窪田恭史のリサイクルライフ

古着を扱う横浜の襤褸(ぼろ)屋さんのブログ。日記、繊維リサイクルの歴史、ウエスものがたり、リサイクル軍手、趣味の話など。

7年ぶりのマラッカ(ムルカ)②-サンチャゴ砦/セント・ポール教会

2024年12月04日 | 史跡めぐり


 さんざん車で走り回った気がするのですが、実はオランダ広場のすぐ裏にあったというサンチャゴ砦とセント・ポール教会。あの無駄にした時間はいったい何だったのでしょうか…。



 まず、丘のふもとにわずかに残るのが、1795年にイギリスによって爆破された、ポルトガルのサンチャゴ砦(ファモサ要塞)。現在は埋め立てられていますが、かつては海に面していたようです。1511年のマラッカ占領後に築かれ、往時はセント・ポール教会が建つ丘の周りを高さ5mにおよぶ城壁が囲み、現在唯一残る門のほか、さらに3つの門があったそうです。門の際に立っている、怪し気なマリオは無視してください。



 展示されている大砲は、1700年代に作られたオランダ製のもので、ポルトガル時代に大砲が設置されていたかどうかは確認されていないそうです。



 丘の上にはセント・ポール教会・礼拝堂跡があります。1521年に最初の礼拝堂が丘の上に建てられ、現在残るものは1566年に建てられました。当時は、カトリックであるポルトガルにより、ノッサ・セニョーラ・ダ・アヌンシアダ(受胎告知の聖母)と名付けられていました。1641年にプロテスタントのオランダがマラッカを占領すると、聖パウロ教会と改名されました。その後、同教会は放棄され、18世紀には火薬庫として使われていたようです。手前に見える白い建物は、かつての灯台です。



 さらにその手前には、日本でも有名なフランシスコ・ザビエル像が建っています。この像は、1952年に建てられました。ザビエルは、1547年にマラッカで鹿児島出身の元武士ヤジロウ(安次郎?)と出会い、この教会を拠点に日本への布教に出発しました。ザビエルは死後62年経った1614年、右腕下が切り取られ、その右腕はローマ・ジェズ教会に安置されました。この像ですが、よく見ると右腕下部分が欠損しています。実は、落雷による倒木で欠損したらしいのですが、何か不思議なものを感じますね。

 

 前述のように、現在礼拝堂は廃墟で、屋根もなく、四方を囲む壁しかありませんが、中にはたくさんの墓石が立てかけられています。これらはオランダ時代のプロテスタントの墓石です。1957年、マレーシアが独立すると、イスラム教のマレーシア政府は、この丘にマラッカ州知事公邸を作りました。その際、異教徒の墓石を撤去しようとしたのですが、何とプロテスタントと激しく対立していたカトリック教徒の尽力により、この礼拝堂跡に運び込まれたのだそうです。

サンチャゴ砦/セント・ポール教会



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7年ぶりのマラッカ(ムルカ)①-オランダ広場

2024年12月03日 | 史跡めぐり


 だいぶ前になってしまいましたが、9月26日、7年ぶりにマラッカ(マレー語でムルカ)へ行ってきました。駆け足の訪問だったので、ゆっくり見物して回ったわけではありませんが、訪れたところをいくつかご紹介したいと思います。

 まずは、町のシンボルともいうべき「オランダ広場」から。マラッカは1641年から1824年までオランダ領であり、その時代に建てられたマラッカ・キリスト教会や時計台、旧オランダ総督邸(スタダイス)などが残る広場です。



 現在、濃いピンク(朱色に近い)の建物が印象的で、それが名物ともなっているオランダ広場ですが、オランダ統治時代、建物はみな白かったそうです。それがイギリス領時代(1824年~1941年)に濃いピンクに塗られたそうです。その理由は定かでありませんが、一説には中国系労働者が檳榔を吐き出して建物を赤く汚してしまうので、ならばいっそのことと建物をピンク色にしてしまったのだと聞いたことがあります。



 これはマラッカに寄贈された、第一次世界大戦時に鹵獲された、ドイツの塹壕迫撃砲だそうです。



 広場の中央に位置するのは、イギリス領時代の1904年に建てられたヴィクトリア女王(1837年‐1901年)噴水。噴水の銘板には「偉大な女王を記念して、マラッカ市民によって建立された」とあります。

