むなど活躍したとされます(「臥薪嘗胆」の故事で有名)。

  しかし、その後のことは全く言い伝えがありません。呉王不差は、越王勾践を破ったものの、その後、奸臣伯嚭の讒言などから功臣伍子胥を自決に追い込み、公子慶忌も誅殺、また勾践の謀略で中国四大美女の一人に数えられる西施に溺れるなどし、挙句勾践の反撃に遭い、呉は滅亡します。『孫子』(計篇)には、「将し吾が計を聴きて、之を用うれば必ず勝つ、之に留まらん。将し吾が計を聴かずして、之を用うれば必ず敗る、之を去らん」、つまり、「もし私の戦略を呉王が聴き入れ、私に将帥として呉王の軍隊の作戦を指揮させるのであれば、必ず勝利する。よって私は呉国に留まろう。もし私の戦略を呉王が聴き入れないのであれば、私が将帥として呉王の軍隊の作戦を指揮したとしても、必ず敗れる。よって私は呉国を去るであろう」という記述があることから、呉王不差に見切りをつけ、去ったのかもしれません。



  さて、孫武苑を中に入ると、茅蓬塢(孫武草堂)という庵があります。香港の企業家である方潤華という人から寄贈されたもので、春秋時代の生活風景が再現されています。



  同行していた同い年の中国人社長が、「自分が子供の頃もこんなだった…」と言っていたのが少しショックでした。



  智慧泉。伝説によれば、孫武は穹窿山で甘水を飲んで足が動かなくなり、この地で隠遁生活を始め、『孫子十三篇』を書きあげたそうです。



  有名な「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」(謀攻篇)の碑。よく見ると、毛沢東の書となっています。毛沢東の『持久戦論』からは、彼が『孫子』を深く理解していたことが窺われます。



  『史記』に登場する、有名な「孫子姫兵を勒す」の壁画。



  資料館には、矛・戈・弩・戦車・軍船といった春秋時代の兵器の模型が展示されていました。しかし、上の写真は山西万栄廟出土「呉王僚戈」とあります。呉王僚は、闔閭の前の王。まだ公子光だった闔閭は、無類の魚好きだった僚を太湖に誘い出し、食客の専諸を使い、僚に供した魚の腹の中隠した小剣(魚腸剣)で僚を暗殺ました。銘文には「王子干戈」とあります。なぜ呉から遠い山西省から出土したのか不思議ですが…



  こちら、我が家にある『孫子』の竹簡。もちろん、おもちゃです。

  いずれにせよ、悠久のロマンを感じる楽しい場所ではありました。

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穹窿山・上真観-中国・蘇州

2019年03月04日 | 史跡めぐり


  11年ぶりの中国です。雨煙る寒空の中、蘇州の有名な山、穹窿山へ行ってきました。「穹窿」には天空という意味があるそうです。さほど高い山ではありませんが、何となく良い気が流れている気がする、気持ちの良いところでした。

  さて、最初に訪れたのは「上真観」という道教寺院。記録によると創建されたのは1800年ほど前、後漢の時代。最も繁栄したのは清の最盛期で、6代皇帝乾隆帝はこの寺院へ6度も行幸し、毎回山頂にあるこの寺院まで登ってきたそうです。その後、文化大革命などもあり荒廃、現在の建物は1990年に再建されたものです。



  山門をくぐると、石段に沿って9匹の龍の彫刻が現れます。道教のことは良く分かりませんが、陰陽で九は陽を表し、龍は陽の象徴です。9匹のうち、一番上の龍が皇帝を表しています。



  「道(タオ)」の書。「しんにょう」が三点しんにょうで書かれているのは、道教で万物を表す「天・地・人」の意味を込めているのだそうです。



  余談ですが、当社の行動指針、思考の起点を表す「Ecosophy」のシンボルマークも意味の一つとして、青は「天」、緑は「地」、白は「人」を表しています。当社の新物流センター「エコムナ」の外壁もこの色です。



  三清閣。内部の写真を撮るのは遠慮しましたが、「玉皇宝殿」、「彌羅上宮」、「三清閣」の三層からなり、「玉皇宝殿」には道教の最高神である玉皇大帝、「彌羅上宮」には六十甲子と呼ばれる、十干十二支を象徴する60体の神像、最上階の三清閣には玉清元始天尊、上清霊宝天尊、太清道徳天尊の三清が祀られています。

