窪田恭史のリサイクルライフ

古着を扱う横浜の襤褸(ぼろ)屋さんのブログ。日記、繊維リサイクルの歴史、ウエスものがたり、リサイクル軍手、趣味の話など。

今ある政策リスクについてー森永康平氏講演メモ

2024年10月04日 | 講演メモ


 10月3日、ホテル日航大阪にて経済アナリスト、森永康平氏のお話を拝聴する機会がありました。耳聞きなのでひょっとしたら不正確な部分があるかもしれませんが、今我々が直面している「(国内)政策リスク」について、思い出しながらまとめようと思います。

1.本当の「石破ショック」はいつ起こる?

 2024年9月27日、自由民主党総裁選挙において石破茂氏が新総裁に選出されました。これを受け、27日の日経平均株価は約2,000円の急落、円ドル為替相場は1ドル146円だったものが、142円と急速に円高が進みました。この市場の反応を受け、マスコミでは「石破ショック」というようなセンセーショナルな報道も見受けられましたが、これは2日前の25日から、高市早苗氏の当選を予想して株高、円安に動いていた市場が、石破氏当選によって24日前の水準に戻っただけということのようです。 では、本当の「石破ショック」は来るのか?そして、来るとすればそれは何時頃起こるのか?

 総裁選告示後、「岸田政権の政策を当面踏襲」、「利上げはしない」と述べている石破氏ですが、告示前までのポリシーは「緊縮財政」、「金融引き締め」であり、恐らくこちらの方が本音だろうと思われます。「緊縮財政」、「金融引き締め」は、景気が過熱している時の政策であるわけですが、OECDによる2024年のGDP成長率予測を見ると、日本はアルゼンチンのような例外を除き、唯一△0.1%とマイナス成長と予測されています。

 では、俗にいう「石破ショック」はいつ起こるのか?順序としてまず日銀による利上げが先にあると思われます。なぜなら、植田総裁は追加利上げの方針を変えていないからです。一方、政府はプライマリーバランス(基礎的財政収支)の黒字化を目標に掲げています。簡単に言うと、この目標は国の政策的経費と利払費を税収で賄おうということです。金利が上がると利払費が膨らみ、財政が厳しくなります。そこで、増税という筋書きになると予測されるのです。その時期は、来年夏ごろでは?というのが森永氏の見立てです。尤も、早期の衆議院解散も囁かれていますので、文字通り「石破」ショックではないかもしれません。しかし、残念ながら最大野党である立憲民主党もプライマリーバランス黒字化、増税方針ですので、どちらを選んでも結果は変わりません。

2.日本経済の現状

 先ほど、OECDによる2024年のGDP成長率予測を挙げましたが、OECDに言われるまでもなく、我々の肌感覚として日本経済が好調であるとは感じられません。



 実質賃金の伸び率(%)を見てみると、2024年5月までで26ヶ月連続で前年同月比マイナスとなっています(出典:厚生労働省令和6年7月毎月勤労統計調査速報(事業所規模5人以上))。これはリーマンショックの時ですらなかった、1991年以降最長だそうです。直近2ヶ月はプラスに転じているように見えますが、これはボーナスの影響だろうとのこと。【関連記事



 実質賃金が下がれば、当然家計は支出を抑えようとします。実質消費支出の伸び率(%)を見てみると、2022年11月以降、2年近くほぼマイナスとなっています(出典:総務省2人以上世帯の実質消費支出増減率(前年同月比))。民間最終消費支出(つまり個人消費)は日本のGDPの54%(2023年度)を占めているので、この影響は非常に大きいものとなります。前述のOECDの予測も厳しくなるわけです…。【関連記事

 日経平均株価が高いのだから、景気がいいのでは?と考える人もいます。確かに、今年3月4日には史上初めて4万円を突破(40,109.23円)し、ついにバブル期の最高値(38,915円)をも上回りました。しかし、日経平均株価というのは、全国368万社あるといわれる企業(諸説あり)の内、上場している約3,800社のさらに225社の平均株価にすぎません。これを以て、日本経済が好調であると言えるでしょうか?