オランダ広場(Dutch Square)



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角館武家屋敷②-石黒家(秋田県)

2024年11月29日 | 史跡めぐり


 順序としてはこちらを先に訪問したのですが、昨日に続き、ほぼお隣の武家屋敷「石黒家」のご紹介です。石黒家は角館に残る武家屋敷の中で唯一、石黒家直系の子孫が現在も住み続けているところです。青柳家同様、薬医門から入ります(末尾のサムネイル画像)。薬医門というのは武家屋敷に用いられる門の形式で、親柱の後ろに控柱を立てて強化し、切妻屋根をかけた門を言います。石黒家の薬医門は、角館に残る武家屋敷の中で最古の文化6年(1809年)のものと言われています。



 かつては身分の下の者が使用した脇玄関から座敷に上がり、その奥の部屋にある囲炉裏です。



 座敷から見て左にあるのは、「おかみ」と呼ばれる当主の書斎です。



 身分が同格か上の者が使用した表玄関。現在は使われていないそうです。



 応接室として使われた座敷。床の間や書院が設けてあります。



 この座敷には欄間(天井と鴨居との間に設けられる、採光のための開口部)に亀の透かし彫りが施してあります。襖を閉めると、外からの光で幻想的な亀が欄間に投影されます。かつては部屋の明かりはロウソクでしょうから、揺れる炎のため一層幻想的だったに違いありません。応接室に素敵な計らいですね。



 母屋の奥の増築部分は蔵と繋がっており、蔵は資料館となっています。



 例えば、雪国らしい藁沓や踏俵。踏俵というのは、大きな藁沓のようなものを履き、今でもあるのか分かりませんが缶下駄(缶ぽっくり)のように、中にある縄を持って交互に雪を踏み固める道具です。



 米俵。



 石黒家の陣羽織、甲冑、旗、陣笠。



 日本刀、肥前国出羽守藤原行廣。江戸時代初期の名工、藤原行廣による肥前刀。肥前刀は鍋島藩の御刀鍛冶によって作られた名刀で、将軍家や諸大名への贈答用として用いられたそうです。



 石黒家は代々、勘定役・財用役などの財政を担当しましたが、学問にも秀でた家柄だそうで、儒学・漢学の他、医学・和算・暦学などを修めた者も輩出したそうです。特に医学は熱心に取り組み、各種の医学書を揃え、武家でありながら病状の診断・治療や薬の調合なども行えたそうです。江戸時代後期の医師で、秋田藩(佐竹藩)に仕え、藩内で初めて種痘(天然痘の予防接種)を成功させた、高橋痘庵も石黒家の出身だそうです。上の写真は、薬量秤と鍼術針。



 薬研(やげん:薬材を挽く道具)。



 『大和本草』(貝原益軒が編纂した日本初の本草学書)、『医学綱目』(明代の医師楼英が編集した医学書)、そして『解体新書』。



 石黒隼人祐直信は、家塾「紅翠亭(こうすいてい)」を開き、漢学を中心に、倫理や政治、歴史などの幅広い知識を藩士や町人の子弟に教えました。武士が町人に教育を施すことがこのような江戸から遠く離れた地でも普通に行われており、「近江商人博物館(東近江市五個荘)」でも書きましたが、町人にも教育が普及していたことは特筆すべきことだと思います。



 歴史では、『大日本史』(徳川光圀によって開始され、水戸藩の事業として二百数十年継続した紀伝体の史書)。



 倫理では、『義烈遺文』(主君への忠誠や家の名誉を重んじた武士の言行録や遺書をまとめたもの)。

 

 また儒学では、『論語講義』や『言志録』(江戸時代後期の儒者、佐藤一斎の語録)などが展示されていました。

石黒家



秋田県仙北市角館町表町下丁1番地



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角館武家屋敷①-青柳家(秋田県)

2024年11月28日 | 史跡めぐり


 投稿が遅れているうちに、あっという間に1年が経ってしまいました。昨年11月23日、角館に今も残る江戸時代の武家屋敷を見学してきました。その内、青柳家と石黒家をご紹介します。