  三清は儒教の天神が道教で神格化したもの。元始天尊は、万物より前に誕生した常住不滅の存在。霊宝天尊は宇宙自然の普遍的法則や根元的実在を意味する「道」を神格化したもの。道徳天尊は「老子」を神格化したものです。

  参拝の際は、左手親指を右手でつかみ、左手で右手の甲を覆うと、ちょうど親指の部分が「太極図」の形になります。その状態で三拝。印象的だったのは、観光ガイドは信仰上の理由で三清閣への入殿を拒否し、中を案内した道士までが三層目に上がることを拒否したということです。そこまで神聖な場所なのに、異教徒である外国人観光客が遠慮なく入れるとは不思議です。



  鐘楼の鐘。1回から10回まで、撞く回数ごとにご利益が変わるのだとか。そうとは知らず、1回で遠慮してしまいました。



  乾隆行宮。乾隆帝がここを訪れた際、宿舎としたところだそうです。



  望湖亭。生憎、雨に霞んで太湖は全く見えず。尤も開発が進んだため、晴れていても太湖は見えなかったかもしれません。



   しかし、雨に霞む景色も悪くないものです。



   望湖亭に建つ石碑、湖側は乾隆帝が1757年(丁丑)に詠んだ「穹窿山望湖亭望湖」という五言絶句。

震沢天連水
洞庭西渡東
双眸望無尽
諸慮対宜空
三万六千頃
春風秋月中
五車稟精気
誰詔陸亀蒙



  裏面は1762年(壬午)のもの。

見説古由鐘
乗閑陟碧峰
上真厳祀帝
四輔切其農
奚必逢茅固
無労学赤松
具区眼底近
可以暢心胸

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ガンガラーの谷

2018年11月10日 | 史跡めぐり


  11月8日、沖縄県南部にある数十万年前の鍾乳洞が陥没してできた亜熱帯雨林、ガンガラーの谷へ行ってきました。「ガンガラー」というのは、地元住民がこの谷に石を投げ入れた時に反響する音からそう名付けられたそうですが、2008年より一般公開されています。1967年にこの谷の先の港川集落で約2万年前の旧石器人(港川人)の人骨が発見されたことから、この谷は港川人の居住地ではないか推定され、2007年より発掘調査が進められています。



  沖縄本島の中南部は、更新世に珊瑚礁が隆起してできた琉球石灰岩と呼ばれる地層。谷の入口は、この石灰岩の浸食でできた見事な鍾乳洞になっており、現在「洞窟カフェ」として開放され、洞窟内にはステージが設けられ、コンサートなども行われるようです。



  この洞窟が現在港川人の発見が期待され発掘調査が進められているところで、これまでに約2万年前の大量のカニの爪や、2万3千年前の貝で作られた世界最古とされる釣り針、1万4千年前の沖縄最古の土器のかけらなどが、上の写真の発掘箇所から発見されています。恐らくここは港川人のゴミ捨て場だったのでしょう。



  洞窟を抜けると、鬱蒼と木々が生い茂り、川のせせらぎの音が聞こえる大きな谷へと降りていきます。ここが実際、かつて鍾乳洞だったところが陥没してできたところです。



  クワズイモの葉。沖縄に広く自生しており、ガンガラーの谷のシンボルマークに使われています。里芋の仲間ですが、その名の通り毒性があり芋は食べられません。



  世界最大の竹と言われるジャイアントバンブー。ただし、この竹は台湾から移植されたものだそうです。



  谷底を流れる小川。かつては上流から排出される家畜の糞尿で汚染されており、公開が延期されていました。それから三十有余年を経て浄化が進み、2008年に公開されました。


