本書は、2009年7月から2010年1月にかけて開催された、三菱総合研究所による「オルタナティヴ・ヴィジョン研究会」の報告書、「経済政策のオルタナティヴ・ヴィジョン」と、同研究会に参加した研究者および行政官による関係論文をまとめたものです。
オルタナティヴ(代替・代案)・ビジョンとはつまり、経済成長のみを志向した従前の政策ビジョンに代替する新たなビジョンのことです。経済が成熟化し成長が望めなくなった時代に、経済成長を目的する経済政策はその存在意義を根本的に問われることになります。その際、経済成長に代替する経済政策の目的はあり得るのか、あるとすればその目的はいかなるビジョンの下に設定されるのでしょうか。
結論から言えば、同報告書では経済成長(GDPの成長)に代わる新たな指標に国民福利の成長を挙げています。しかし、一見してお分かりのように「国民福利」と言ったときに、何を以って「福利」となすのか、それ以前にわが国においては戦後なおざりにされてきた、何を以って「国民」となすのか、などの定義が明らかにされなければなりません。「国民福利」を定義するにあたっては、必然的に、国家とは何か、豊かさとは何か、人間とは何か、など哲学的な考察に踏み込まざるを得なくなります。
したがって、同研究会は単に経済政策の担当者や経済学関係者だけでなく、政治哲学、法哲学、思想史といった幅広い関係者から構成されています。また、経済思想についても保守思想や左翼思想など全く立場を異にする関係者が同席し、それぞれの立場から共通のテーマについて論じているのも本書の特徴と言えます。読んでいて思ったのですが、それにもかかわらず、各関係者の問題意識にはさほどの違いがなかったというのは大変興味深い点だと思います。
本書は、今後わが国が長期的に低成長化するという悲観的シナリオの下に、GDP成長に替わる国民福利の成長を志向した経済政策への転換を提案し、それを実現するため今後国民全体で議論を深め、コンセンサスを形成していくための端緒となる様々な課題について述べています。僕の理解力では少々難解なものもありましたが、第一部の報告書のみならず、第二部のメンバーによる各論文も興味深いものがあります。以下に、第二部のタイトルのみ列挙させていただきます。
・「豊かさの質の論じ方」‐傍観と楽観の間
・低成長下の分配とオルタナティヴ・ヴィジョン
・幸福・福利・効用
・外国人労働者の受け入れは日本社会にとってプラスかマイナスか
・配慮の範囲としての国民
・共同体と徳
・「養子」と「隠居」-明治日本におけるリア王の運命
・オルタナティヴ・ヴィジョンはユートピアか?-地域産業政策の転換
・”生産性の政治”の意義と限界-ハイエクとドラッガーのファシズム論を手がかりとして
・なぜ私はベーシックインカムに反対なのか
・低成長時代のケインズ主義
・ボーダレス世界を疑う-「国作り」という観点の再評価
・グローバル金融秩序と埋め込まれた自由主義-「ポストアメリカ」の世界秩序構想に向けて
「抽象的な理念や思想の話ではなく、論議すべきはこの低迷から脱する処方箋についてである」、そう思われる方も多いのではないかと思います。しかし、この20年を振り返ってみますと、一貫して経済成長を志向してきたにもかかわらず、名目GDPは1996年をピークに横ばいを続け、2008年以降は成長どころか急速にマイナス、2010年は1992年と20年前の水準にまで落ち込んでしまっているのが現実です(下図)。これはむしろ、経済環境の変化によりGDP成長のみを志向する政策そのものに既に限界があったと考えるべきではないのでしょうか。
現在経済成長の起爆剤として期待される、中国やインドを初めとする、新興国市場でさえも決して長期的な安定成長が約束されているわけではないということを示す、さまざまなリスクが既に明らかとなっています。描かれたリスクシナリオは必ずしも悲観に過ぎるとは言えないのです。
かつて世界恐慌を経験した知の巨人たち(ミンスキー、ヴェブレン、ヒルファーディング、ケインズ、シュンペーター)が共通して、経済政策の基礎となるヴィジョンを重視していたというのは、編者の著書『
恐慌の黙示録』に述べられています。また、ヴィジョンの欠落した国家が辿った末路については、以前このブログ「
地中海の女王、カルタゴの滅亡」でも述べたことがありました。このような経済状況だからこそ、過去20年の失敗の蓄積から学び、自分たちがどのような国、どのような地域社会、どのような会社、どのような家族像を目指すべきなのか考えるチャンスなのではないでしょうか。
本書の第三部、メンバーによる討議で興味深いことが述べられていました。ヨーロッパではこうしたビジョンを巡る官民を問わない討議の下地こそイノベーションの源泉になっているというものです。これはある意味、当然と言えます。長期的に目指すビジョンがあり、それを実現するための思考があるからこそ、方向性が保たれつつも斬新な発想が生まれるからです。
本書のタイトルは「成長なき時代の「国家」を構想する」となっていますが、さらに第三部を読むとメンバーそれぞれが国民福利増大を目的とする経済政策を推進することによって、結果的に経済成長も実現され得るという可能性を描いているということが注目されます。自明のことかもしれませんが、本書は単に経済成長が望めないから、諦めて過去の資産があるうちに他の事をしようなどと言う虚無的な態度で編まれたものではないということを最後に付言しておきたいと思います。
| 成長なき時代の「国家」を構想する ―経済政策のオルタナティヴ・ヴィジョン― |
中野剛志,佐藤方宣,柴山桂太,施光恒,五野井郁夫,安高啓朗,松永和夫,松永明,久米功一,安藤馨,浦山聖子,大屋雄裕,谷口功一,河野有理,黒籔誠,山中優,萱野稔人 |
ナカニシヤ出版 |
繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした
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