 青柳家は本能寺の変の2年前、天正8年(1580年)から続く、敷地面積が3,000坪にも及ぶ、角館を代表する武家屋敷だそうです。



 入口の藥医門は万延元年(1860年)建立。



 茅葺きの寄棟造りの母屋は、安永2年(1773年)建立。



 こちらは明治29年(1896年)のものになりますが、龍野満黄という京都の画家が青柳家に泊まり込んで描いたされる屏風絵です。



 台所ですね。



 母屋の隣には武器庫があります。



 蔵の入口にぶら下げてあったのは、サルの頭蓋骨。

  

 中には火縄銃、刀剣、甲冑などが数多く展示されています。



 日本に2挺のみという、火縄式三回転銃。もう1挺は明治神宮に保管されているそうです。



 羽州上泉藩(現在の山形県)、伊達新造の満地羅。満地羅(まんちら)とは、首から肩にかけて保護する小具足のことで、オランダ語の”Mantel(マンテル、つまりマントの意)”に由来するそうです。興味深いのは、奥の胴に十字架が描かれていることです。伊達新造がキリシタンだったのかどうかはハッキリしません。



 黒塗横矧二枚同具足(くろぬりよこはぎにまいどうぐそく)。兜は六十二間小星兜といい、不覚にも写っていませんが、鉢に鋲をびっしりと打った、戦国時代の高級品だそうです。青柳家は元々甲府で武田家の武器造りをしていたそうで、その当時のものが家宝として伝えられました。青柳家はその後、水戸、秋田へと移り住みました。

 

 青柳家伝来の片刃槍と刀の実触コーナー。片刃槍は薙刀に似ていますが、薙刀より刃が直線的で、「槍」というように、刺突を目的としています。柄も薙刀より長いです。戦国時代の成人男性の身長が155㎝程度だったことを考えると、よくこんなものを振り回せたなと思います。



 解体新書記念館。『解体新書』は、安永3年(1774年)刊行、日本語で翻訳された、初の西洋解剖学書です。発刊後、大ベストセラーとなったそうです。次回ご紹介する、「石黒家」でもこの『解体新書』が所蔵されているのみならず、蘭学が教えられていました。



 長崎はもちろん、江戸からも遠く離れた秋田にまで『解体新書』が普及し、蘭学が教えられていたことは、これらが決して幕府の独占ではなかったことを示しており、現代の我々がイメージする「鎖国」とは全く違ったものであったことが分かります。



 こちらは1669年刊行、デンマークの医師トーマス・バルトリンの解剖書の蘭訳本です。



 改訂日本輿地路程全図。伊能忠敬の大日本沿海輿地全図(1821年)に先立つこと40年、常陸(茨城県)の地理学者、長久保赤水による日本初の経緯線入り地図です。初版は1780年、正確で実用的な地図として広く使用されました(大日本沿海輿地全図は機密扱い)。以後8回の改訂がなされましたが、写真の図は第5版です。天保年間(1830年-1844年)に当主だった青柳正秀が南部境目山役(国境を守る役目)を務めていたため入手したものと言われています。



 小田野直武像。秋田藩士の武士ですが、平賀源内から洋画を学び、日本で初めて西洋画の技法である写実と遠近法に取り組んだ画家です。その技法は秋田蘭画とも呼ばれました。青柳家とは姻戚関係にあり、前述の『解体新書』の図版の原画を手掛けたのが、直武です。

青柳家

【IMG_9351】

秋田県仙北市角館町表町下丁3



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大城神社(東近江市五個荘)

2024年09月10日 | 史跡めぐり


 近江商人博物館を見学し、今も近江商人屋敷の残るこの地であれば、必ず近江商人が祈願しただろう神社があるはずだと思い、博物館で案内してくれた方に聞いたところ、すぐ近くにありました。大城神社というところで、テレビを見ないので知りませんでしたが、少し前の朝の連ドラ『カムカムエヴリバディ』(2021年~2022年)で重要な舞台となった神社だそうです。