  
  ガジュマルの木。これまでフィリピン、タイ、カンボジアなどこのブログでご紹介してきた自然や遺跡度々登場したお馴染みの木です。木から垂れ下がるヒゲのようなものは根で、これが地表に降りると、地中の養分を吸って木が太くなります。これを繰り返すことで、ガジュマルの木は長い時間をかけて他の木を覆い尽くしたり、樹木であるにもかかわらず移動しているように見えることがあるのだとか。以前フィリピン原住民、アニタ族の居住地を訪れた際、アニタ族の間ではガジュマルの木は「悪霊が住む木」とされ、人の気を吸うと信じられていたという話を思い出しましたが、それも分かる気がします。ガイドさんに尋ねたところ、沖縄でもガジュマルにはキジムナーが宿るとされているそうです。キジムナーは、沖縄諸島周辺で伝承されてきた伝説上の妖怪で、樹木の精霊とされています。各地に似たような伝承が残るガジュマルの木には何かあるのかもしれません。

アニタ族の居住区(フィリピン)

ガジュマルの木に浸食された寺院(カンボジア、タ・プローム)

ガジュマルの木に覆われた仏頭(タイ、アユタヤ遺跡群)



  さらに先へ進むと、いなぐ(女)洞といきが(男)洞という二つの洞窟にたどり着きます。手前のいなぐ洞は、縦型の洞窟なので入ることができません。中には乳房や女性の尻のような形をした鍾乳石があるということで、生命の源として信仰の対象となってきました。



  いきが洞。こちらは大きな横穴の洞窟で、ランタンを手に置くまで入ることができます。やはり生命の源として信仰の対象であり、入り口には礼拝に使う香炉がおいてありました。



  その名の通り、こちらは男根を思わせる形をした鍾乳石が多数見られます。ここの鍾乳石は1㎝伸びるのに40年ほどかかるとのこと。つまり、1mあれば4,000年かかっているわけです。優に2mはある鍾乳石は、少なくとも縄文時代後期には既に信仰の対象であったことでしょう。



  クワズイモの葉の裏にいたのは、ナナホシキンカメムシ。他にもたくさんいました。



  ガンガラーの谷の最も有名なスポット、高さが20mにも及ぶ大主(うふしゅ)ガジュマル。先ほど述べたように、ガジュマルの木に霊力が宿ると信じられていたとすれば、この木も信仰の対象であったことでしょう。



  大主ガジュマルの付近には、人工的に石灰岩積み上げた建造物がいくつか見られます。これは300年以上前の墓の跡だそうです。だとすると、昔の人はやはりこの地に霊的な力を感じていたのかもしれません。尤も、ガジュマルの木は成長が早く、これだけ大きな大主ガジュマルであっても、樹齢わずか150年ほどだそうです。かつて信仰を集めていたのは、このガジュマルとは別にあったかもしれません。



  この付近でも、港川人の発見が期待されています。



  右側をガジュマルの木に、左側を石灰岩に支えられた木造展望台、ツリーテラス。先には港川フィッシャー遺跡(フィッシャーとは、崖の割れ目のこと。港川人1号は崖の割れ目から発見されました)のある港川集落、さらに太平洋を望みます。



  最後の洞窟は武芸洞。ここ南城市玉城前川は、棒術が盛んだったそうで、村祭りのためにここで棒術のけいこをすることもあったことから、この名で呼ばれています。地面は平たんで風通しが良く乾燥しているため、港川人の発見が期待できるとして最初に発掘調査が行われました。



  2008年、身長150㎝、年齢40歳と推定される男性の完全な人骨の残る石棺墓が発掘されました。ただし、これは3000年前のものであり、港川人ではありません。このほか、4000年前の焼けた猪のあごの骨や3000年前の土器のかけらも発見されており、長い間ここに人々が居住していたことは間違いありません。

  なお港川人は、縄文人より前からいた、現在のオーストラリアのアボリジニやパプアニューギニアのパプア人に近い人々なのではないかという説が有力となっています。

ガンガラーの谷

沖縄県南城市玉城前川202



  最後に。ガンガラーの谷とは関係ないのですが、今回の沖縄訪問で生で聞いたこちらの歌がずっと頭の中をめぐっていました。

やなわらばー「平和の歌」



繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした

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金沢城

2018年09月20日 | 史跡めぐり


  気がつけば、2年ぶりの史跡めぐり。ほとんど遺構が残っていないとはいえ、白い漆喰に瓦を貼った海鼠塀や唐破風・入母破風を多数施した装飾が美しい、石川県金沢市の金沢城へ行ってきました。