 実態はどうなのでしょう?企業倒産件数と負債総額の推移(出典:株式会社東京商工リサーチ 倒産件数・負債額推移)を見てみると、倒産件数も負債総額もコロナ以降、増加に転じています。

3.政策リスク

 このような数字を見る限り、日本経済が過熱気味であるとは到底思えません。2024年7月、日銀は金利を0.1%から0.25%に引き上げました。しかし、この時日銀は経済成長率の見通しを0.6%と発表しており、しかもこの数字は3か月前の見通しより下方修正しているのです。また、消費者物価上昇率 1.9%という見通しも、日銀が目標としている2%に達していません。それにもかかわらず、日銀の利上げ継続方針は変わっていません。

 なぜこのような状況で利上げするのでしょうか?あくまで推測になりますが、円安を止めたがっているのではないかということです。特にコロナ以降、日米の金利差とドル円相場は連動する傾向が見られます。すなわち、金利差が開くと円安になり、縮まると円高になるということです。2024年9月、アメリカは政策金利を0.5%引き下げました。ここで日本が利上げをすれば、金利差が縮小し円高に振れると予想されます。しかし、景気対策ではなく為替操作を目的として政策金利を決定する国はほとんど聞いたことがない、と森永氏は言います。

「政策金利が上がれば、銀行預金の金利も上がるので家計にプラスになる」と主張する人もいます。しかし、この程度の金利で家計を潤すほどの貯蓄をしている人が日本にどれだけいるというのでしょうか?逆に、住宅ローンなどの利息は金額が大きいだけに家計を直撃することでしょう。



 実際に統計を見ると、49歳未満の世代は貯蓄より負債の方がはるかに上回っており、金利上昇のインパクトは利息の受け取りより返済の方がずっと大きいことが分かります。ちなみに、負債の内訳のほとんどは「土地・住宅のための負債」です(出典:政府統計 家計調査 貯蓄・負債編 [持家世帯] 住宅の建築時期,世帯主の年齢階級別貯蓄及び負債の1世帯当たり現在高(2人以上、2019-23年))。しかも、住宅ローンの金利タイプを見ると、75%は変動型、18.3%が固定期間変動型だそうです。利上げは、いわゆる「働き世代」の家計を毀損します。そこへやってくるのが「増税」なのです。消費者はさらに支出を抑え、日本経済は負のスパイラルに陥るでしょう。

4.おまけ:地域の中小企業事業者に向けて

 最後に話は変わりますが、今回の主たる聴講者である地域(関西)の中小企業事業者に向けて。ご存じの通り、日本の人口は1997年をピークに減少を続けています。しかし、その一方で国民の就業率は上昇しています。主たる要因は、女性と65歳~69歳の高齢者の就業率が上昇したことです。しかしながら、その伸びしろもそう多くはありません。人材不足を補う方法は二つ、

① 外国人労働者(移民)に頼る
② DXによる、付加価値創造

です。しかし、前者は欧州の現状がどうなっているかを見れば望ましい方策とは言い難いのは明らかです。安い労働力の流入は、結局日本人の賃金を下げる方向に働くでしょう。そうすると、選択肢は公社ということになります。経済産業省の定義によれば、DXとは「デジタル技術の活用によってビジネスモデルを変革し、激しい市場の変化に対応できる企業力を高める取り組みのこと」とあります。完全なアナログ状態を起点として、DXに至るには次の4つの進化段階があります。

1. 完全アナログ
2. デジタイゼーション(デジタル化による業務効率化、生産性向上)
3. デジタライゼーション(デジタル化による、ビジネスモデルの変革)
4. (本来の意味での)デジタルトランスフォーメーション

 しかしながら、多くの企業が2、よくても3の段階で止まっているのが日本の現状だそうです。大事なのは、デジタル化したデータを使って、社会にどういう価値を生み出していくのかということです。DXの推進は、東京一極集中を解消する可能性を開き、地方経済活性化も期待できます。そして、DX推進は中小企業の方がむしろ容易なのではないかということでした。

繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした
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野球を通じて学んだことー高木豊氏講演メモ

2024年07月04日 | 講演メモ


 7月2日、元横浜大洋ホエールズの内野手で野球解説者の高木豊氏のお話を拝聴する機会がありました。80年代に少年期を過ごした大洋ファンの僕にとって、高木選手はまさにヒーローでした。お話しの中にも出てきた、チームメイトのジム・パチョレックと首位打者を争った1990年シーズン、高木選手が6年にわたり対大洋戦14連勝を続けていた巨人の斎藤雅樹投手から9回逆転2ランを放った際には、余りにも嬉しくて、翌日のスポーツ新聞を各紙買い集めた思い出があります(2度目は1998年の日本一達成時)。冒頭の写真は、今でも持っている横浜大洋ホエールズの下敷き(1989年)で、上段左から2人目が高木選手です。前置きが長くなりましたが、ここでは、ご講演の中で印象に残ったことを思い出しながら取り上げたいと思います。

1.普段やっていないことは出せない

 2003年、アテネ五輪アジア予選の初戦のことです。史上初めてプロ選手のみで代表が構成され、勝利が当然視される重圧の中、どうしても先取点が欲しい場面。先頭の松井選手が死球で出塁し、続く宮本選手には当然送りバントと選手も三塁コーチだった高木氏も思っていたのですが、長嶋監督からは一向にサインが出ません。訝しく思いながらも宮本選手はライト前にヒット。結果的に初回は無得点だったのですが、後の振り返りでなぜバントでなかったのかを聞かれた長嶋監督はこう答えたそうです、「打撃練習の中で、バントの占める割合は5%もない。極度に緊張している場面では、普段やっていることしかできない」。確かに、柄にもないことをやって失敗でもすれば、チームはさらに委縮してしまったかもしれません。「まずは選手の緊張を解くこと」を優先した長嶋監督の深謀遠慮でした。

2.「心の和」は、選手の技量と同じくらい重要

 つづく台湾戦。この試合では、壮行試合の時から不振に喘ぎ、チームとして17安打を放った中国戦でも4打数0安打(2四球)だった小笠原選手を3番から8番に下げました。その小笠原選手が第1打席、当たりは決して良くなかったものの、ついにセンター前へ落ちるヒットを放ちました。すると選手全員がベンチを飛び出して大騒ぎ。苦しむ小笠原選手を見ていたからこそですが、高木氏は「この1打でチームが一つになった」と言います。その結果、強敵台湾を相手に16安打、0vs9で勝利しました。小笠原選手は第3打席でもヒットを放ちました。翌韓国戦は6安打、2vs0でしたが、「負ける気はしなかった」というほど、心に余裕があったそうです。当初チームとしてまとまりがなく、壮行試合に敗れるほどでしたが、同じ力量でもチームに心の和があるかないかで、パフォーマンスは全く違ってくるということです。

3.共通点を見出す、間接的に褒める、イベントを使う

 高木氏がコーチとしてある選手とマンツーマンで練習していた時のこと。その選手は他人になかなか心を開かない性格でしたが、心掛けていたのは、①共通項を見出し、それを話題にする、②褒める時は第三者を通じて間接的に褒める、そして③(誕生日など)イベントを疎かにしないことだったそうです。因みにその選手はその後、チームの主力に成長しました。高木氏はYoutubeチャンネルでもゲストの話を引きだすのが上手だと感じますが、コーチ時代のやり方と通じるものがあるように思います。

4.「素直な心」こそすべて

 高木氏が、シーズン前半でスランプに陥っていた時のことです(打率2割6分で不振とおっしゃっている点から、高木選手がどれだけ一流だったかが窺えます)。体調は悪くないのに、なぜか打てない。そんな中、休みの日に何気なく剣道8段の昇段試験に挑む方のドキュメンタリーを見ていたそうです。その主人公は過去2度8段挑戦に失敗しており、今回が最後と決めていたそうです。そして技量ではなく、論文審査でいつも落とされていたとのことでした。3度目の挑戦で、その方は「今までは想像で論文を書いていた。自分の心で書いていなかった」と悟り、素直な気持ちで論文を書き上げたそうです。その時その方が、「自分の弱さを認め、素直な心で見れば相手の剣先が見えてくる」というような趣旨のことを発言した時、高木氏はハッと悟るところがあったそうです。気がつけば、寝転がっていた自分が正座してテレビを見ていたと。