 大城神社の由緒は古く、621年(推古天皇29年)に厩戸皇子(聖徳太子)が金堂寺を建立し、その護法鎮護のため、この大城の地に社殿を造ったのが始まりとされます。現在も町名を金堂町と言います。1170年(嘉応2年)、現在の場所に社殿を改造し、天満天神(菅原道真公の神霊)、大梵天王、八幡大神を合祀し、五個荘の産土神(土地の守護神)としました。それにより、この頃から天満宮と称されるようになりました。1869年(明治3年)、恐らく前年の神仏分離令により、現在の大城神社という名称になりました。



 ここは、観音寺城から見て北東にあたります。北東は日本の風水で「鬼門」、つまり邪気が入ってくる方角とされたため、その方角を守る城の守護神として、室町時代の近江守護であった佐々木六角氏からは特に崇敬されました。しかし、1568年(永禄11年)、箕作城の戦い(観音寺城の戦い)に伴う佐々木六角氏の没落により、社殿記録等が失われました。

 1831年(天保2年)、大梵天王を五箇神社分祀。1855年(安政2年)、八幡宮を結神社に分祀。残るは天神様で、境内には太宰府天満宮にもある御神牛の青銅像が3体ありました。写真を撮り忘れてしまったのですが、御神牛は必ず座った姿勢の「臥牛」です。これは菅原道真公が亡くなった際、遺言により御遺骸を牛車に曳かせたところ、牛が座り込んで動かなくなり、その場所に埋葬されたという言い伝えによります(その場所が、現在の太宰府天満宮になりました)。



 かつては表鳥居から、御旅所(神社の祭礼で、神が休憩する、つまり神輿を鎮座する場所)に至る2丁(1丁は109.09m)ほどを桜馬場と言い、両側に桜を植えた小堤があったそうです。しかし、その桜は1860年(万延元年)に曳山車(ひきやま)を造るにため伐採されたとのこと。現在は見る限り、桜はなさそうですね。



 楼門。最後は、参拝して終えました。

大城神社



滋賀県東近江市五個荘金堂町66



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浦添城跡

2024年07月22日 | 史跡めぐり


これまでも沖縄の城(グスク)を幾つかご紹介してきましたが、2月19日、浦添城に行ってきました。

【これまでブログでご紹介した沖縄の城】
今帰仁城跡
座喜味城跡
中城跡
※首里城、勝蓮城にも行ったことがありますが、ブログ開設前。

 1945年の沖縄戦で徹底的に破壊されたため、あまり有名ではないかもしれませんが、初代琉球国王である舜天(在位:1187-1237)の時代に創建されたとされ、英祖王統、初代中山王察度(1321-1395)の三王朝が居城としたとされる城です。



 牧港を見下ろす高台にあり、戦略的に重要な場所であったと分かります。やがて琉球三山を統一することになる尚巴志は、1406年に察度王統の武寧を滅ぼし、父親の思紹を中山王に据えると、首都を首里に移しました。



 現在、前述の英祖王と第二尚氏7代尚寧王の墓とされる「浦添ようどれ」が2005年に復元されました。「ようどれ」とは夕凪を意味し、夕凪→静かから転じてお墓を意味するようになったのだそうです。



 暗しん御門(くらしんうじょう)跡。沖縄戦で破壊されてしまいましたが、元は天然の岩が上に覆いかぶさっており、トンネル状だったそうです。



 二番庭から中御門(なかうじょう)。この奥の一番庭がようどれです。



 英祖王と尚寧王(およびその一族)の墓は並んでおり、上の写真は向かって右側の西室(英祖王陵)。



 左側の東室(尚寧王陵)。中を見ることはできませんでした。尚寧王は、薩摩の琉球侵攻時の王で、薩摩から戻った後、浦添に葬られました。第二尚氏の陵墓は首里にある玉陵(たまうどぅん)ですが、陵墓の被葬者の資格を記した玉陵の碑文(たまうどぅんのひのもん)からは、陵墓を造営した第三代尚真王の長男である浦添朝満が外されていました(朝満は廃嫡され、異母弟である第5王子が第4代尚清王として即位)。後に朝満は尚清王によって玉陵に移葬されるのですが、尚寧王は朝満の曾孫であることから、浦添ようどれに葬られたものと思われます(尚寧王以降の王は、第4代尚清王の第2王子、第5代尚元王の系譜)。