  元々は加賀一向一揆の拠点であった尾山御坊がありましたが、織田信長が一向一揆を滅ぼした後、重臣である佐久間盛政が金沢城を築きました。しかし、盛政は1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦いで柴田勝家と共に羽柴秀吉に滅ぼされ、金沢城は前田利家に与えられました。現在の金沢城は利家と子の利長の時代に拡張されたものです。当時は五層の天守があったそうですが、1602年(慶長7年)の落雷で焼失してしまいました。その後、度重なる火災により、現在では石川門、三十間長屋、鶴丸倉庫などを除き、遺構はほとんどありません。それ以外の建物は平成に入ってから再建されたものなので、まだピカピカしています。石垣も切り込みハギであまりにも綺麗に積み上げられすぎて、まるで国技館のよう。やや興覚めの感があります。



  ただ金沢城の場合、度重なる修復や庭園などの美観を考慮して様々な石垣が作られたというのは事実のようです。したがって、様々な石垣を見るのも金沢城の楽しみ方の一つと言えるでしょう。例えば、上の写真は本丸の石垣で、自然石を積み上げた野面積みですが、



  玉泉院丸庭園という庭園側の石垣は、成型した石を積んだ、切り込みハギや打ち込みハギと呼ばれる石垣になっています。石垣には石を運んだ、もしくは積んだ者を示す刻印があちこちに見られます。また、金沢城の石垣は戸室山から切り出した戸室石が使われていますが、この石垣だけは黒い坪野石を混在させています。これも「見せる石垣」であるためです。



  玉泉院丸庭園。三代目藩主、前田利常による藩主の内庭です。その後何度か手を加えられましたが、心落ち着く非常に美しい庭園です。



  色紙短冊積み石垣。こちらも玉泉院丸庭園側の石垣で、金沢城の中で最も成型された石が組まれた美しい石垣です。色紙とは方形、短冊とは長方形であることを意味します。これだけ隙間なく積まれた石垣であるので、上方には水を逃がすためのV字形をした石樋が見られます。発掘調査によれば、この石樋から落差9mに及ぶ滝が流れ落ちていたのだとか。



  段落ちの滝。発掘調査で明らかになった、落差7m、四段の階段状に流れ落ちる滝を復元したものです。元々は先ほどの色紙短冊積み石垣から流れ落ちる滝の滝つぼが水源となっていたそうです。



  2001年(平成13年)に復元された、橋爪門続櫓、五十間長屋、菱櫓。白い鉛瓦、唐破風、海鼠壁など金沢城の特徴が詰まった建物です。写真は三の丸側から見たものですが、一階と二階の格子窓が交互に並んでいるのが分かります。戦を考えた場合、石川門を突破すると三の丸に出ます。侵入してきた敵軍を迎え撃つにあたり、鉄砲の死角を無くすために豪語に配置されているのだと言われています。



  ですから、敵の侵入の恐れが少ない玉泉院丸庭園側から見た三十間長屋の格子窓は、一階と二階で直列に配置されていることが分かります。



  二の丸を守る内堀と石垣。こちらも2001年(平成13年)に復元されました。



  金沢城といえば、こちらを目にすることが一番多いのではないかと思いますが、石川門側の菱櫓。塀の上部が反っているのが印象的です。



  なお、有名な兼六園は、五代藩主前田綱紀によって城の外郭に作られた庭園です。

繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした
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アユタヤ遺跡群

2016年03月12日 | 史跡めぐり


  少し時間が経ってしまいましたが、タイ中部・アユタヤの遺跡群を見物してきました。これらは、この地を中心に栄えたアユタヤ王朝(1351年~1767年)の遺跡群です。中国、インド、そしてヨーロッパを結ぶ中継貿易で栄えましたが、1569年と1767年の二度にわたり、隣国ビルマの侵攻で陥落。第二次アユタヤ陥落の際、都は徹底的に破壊されたため、現在は無残な廃墟が残るのみです。以下、訪れた遺跡を時代順に沿ってご紹介したいと思います。