 気づいたのは、選手として円熟し、チームの中心として富も名声も得た中で、知らず知らずのうちに人を見下すようになっていたということでした。毎年のように3割を打つ高木選手に、相手投手は当然弱点を研究し、そこを突いてくるわけですが、その苦手なゾーンに来た球ばかりを打ち返してやろうとしていたことに気づいたのでした。しかし、弱点は打てないからこそ弱点なので、その結果不振に陥っていたという訳です。

 そこで弱点は弱点として受け入れ、素直な心で見た時、相手投手も投げ損なうことはあるのではないかということに気づきました。ならば、投げ損ないの苦手ゾーンから外れた球を打てばいい。そうしてみると、投手というのは驚くほど投げ損なうということが分かったそうです。その球は苦手ゾーンを外れていますから、打てる確率は高まります。その結果、シーズン終了時に自己最高打率を残すことができたということでした(確か、.333だったのではないかと記憶しています)。

 現在、高木氏の3人の息子さんはいずれもプロサッカー選手として活躍されています。野球とサッカーで高木氏は当然子供たちに教えることはできないけれども、「絶対に偉くなるな、常に素直な心でいるように」と助言しているそうです。

 以上ですが、「野球を通じて学んだこと」とは、心のことだったと結論できると思います。講演会場でも高木氏は聴衆である我々の心を掴み、惹きつけるのが非常に上手だと感じました。少年時代からのファンだった僕などはなおさらです。

繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした
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心理的安全環境がもたらす自律型組織の作り方ー岩出雅之氏講演メモ

2023年10月21日 | 講演メモ


 10月19日、帝京大学スポーツ局長で帝京大学を前人未到の9連覇を含む10度の優勝に導いた元ラグビー部監督、岩出雅之氏のお話を拝聴する機会がありました。実が岩出氏は大学の後輩の叔父さんでもあり、秩父宮ラグビー場でもお見かけしたことがあったので、何となく親しみもあり、今回のお話を非常に楽しみにしていました。ご著書、『常勝集団のプリンシプル 自ら学び成長する人材が育つ「岩出式」心のマネジメント』も5年前に拝読しています。

 学生スポーツは毎年学年が入れ替わるため、連覇が難しいと言われています。大学ラグビーも例外ではなく、2009年に帝京大学が初優勝を成し遂げるまでの44年間、大学選手権を三連覇したのは1982年‐84年の同志社大学のみ。明治、早稲田、慶応といった創部100年を超える伝統校、90年代後半から2000年代にかけて一時代を築いた関東学院も三連覇はありません。そう考えると、帝京大学の9連覇というのがいかに偉業であったかが分かります。

 単に大学チームとして強いというばかりでなく、現在開催中のラグビーW杯フランス大会でも日本代表の内7名が帝京大学OB。そして社会人のリーグワンでも加入1年目、2年目の卒業生がキャプテンに抜擢されることも珍しくありません。こうした「人づくり」の側面は、かつて無名の関東学院大学を6度の大学王座に導いた春口廣元監督同様、ラグビーの監督である以前に教員であることが大きく影響しているのかもしれません。実際、岩出氏が行ってきたことは、大学卒業後に教員として勤務した中学校、高等学校での経験がベースとなっているそうです。ここでは伺ったお話の内容を、1.心理的安全性、2.サポートと育成、3.経験学習サイクルの3つに分けてまとめたいと思います。もちろん、これらは互いに強く関係しあっているので、3つの別々のテーマというよりは、いかにこれらが密接に結びつくことで「強い組織」を作り上げているのかに着目していただければと思います。