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島津家の別邸「仙巌園」(鹿児島)

2023年03月28日 | 史跡めぐり


 昨年11月11日、13年振りに訪れた鹿児島で、薩摩藩島津家の別邸「仙巌園」の見学に行きました。錦江湾とその先に雄大な桜島を望む、広大な海辺の邸宅です。冒頭の写真は仙巌園から見た桜島です。



 初めに、入口直ぐ左手に設けられた「鹿児島 世界文化遺産オリエンテーションセンター」へ。中には、反射炉の1/10模型があります。近代に入り、島津斉彬によって庭園内に「集成館」と呼ばれる西洋式工業施設が造られ、その一つに鉄砲や大砲鋳造に欠かせない反射炉もありました。



 反射炉というのは近代に鉄の精錬に用いられた金属溶融炉のことで、上の写真で分かるように、燃焼室の石炭(上の模型では木炭に見えますが)の熱を天井や壁に反射させ、炉床に集中させることで鉄を溶かす仕組みになっています。反射炉を初めて見たのは、小学6年生の時の卒業旅行で行った伊豆の韮山反射炉だったと記憶していますが、今までなぜ反射炉というのか、その仕組みについて知りませんでした。



 そして外に出てすぐのところに見えるのが、反射炉(2号炉)の土台跡です。一部地中に埋まっており、実際はもっと高かったようです。反射炉は1857年に完成しましたが、薩英戦争(1863年)で破壊されました。



 つづいて庭園の散策。初めに正門。薩摩藩第12代藩主だった島津忠義が明治時代になってから建てさせたもので、屋根の裏側には島津家の家紋である丸十紋と五七桐が見えます。五七桐は、島津氏の祖、島津忠久(1179年~1227年)の時に摂政関白、近衛基通から賜ったものだということです。材木は楠が使われているそうですが、どっしりとした重厚感のある瓦といい、どこか本州とは異なる情緒を感じます。



 正門からなだらかな坂を上ったところにある錫門。今でこそ埋め立てが進んでいますが、江戸時代はこの錫門の手前までが海で、船着き場があったそうです。江戸時代まではこの錫門が正門でした。名前の通り、屋根を瓦ではなく鹿児島の特産品である錫で葺いてあります。銅瓦というのは見たことありますが、錫は初めてですね。この朱塗りの門をくぐることが許されるのは、藩主など限られた身分の者だけでした。



 仙巌園最大の灯篭、獅子乗大石灯篭。笠石の大きさは何と8畳分もあるとのこと。その上の石が、獅子が舞い降りてきたように見える(つまり、下が頭)ことから、獅子乗大石灯篭と呼ばれます。



 御殿。



 中に入ることはせず、外から少し眺めただけですが、銀屏風というのは初めて見ました。



 望嶽楼。一見して唐様というか、少なくとも和様でないことが分かると思いますがその通りで、当時薩摩の支配下にあった琉球国王から贈られたものだそうです。



 望嶽楼からは、仙巌園の背後にそびえる山に「千尋巌」と彫られた巨石が見えます。以前このブログで中国蘇州の虎丘を紹介しましたが、そこでもあったように景勝地の巨岩に文字を彫るのは中国では見かけますが、日本の大名庭園ではここだけだそうです。他に江南竹林などもあり、望嶽楼と共に唐趣味をとり入れたものでしょう。



 曲水の庭。現在でもここで毎年4月に曲水の宴が催されるそうです。

仙巌園

鹿児島県鹿児島市吉野町9700-1



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飯山城-長野県飯山市

2022年08月03日 | 史跡めぐり


 3年ぶりの「史跡めぐり」です。2月に大雪のため行けなかった飯山を訪れ、隙間時間に散歩がてら飯山城へ行ってきました。



 上の地図(クリックすると拡大します)からも分かるように、飯山城は東を千曲川、西を関田・斑尾の山地に挟まれた狭隘地にある高さ30mほどの独立丘陵を削って築かれた梯郭式の平山城です。周辺の山には、とんば城、坪根城、山口城、岩井城などいくつもの山城があります。それらに比べれば単独のそれも低い丘に作られた城ですが、北は越後へと至る狭い地形、すぐ東側を千曲川が流れていることから要衝を抑える意味合いが強かったのではないかと想像します。