【ワット・マハータート】



  ワット・マハータートは、アユタヤ王国を建国したラーマーティボーディー一世(1351年~1369年)が建立したとも、第3代パグワ王(ボーロマラーチャーティラート一世)が建立したとも言われています。ただ、寺院が完成したのはタイ三大王の一人、国技ムエタイの創始者とも言われ、救国の英雄である第21代ナレースワン大王(1590 年~1605年)の治世の時です。

  話は逸れますが、ナレースワン大王については以前タイで制作された長編映画を観たことがあります。壮大なスケールで描かれた、アクションあり、娯楽性の高い作品です。

THE KING 序章~アユタヤの若き英雄~/~アユタヤの勝利と栄光~ [DVD]
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  遺跡の入口には、最盛期の寺院の模型があります。



  中央の一際高い仏塔は、山田長政を重用したことで知られる第24代ソンタム王(1590年~1628年)の時代に崩れ、その後再建されますが、チャクリー王朝第5代王ラーマ五世の時代(1868年~1910年)に再び崩れました。仏塔は西洋建築とタイ建築が折衷したロッブリー様式と呼ばれる建物だったようです。

  1767年の第二次アユタヤ陥落によって、この寺院も破壊されました。とりわけ仏像は中が金であると信じられていたため、徹底的に破壊されました。



  ワット・マハータートのシンボルともなっている、菩提樹の根に覆われた仏頭。破壊され、打ち捨てられた仏頭がやがて木の根に覆われたものです。

【ワット・プラシーサンペット】



  三代に渡る王の遺骨が納められた仏塔で有名な寺院です。第11代ラーマーティボーディー二世(1491~1529年)が、父である第9代トライローカナート王、兄である第10代ボーロマラーチャーティラート三世のためにまず東側の二つの塔を建立し、最後の三つ目はラーマーティボーディー二世自身の塔になります。写真を見て分かるとおり、他の遺跡と比べると、煉瓦を覆う漆喰の保存状態が良く、アユタヤ時代の建築を知る上での貴重な遺跡となっています。

  ラーマーティボーディー二世の時代、ポルトガルがマラッカを占領。ポルトガル人がタイにやって来るようになりました。

【ワット・ヤイ・チャイ・モンコン】



  寺院そのものは初代のラーマーティボーディー一世が修行僧の瞑想のために建立したものですが、シンボルともいえる高さ72mもの仏塔は前述のナレースワン大王がビルマとの戦いに勝利したことを記念して建立したものです。ビルマが建立したチェディ・プカオ・トンの仏塔(80m)に対抗して建てられましたが、実際にはわずかに高さが及びませんでした。



  仏塔は上ることができ、煉瓦造りの石段は多くの参拝者による訪問のためか凹状に深くすり減っていました。この日はマーカブーチャー(万仏節)と呼ばれるタイの祝日で、頂上の仏像に多くの参拝者が縁起物である金箔を貼りつけていました。




1605年頃、アユタヤ王朝最盛期の世界(地図をクリックすると拡大します:「世界歴史地図」より)。

【ワット・チャイ・ワタナラーム】



  1615年に大坂夏の陣が終結し泰平の世が訪れると、職を失った多くの浪人が海外に活路を求め、ここアユタヤにもやってきました。前述のソンタム王はそれまでのポルトガル傭兵に代わって、長く続いた戦国時代で戦いに慣れている多くの日本人傭兵を雇いました。またアユタヤの日本人町は貿易で栄え、一時は中国を凌ぐほどの勢力を持っていたそうです。

  1629年、王位を簒奪した第27代プラーサートーン王は、日本人勢力の拡大を恐れ、1630年に山田長政を左遷(その後、毒殺されたとの説があります)、日本人町を焼き討ちしました。さらに日本側の海外渡航禁止政策も加わり、アユタヤにおける日本人勢力は衰退していきました。

  ワット・チャイ・ワタナラームはそのプラーサートーン王が母のために建立した寺院です。カンボジアのアンコール・ワットに似ていることから、カンボジアとの戦いに勝利したことを記念し、アンコール・ワットを模して造られたという説もあります。

繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした
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今帰仁城跡