1.心理的安全性

 2015年、Googleの調査結果で「チームの生産性・パフォーマンスを高める最も重要な要素は、心理的安全性である」と発表されたことで、「心理的安全性」という言葉が一躍注目されるようになりました。心理的安全性とは、「組織や集団の中でも自然体の自分でいられる環境」のことを言います。しかし、岩出氏はそのような言葉が認知されるようになるはるか以前から、心理的安全性のある組織づくりに取り組んでいました。2015年時点では、既にそうした取り組みが実を結び、帝京大学は7連覇を達成していたのです。

 チームにとって個々のメンバーの有能性はもちろん大事ですが、協力関係はより重要な意味を持ちます。組織の風通しが良ければ、人間関係が改善し、個々の集中力が増し、パフォーマンスの増大につながります。そのために、遣り甲斐、成長、幸せを感じられる組織をいかにつくるか?

 帝京大学ラグビー部では、1年生の内から、試合や練習の場だけでなくあらゆる場で意見を出させ、能動的空気感をリーダーだけでなく全員で作り上げていきます。そうすると1年生も遠慮なく発言できるようになり、情報交換が増えることでチームの知識量が増え、多様な価値観からイノベーションが生まれます。ただし、心理的安全性とは環境要因であってそれ自体が目的ではありません。

 ラグビーという競技は、監督は原則スタンドにいて、試合中は選手に干渉できません。フィールド内では選手たちが自分たちで判断してプレーしなければなりません。また、フィールド内も広いので、15人のプレイヤー全員が意思疎通を図れる機会は事実上ほとんどありません。せいぜい近いポジションの2名ぐらいです。したがって、選手が自分で考え行動する自律性を養うことが不可欠であり、そのために150人いる部員一人一人と向き合います。人を育てるには時間がかかりますが、その秘訣は常に「何故なのか」を説明すること。人は納得すればその先に可能性を見るからだそうです。

2.サポートと育成

 帝京大学ラグビー部のチームスローガンは、「Enjoy&Team work」、理念として「ダブルゴール」を掲げています。「エンジョイ・ラグビー」と言えば、古くはTVドラマ「スクールウォーズ」でもそんなスローガンが出てきましたし、前述の春口廣元監督の著書にも同様の言葉が出てきたと記憶しています。岩出氏は、エンジョイ(enjoy)とは、「楽しむ」と訳されるが、元々の成り立ちはen(作る)+joy(喜び)、即ち「喜びを作る」ことだと言います。ラグビーを楽しむのみならず、その根底にある「喜び」を作り出すことが大切です。

 一方、ダブルゴールとは、大学時の目標と社会に出てからの目標を同時に設定させ進めていくという考え方です。つまり、大学選手権優勝などは短期の目標ではありますが、長期の目標から見れば通過点になります。また、その先のゴールから自身の目標を捉えることで、一見部活動としてのラグビーだけを見れば関係ないように思えることでも、意味のある物として捉えられるようになります。

 とはいうものの、150人の部員を抱えるラグビー部にあって、公式戦に出場できるのはAチーム、Bチームの一握りの部員たちです。Cチーム、Dチームになるとどうしても目標を見失い、焦り、諦めが出てくることもあります。そういう層の仲間たちに全員でどれだけ関わってあげられるか、サポートし、支援することができるかが極めて重要です。特にキャプテンには、自分からサポートし、支援するサーバントリーダーシップ(リーダーが部下に積極的に関わり、意見に耳を傾け、組織の進むべき方向を指し示し、奉仕することで人を導くリーダーシップ哲学のこと)が求められます。チーム愛とはその先に生まれるものであって、チーム愛を押し付けて部員を服従させるものではありません。

 こうした日々の習慣が繰り返され、組織文化(カルチャー)へと醸成されていきます。カルチャー(culture)とは「耕す」を意味するcultivateと同じ語源ですが、文字通り、カルチャーは組織という木を育てる土壌の役割を果たします。その喩えで言えば、心理的安全性とは木に降り注ぐ太陽のようなものと言えるでしょう。

