大型連休の最終日、横浜市磯子区岡村にある三殿台遺跡へ行ってきました。子供の頃から各地の遺跡に出かけ、自分で貝塚を掘ったりもしていた割に、不思議と実家に最も近いこの遺跡には今まで足を運んだことがありませんでした。
三殿台遺跡は52年前に発掘された、縄文時代から古墳時代にかけての集落です。そのため遺跡は各時代の竪穴住居跡が幾重にも重なっています。特に弥生時代の住居跡は約170棟あり、当時の大岡川流域で最大級の集落であったと考えられています。
今でこそ内陸の高台に位置する三殿台遺跡ですが、上の絵図(クリックすると拡大します)の通り、かつては内海の近くでした。現在でも比較的平坦な丘の上で日当たりが良く、住みやすい土地であったであろう事は容易に想像できます。少なくとも3,500年以上という途方もなく長い期間、ここに人々が定住していたことを考えると凄いことだと思います。
1669年に吉田勘兵衛によって吉田新田として埋め立てられるまで、現在の横浜の中心部である桜木町・関内から南区・蒔田の辺りまでが内海であったことは知られていますが、この絵図を見ますと、3,600年前は大岡川の河口がさらに奥、現在の上大岡駅の辺りにあったようです。後に「横濱」と呼ばれることになる現在の元町付近もまだありません。
遺跡内には、縄文・弥生・古墳それぞれの時代の竪穴住居が合計三棟復元されています。上の写真は縄文中期・加曾利E式期(加曾利E式とは土器の区分)、紀元前3,000年頃の竪穴住居です。
紀元前3,000年といっても、なかなかピンと来ないので、「
世界歴史地図」から引用させていただきました(クリックすると拡大します)。エジプト第一王朝の時代、とてつもなく昔です。
この遺跡から出土した、縄文土器。
続いて弥生時代。こちらはずっと時代を下って、1世紀頃(弥生中期・宮ノ台式期)。円形から楕円あるいは丸みを帯びた方形になっています。
こちらも「世界歴史地図」からの引用です(クリックすると拡大します)。
先ほど弥生時代の住居跡が最も多かったということに触れましたが、三殿台遺跡からは全国的にも珍しい、弥生時代の青銅製の指輪(写真右端)や釧(くしろ:腕輪)が発見されています。交易が盛んだったこと、この時期の繁栄が窺われます。
この遺跡から出土した、弥生土器。
最後は古墳時代後期(7世紀、鬼高式期)の竪穴住居です。飛鳥で仏教寺院が次々と建造されていた頃、東国はこんなだったのだなと思わされます。
「世界歴史地図」(クリックすると拡大します)を見ても、ヤマト王権の勢力圏だったとされる地域のほぼ東端に位置しています。
この遺跡から出土した、古墳時代の土師器。
さて、この日は大型連休最終日とあって、近所の小学生が大勢集まり、石鏃(せきぞく)作りに挑戦していました。上の写真は石鏃の複製ですが、もちろんこんな立派なものはできません。
黒曜石の剥片を「調整具」と呼ばれる道具で加工します。かなり力の要る地道な作業になります。この「調整具」は鉛筆のように榀の木に鹿の角を埋め込んだものです。アルプス山中で発見された、5,300年前のミイラが所持していた道具を参考にしているそうです。
写真左のような剥片が、どうにか鏃らしくなったでしょうか(写真右)?
横浜市三殿台考古館
横浜市磯子区岡村4-11-22
繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした
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