2016年02月20日 | 史跡めぐり


  こちらも18年振りに訪れた今帰仁城です。当時は麓までバスで行き、そこから歩いて登ったのですが、途中で脱水症状を起こし、城に着いた時には9月の暑い盛りだというのに寒気でガタガタ震えていた思い出があります。当時は今のようにきれいに整備されておらず、全く人気がありませんでした。幸い古ぼけた自動販売機が一機だけあり、それで救われましたが…。今帰仁城、今まで見てきた沖縄の城の中で最も好きな城です。


今帰仁城の図(クリックすると拡大します)

  発掘調査によると、今帰仁は13世紀末頃から現地の有力者によって簡単な城が築かれていたことが分かっています。最盛期は14世紀、三山鼎立の時代。怕尼芝(はにし)、(みん)、攀安知(はんあんち)と三代91年続いた山北(北山ともいう)・怕尼芝王統の時代でした。山北の版図は現在の本島北部域に分類される地域とほぼ同じ、恩納村、金武町以北と三山の中で最大の広さを持ち、出土品から中国や東南アジアと盛んに交易を行っていたことが分かっています。しかし、明への朝貢回数が最も少ないことから、実際の国力は三山の中で最も低かったと考えられています。

  今帰仁城は自然の絶壁の上に築かれた堅固な城塞でした。中城や座喜味城で見られたような成形された石積みではなく、本部層の古生代石灰岩の自然石を積み上げた野面積みと呼ばれる技法で石垣が造られています。因みに、中城座喜味城も新生代の石灰岩で、石の色の違いによりそのことがよく分かります。

  1416年(1422年との説もあります)、中山の尚巴志は総勢3,500人の山北討伐の軍を興します。たった3,500人と思われますが、1609年の島津藩による琉球侵攻時の琉球王国側の軍勢が約4,000人だったことを考えると、三山鼎立の時代にあってはほとんど総力戦ともいうべき大規模な軍事行動であったのではないかと思われます。しかし、そうであったとしても、実際に城を歩いてみると、これほどの城塞が本当にわずか3,500人の軍勢で陥落したのか、疑わしくなります。

  そこで山北征伐について調べてみました。中山軍は尚巴志率いる海路の本軍2,700人と護佐丸率いる陸路の第二軍800人の二手で侵攻しました。そして北山王攀安知をおびき出すことに成功した本軍が城外で交戦している間に、城内にいた攀安知の家臣、本部平原が裏切り、呼応した第二軍が突入。今帰仁城は陥落したということです。史書『中山世鑑』や『中山世譜』は攀安知を「武芸絶倫」、「淫虐無道」と評していますが、琉球王朝側の史書なので実際どうだったのかは分かりません。

  どこの国、いつの時代でも歴史が「勝者の記述」であるという点では同じです。「中城跡」で取り上げた勝連の阿麻和利も、「阿麻和利の乱」で反逆者の烙印を押されていますが、地元では名君として讃えられています。

  琉球の歌謡集である『おもろさうし』には勝連の繁栄を「大和の鎌倉のようである」と讃える歌が収められていますし、そもそも阿麻和利という呼称自体、「天降り(あまふり)」を意味する尊称だとする説もあるほどです。



  長くなってしまいましたが、上の絵図に沿って今帰仁城の様子を順次ご紹介していきたいと思います。初めに外郭(①)。外郭は高さ2mほどの低い石垣が数百mにわたり蛇行して続いています。発掘調査により、ここには屋敷の跡が確認されています。



  平郎門(②)。現在のものは1962年(昭和37年)に再建されたものです。1713年に国王に上覧された琉球王国の地誌『琉球国由来記』に、「北山王者、本門、平郎門ヲ守護ス」の記述が登場します。



  御内原(後述)より見下ろした大隅(ウーシミ)(③)。最も高い石垣が築かれた堅牢な城郭で、兵馬を訓練する場所だったと伝えられています。



  カーザフ(④)。カー(川)+ザフ(迫)、つまり谷間の意。谷間の断崖絶壁に城壁が積み上げられており、鉄壁の防御を誇ったと想像できます。



  大庭(ウーミャ)(⑥)。政治・宗教儀式が行われていたと考えられている場所で、正面に正殿(主郭)、右側に南殿、左側の一段高い所に北殿があったと考えられています。



  ソイツギ(城内下之御嶽)。大庭の北西にあり、前述の『琉球国由来記』には「城内下之嶽」、神名「ソイツギノイシヅ御イベ」と記されています。「ソイツギノイシヅ御イベ」とはイベ(聖域)の名前らしいですが、「ソイツギ」は「添い継ぎ」?「イシヅ」は「礎」?名前の意味が分かりません。ご存知の方がいらっしゃいましたらご教授頂きたいと思います。いずれにせよ、旧暦八月のグスクウイミという祭祀の時、今帰仁ノロ(祝女)が五穀豊穣を祈願する場所のようです。風水でも北西は最も位が高く(天(乾)の方位)、神様を祭る方位とされていますね。