 とりわけ現代は個と組織の関係が逆転し、若い世代は自分らしく、自己実現できる環境を求めています。これは内発的動機(自律性・有能感・関係性)に基づいた組織づくりという点で、むしろ真なのだと思います。岩出氏が1996年にラグビー部監督に就任して以降、心理的安全性のある環境づくりに取り組んできたのは、一つには教育者として強い組織を作るためにいわゆる「体育会系」のパラダイムを脱する必要を感じていたということがあると思いますが、もう一つには、ラグビー新興校としてそうする必要があったのだそうです。1996年監督就任時から初優勝する2009年までの期間は、大まかに言って早稲田と関東学院が覇を競っていた時代でした。1966年創部の帝京大学ラグビー部であっても、当時100年近い歴史を持っていた伝統校から見れば新興校であり、知名度は圧倒的に劣っていました。そのような環境の中で、優秀な高校生たちに帝京大学を選んでもらうためには、心理的安全性のある「脱体育会系」の魅力を打ち出す必要があったのだそうです。

 脱体育会系の最たる取り組みが、四年生を頂点とする、いわゆる体育会系ピラミッド型組織を逆転させたことです。帝京大学では、4年生が掃除や食事などの雑務をこなし、1年生にラグビーに専念できる環境を作ります。下級生も最初は戸惑いますが、そのような先輩の姿を尊敬するようになり、尊敬することで行動が変わってくるのだそうです。そうした下地があって、前述のような1年生も積極的に発言できる雰囲気が生まれます。さらに自分で考える自律型人間を育成するためのポイントとして、

①可視化…やってみせること。
②問いかけ…先輩が先回りして答えを言わない。下級生に考えさせる。
③最適難易度…一人一人の力量を見極める。

の3つがあります。これにより、下級生のみならずむしろ上級生の力量が高まります。例えば、僕も長年ラグビーを見てきて感心していましたが、帝京大学の主将は驚くほどスピーチが上手です。さらに、個々の力量を見極めることが習慣となることにより、試合の時に相手の力量も見極められるようになると言います。典型的な例として、3年生による1年生向けの新人研修があります。これは1年生のためであるのと同時に上級生になった3年生が学ぶ場でもあります。卒業生がリーグワンに行っても早くからキャプテンに選ばれ、また学年が入れ替わるが故に連覇が難しいとされる大学スポーツにおいて帝京大学が9連覇を成し遂げられたのは、この「勝つことではなく学び続ける姿勢」が受け継がれていくからではないかと思います。

 それから、人材育成に際して難しいことの一つとして「心」の問題があります。部員一人一人と向き合い、伴走したとしても「心」の変容は容易なことではありません。人の心というものは、その人の「特性」と「状態」と分けて考える必要があります。前者の心の特性は容易には変わりません、というより変えるのはムリなのです。大事なことは、心の「状態」に向き合い、その状態を作っている背景にアプローチしてあげることだそうです。例えば、ある選手のパフォーマンスの低下は、家庭での悩みが背景にあるかもしれません。心の状態の背後にあるものに踏み込むことができなければ、単純に「やる気がない」とか「たるんでいる」の一言で片づけてしまい、事態を悪化させることにもなりかねません。

 岩出氏が中学校教員時代に教わり、今でも大事にしている言葉に「子育て四訓」があるそうです。元はアメリカインディアンに伝わる子育ての名言と言われていますが、次のようなものです。

乳児は何があっても肌を離すな
幼児は肌を離せ、手を離すな
少年は手を離せ、目を離すな
青年は目を離せ、心を離すな

 これは子育てのみならず、「成人発達理論」における4つの発達段階、「利己的段階」、「他者依存段階」、「自己主導段階」、「自己変容段階」にも通じるサポートのあり方だと思います。また、これらの段階は、一つクリアすればその段階が消えてなくなるというものではなく、その人の心の状態が一時的にどの段階にあるかを知り、それに応じた適切なサポートをするための指標と考えることもできるでしょう。

 部員の成長を支援することで思いやりの文化が生まれ、クラブが好きになります。卒業していく先輩に恩返しをするのではなく、下級生に対して恩送りをしていくようになります。ラグビーにおいてボールを前に投げる「スローフォワード」は反則ですが、受けた恩を先へ送る「ペイフォワード」は大いに推奨されるべきことです。