 飯山城の築城年は不明ですが14世紀にはあったとされ、1564年(永禄7年)に上杉謙信が、武田信玄に対抗するため本格的に改修し現在の城郭に近いものとなりました。1568(永禄11年)には武田軍の攻撃を受けますが、落城しませんでした。その後権力者の変遷とともに目まぐるしく城主が変わっていますが、江戸時代は飯山藩の藩庁が置かれ(上の地図は江戸期のものです。クリックすると拡大します)、明治以降、廃城となっています。

 今回は恐らく、城の南西側から入り、帰りは南の大手門側から出ました。冒頭の写真は南中門跡に民家から再移築された城門です。その後は、上の地図に沿ってご紹介していきましょう。



 西郭。写真を見ると分かりますが、石塁はほぼ本丸だけで、あとは土塁で築かれています。西郭には城主の私邸である西館が置かれました。



 西郭から帯廓へ通じる道。元々ここに道はなく、本丸へは二の丸からでなくては上がることができませんでした。



 もちろん、この帯廓から本丸へ上がる石段も元々はありません。



 本丸北側の枡形虎口にあったと思われる櫓台の跡。虎口(小口とも)とは郭への狭い出入口のことです。中世以降の城郭に見られ、防御のため様々な工夫が凝らされました。以前、このブログで韓国の「西生浦倭城」に遺る様々な形の虎口をご紹介しています。



 本丸二重櫓跡。飯山城に天守はなく、江戸時代は本丸と三の丸に二重櫓がそれぞれ1棟ずつあり、天守の代わりをしていました。東西9.9m、南北6.3m、二階建ての櫓だったと言われています。今は跡形もありません。



 現在飯山城は葵神社の境内となっています。



 本丸裏手の不明門(あかずもん)跡。江戸時代後期にはほとんど使われなかったことから不明門と呼ばれています。写真に見える石段も江戸時代にはなく、明治になってから作られたものです。19世紀初頭の絵図には「冠木門(笠木を柱の上方に渡した屋根のない門)」だったと記されています。



 本丸から二の丸へと降りていきます。写真奥に見える標識の向こうが三の丸です。このように、地形の険しい側に本丸を置き、それを囲むように二の丸、さらにそれを囲むように三の丸を配置する縄張りを「梯郭式」と言います。

 江戸時代、二の丸には二の丸御殿が置かれ、藩の執務を行う政庁として使用されました。



 坂口門跡。江戸時代前期、二の丸の東側に矢場や馬場が作られ、そこへ通じる通路として設けられました。



 再び二の丸から本丸北側の枡形虎口を望む。もう少し近づいて観察すればよかったです。



 二の丸から見た、千曲川。千曲川は、日本一長い川である信濃川の長野県側の呼び名です(何故か新潟県内を流れる部分を「信濃川」と呼びます)。下流は長岡、新潟に通じ、上流は長野、上田、佐久に通じることから戦略上非常に重要な川であり、これだけ河岸近くにある飯山城はやはり重要な戦略拠点だったものと思われます。



 西郭を見下ろす位置にある帯廓。その名の通り、郭というより通路ですが、有事にはここに兵を配置し防御に当たったことでしょう。



 最後は大手門側に降りました。写真右上に見る鳥居あたりにかつては大手門があったのではないかと思われます。なお、城を囲む堀は埋め立てられ、現在は残っていません。



 なお、翌日訪れた、臨済宗の再興者で、有名な白隠慧鶴の師である道鏡慧端が終生を過ごした庵、正受庵。道鏡慧端は真田信之の子で、飯山城で生まれたのだそうです。

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孫武苑-中国・蘇州

2019年03月05日 | 史跡めぐり


  続いて、同じ穹窿山にある「孫武苑」へ。現存する最古にして最も広く読み継がれている兵法書『孫子』を著した孫武がここに隠遁し、孫子十三編を著したと考えられているところです。