御内原(ウーチバル)(⑦)。女官が生活した場所と伝えられ、城内でも神聖な場所。大隅の写真の通り、北側から海を一望することができます。



  主郭(⑧)。正殿のあった場所。現在見られる礎石は、山北滅亡後、中山から派遣された監守が使用していた建物の跡です。



  志慶真門郭(シゲマジョウカク)(⑨)。城内の東端に位置し、城主に身近な人々が住んでいたと考えられます。発掘調査によって4つの建物があったことが確認されていますが、その大きさは6m四方または5m×4m程度で、現在の一般的な住宅の大きさからみてもかなり小さい建物です。また、発掘により志慶真門郭と大庭を繋ぐ通路石敷が確認されています。郭の南端にはかつて志慶真門があったことも分かっています。

今帰仁城跡

沖縄県国頭郡今帰仁村字今泊5101



繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした
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座喜味城跡

2016年02月19日 | 史跡めぐり


   沖縄の城巡りとしては、首里城、中城、勝連城、今帰仁城に続く5つ目、読谷村にある座喜味城です。

   座喜味城は昨日ご紹介した護佐丸が中城に入る前に居城としたところです。琉球三山時代(1322年頃~1429年)の1416年(1422年という説もあります)、明日ご紹介する山北(北山ともいいます)の今帰仁城を攻略した中山の尚巴志は、山北を監視するため山北と中山の境に位置し、良港を備えた座喜味への築城を護佐丸に命じました。因みに、護佐丸は山北の初代国王である怕尼芝(はにじ)に滅ぼされた先今帰仁按司の曾孫です。山北攻略時、護佐丸は弱冠二十歳でした。

   冒頭の写真を見ても分かるように、城が築かれた標高120mの台地は赤土層の脆弱な地盤でしたが、護佐丸はそれまでの居城であった山田城を崩した石材で丘を取り囲み、石積みの工夫によって二つの郭から成る連郭式の城を築き、築城の名手としての名を高めました。



   座喜味城は、沖縄の城としては中規模のものです。しかし、脆弱な地盤を克服するため工夫された石積みによる城壁は、東シナ海を背後に美しい曲線を描き、一見の価値があります。護佐丸は1440年に中城に移るまでの18年間座喜味城に居城し、海外交易により第一尚氏を経済的に支えたと言われています。発掘調査では、15世紀~16世紀のものとみられる中国製の青磁と陶器が最も多く出土しており、座喜味城は護佐丸が中城に移った後も使用されていたと考えられています。



  座喜味城には一の郭と二の郭にそれぞれ一つずつ、美しいアーチ門が造られています(上写真左)。中に門扉の跡がありましたので、かつては扉があったのでしょう。アーチ門のかみ合う部分には楔石がはめられています(上写真右)が、他の城には類例が見られないそうです。このことから、座喜味城のアーチ門は現存する中で、沖縄最古ものではないかと考えられています。いずれにせよ、座喜味城築城の技術はその後中城でも大いに生かされたことでしょう。



  一の郭の北側には、間口16.58m、奥行き14.94mの石組みが発掘されており、この中に建物が建っていたと考えられています。しかし、瓦等が出土していないことから、恐らく建物は板葺か茅葺だったのではないかと推定されています。

  生憎の曇り空でしたが、城壁からは首里や那覇、そして東シナ海に浮かぶ慶良間諸島、久米島、伊江島、伊平良諸島が眺望できるそうです。中城同様、やはりここも戦略上極めて重要な要害の地であったことが分かります。

座喜味城跡公園

沖縄県中頭郡読谷村字座喜味708-6




繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした
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