 
  ただ、初めに断っておかなければならないことは、孫武は史書にほとんど記述がないことから、実在したかどうか不明だということです。まして本当にここに隠遁していたかどうかは、伝説の域を出ません。1972年、中国山東省銀雀山で、前漢時代の墓より「孫子」の竹簡(竹簡孫子)が発見されました。しかしそれも、『孫子十三篇』と『孫臏兵法』が別物であったことが証明されたにすぎません。また、『孫子』自体も後代に書き加えられたり、順番が入れ替わったりしており、謎が多いのも事実です。その割には、巨大な資料館あり、博物館ありと随分大々的に観光地化したものだと思います。したがって、以降の孫武の記述については、あくまで伝説であることを前提として進めていきたいと思います。

  因みに、上の写真の「兵聖孫武」の「武」の字が変ですが、ガイドによれば「武」の字を分解すると「二つの戈を止める」となり、「兵は国の大事なり、察せざるべからず」、「戦わずして勝つ」と兵書でありながら、不戦を強調した『孫子』に通じるのだとの説明でした。日本でも武道の世界で同じことを聞いたことがあります。即ち「武道」とは「争いを止める道」なのだと。しかし、「武」の「止」は「とめる」ではなく「足」であり、「武」とは、「戈(ほこ)」と「止(あし)」を組み合わせた象形文字です。もちろん、「戈を持って戦いに行く」というのが本来の意味です。ただ、説得力はあります。


【孫武の時代の世界(クリックすると拡大します)】

  孫武は今から約2500年前、春秋時代末期の人物。斉(現在の山東省)の生まれで、後に斉を乗っ取り王族となる田氏の出だとされます。その後、陳、孫と姓を変え、斉を出て当時の新興国、呉(現在の蘇州)にやってきます。すぐには仕官せず、ここ穹窿山に隠遁し『孫子十三篇』を著したとされます。

  その後、呉の宰相であった伍員(子胥)に見出され、呉王闔閭に謁見。その才能を認められ、将軍として登用されます。将軍となった孫武は、柏挙の戦いの陽動作戦で大国楚を破り、余勢を駆って楚の都、郢城を陥落させるなど、才能を発揮しました。その後も呉の太子不差を補佐し、対立する越(現在の浙江省)を滅亡寸前に追い込むなど活躍したとされます(「臥薪嘗胆」の故事で有名)。

  しかし、その後のことは全く言い伝えがありません。呉王不差は、越王勾践を破ったものの、その後、奸臣伯嚭の讒言などから功臣伍子胥を自決に追い込み、公子慶忌も誅殺、また勾践の謀略で中国四大美女の一人に数えられる西施に溺れるなどし、挙句勾践の反撃に遭い、呉は滅亡します。『孫子』(計篇)には、「将し吾が計を聴きて、之を用うれば必ず勝つ、之に留まらん。将し吾が計を聴かずして、之を用うれば必ず敗る、之を去らん」、つまり、「もし私の戦略を呉王が聴き入れ、私に将帥として呉王の軍隊の作戦を指揮させるのであれば、必ず勝利する。よって私は呉国に留まろう。もし私の戦略を呉王が聴き入れないのであれば、私が将帥として呉王の軍隊の作戦を指揮したとしても、必ず敗れる。よって私は呉国を去るであろう」という記述があることから、呉王不差に見切りをつけ、去ったのかもしれません。



  さて、孫武苑を中に入ると、茅蓬塢(孫武草堂)という庵があります。香港の企業家である方潤華という人から寄贈されたもので、春秋時代の生活風景が再現されています。



  同行していた同い年の中国人社長が、「自分が子供の頃もこんなだった…」と言っていたのが少しショックでした。



  智慧泉。伝説によれば、孫武は穹窿山で甘水を飲んで足が動かなくなり、この地で隠遁生活を始め、『孫子十三篇』を書きあげたそうです。



  有名な「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」(謀攻篇)の碑。よく見ると、毛沢東の書となっています。毛沢東の『持久戦論』からは、彼が『孫子』を深く理解していたことが窺われます。



  『史記』に登場する、有名な「孫子姫兵を勒す」の壁画。



  資料館には、矛・戈・弩・戦車・軍船といった春秋時代の兵器の模型が展示されていました。しかし、上の写真は山西万栄廟出土「呉王僚戈」とあります。呉王僚は、闔閭の前の王。まだ公子光だった闔閭は、無類の魚好きだった僚を太湖に誘い出し、食客の専諸を使い、僚に供した魚の腹の中隠した小剣(魚腸剣)で僚を暗殺ました。銘文には「王子干戈」とあります。なぜ呉から遠い山西省から出土したのか不思議ですが…



  こちら、我が家にある『孫子』の竹簡。もちろん、おもちゃです。

  いずれにせよ、悠久のロマンを感じる楽しい場所ではありました。

繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした
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穹窿山・上真観-中国・蘇州

2019年03月04日 | 史跡めぐり


  11年ぶりの中国です。雨煙る寒空の中、蘇州の有名な山、穹窿山へ行ってきました。「穹窿」には天空という意味があるそうです。さほど高い山ではありませんが、何となく良い気が流れている気がする、気持ちの良いところでした。

  さて、最初に訪れたのは「上真観」という道教寺院。記録によると創建されたのは1800年ほど前、後漢の時代。最も繁栄したのは清の最盛期で、6代皇帝乾隆帝はこの寺院へ6度も行幸し、毎回山頂にあるこの寺院まで登ってきたそうです。その後、文化大革命などもあり荒廃、現在の建物は1990年に再建されたものです。



  山門をくぐると、石段に沿って9匹の龍の彫刻が現れます。道教のことは良く分かりませんが、陰陽で九は陽を表し、龍は陽の象徴です。9匹のうち、一番上の龍が皇帝を表しています。



  「道(タオ)」の書。「しんにょう」が三点しんにょうで書かれているのは、道教で万物を表す「天・地・人」の意味を込めているのだそうです。



  余談ですが、当社の行動指針、思考の起点を表す「Ecosophy」のシンボルマークも意味の一つとして、青は「天」、緑は「地」、白は「人」を表しています。当社の新物流センター「エコムナ」の外壁もこの色です。



  三清閣。内部の写真を撮るのは遠慮しましたが、「玉皇宝殿」、「彌羅上宮」、「三清閣」の三層からなり、「玉皇宝殿」には道教の最高神である玉皇大帝、「彌羅上宮」には六十甲子と呼ばれる、十干十二支を象徴する60体の神像、最上階の三清閣には玉清元始天尊、上清霊宝天尊、太清道徳天尊の三清が祀られています。

  三清は儒教の天神が道教で神格化したもの。元始天尊は、万物より前に誕生した常住不滅の存在。霊宝天尊は宇宙自然の普遍的法則や根元的実在を意味する「道」を神格化したもの。道徳天尊は「老子」を神格化したものです。

  参拝の際は、左手親指を右手でつかみ、左手で右手の甲を覆うと、ちょうど親指の部分が「太極図」の形になります。その状態で三拝。印象的だったのは、観光ガイドは信仰上の理由で三清閣への入殿を拒否し、中を案内した道士までが三層目に上がることを拒否したということです。そこまで神聖な場所なのに、異教徒である外国人観光客が遠慮なく入れるとは不思議です。



  鐘楼の鐘。1回から10回まで、撞く回数ごとにご利益が変わるのだとか。そうとは知らず、1回で遠慮してしまいました。



  乾隆行宮。乾隆帝がここを訪れた際、宿舎としたところだそうです。



  望湖亭。生憎、雨に霞んで太湖は全く見えず。尤も開発が進んだため、晴れていても太湖は見えなかったかもしれません。



   しかし、雨に霞む景色も悪くないものです。



   望湖亭に建つ石碑、湖側は乾隆帝が1757年(丁丑)に詠んだ「穹窿山望湖亭望湖」という五言絶句。

震沢天連水
洞庭西渡東
双眸望無尽
諸慮対宜空
三万六千頃
春風秋月中
五車稟精気
誰詔陸亀蒙



  裏面は1762年(壬午)のもの。

見説古由鐘
乗閑陟碧峰
上真厳祀帝
四輔切其農
奚必逢茅固
無労学赤松
具区眼底近
可以暢心胸

繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした
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