3.経験学習サイクル

 日本能率マネジメントセンターによる意識調査によると、現代の若者は失敗を非常に恐れると言われています。したがって、挑戦を受け入れる関係が大事になってきます。たとえ失敗しても挑戦したプロセスを評価します。

 失敗は次の3種類に分けることができます。

①防ぐことができるもの
②複雑なもの
③知的なもの

 ①は回避可能だったものなので、次回改善すればよいということになります。②は複雑で予測が難しいものなので、単純化することで、少しずつクリアさせていきます。例えば、昨年の大学選手権決勝(忘れもしない、我が早稲田が73vs20という選手権最大の大差で敗れた試合です)で初出場の選手がいました。その選手は走攻守揃った非常に器用な選手でしたが、器用故に何が自分の強みなのかはっきりせず、パフォーマンスがどれも中途半端に終わっていました。大学生にとって最も重要な選手権決勝という国立競技場の大舞台、それも初出場という最も緊張する場面にあたり、その選手に求めるものを「ラン」1本に絞ったそうです。その結果、彼は大舞台で目覚ましい活躍をしました。③はイノベーションを起こすために生じたものであり、まさに「挑戦」です。これは失敗ではなく「未成功」と考えるのです。未成功と捉えることでさらなる挑戦を促し、挑戦の総量が増えることで心理的安全性に繋がります。

 そんな帝京大学も2018年シーズン、ついに連覇の途絶える時が訪れます。岩出氏曰く、「いつの間にかぬるい組織になっていた」と。そこで今一度、以下のような経験学習サイクルを徹底したそうです。経験学習サイクルとは、デイビッド・コルブが提唱したフレームワークで、一般に「経験、振り返り、概念化、実践」から成り立つサイクルを言いますが、内容はほぼ同じです。

①フィードフォワード(行動前の共通理解)
②リフレクション(内省、振り返り:自らの思い込みに気づき、行動を変容する)
③フィードバック(客観的事実を知る)

 とりわけ②リフレクションが重要なのですが、これができている組織は案外少ないのではないかとのこと。

 そして2021年シーズン、大学王座奪回をもって勇退。昨年から相馬監督に引き継がれ連覇。2023年シーズンの現在、関東大学ラグビー対抗戦も佳境に差し掛かっていますが、正直僕の目から見てですが、帝京大学が頭一つ、二つも抜きん出ており、再びの三連覇は堅いでしょう。構成する部員が毎年入れ替わっても学び続け、変わり続ける力。初優勝から14年経っても未だ他校がキャッチアップできない強さの本質。ひょっとすると伝統校はその「伝統」が頸木となっているのかもしれませんが、仮にそれが正しいとすれば、いかに本質的に重要なことを学び、そこから抜け出せるかがカギとなるでしょう。そして岩出氏のお話は、我々企業組織のあり方を再考する上でも大いに参考になるでしょう。



繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした
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食に人生あり-大船海鮮食堂 魚福(大船)

2022年06月20日 | 講演メモ


 今日は奇しくも、こちらのお店の1周年だそうです。「大船海鮮食堂 魚福」さんに初めてお邪魔したのは、昨年10月。長年YMS(ヨコハマ・マネージャーズ・セミナー)を共にやっている友人に誘われ、こちらのお店を営んでおられる湯澤剛社長とお会いした時でした。

 大船駅前で、コストパフォーマンスの良さと気軽に寄れそうな気取らない雰囲気。そして入口いっぱいに張り出された品書きが道行く人たちの目を惹くお店です。



 この日のメニューは上のフォトチャンネルにまとめました。横浜の下町で育った僕としては、大衆居酒屋らしさを残した馴染みのあるメニューが安心感を与えてくれますし、大船駅前の雰囲気にも合っているように思えます。

 湯澤社長は11歳上の大先輩ですが、お話を伺うと大学が同じだったり、空手をやっていたことなど色々と共通点があって不思議な感じがしました。これがご縁でその後2回ほどお会いさせていただいたのですが、先週小田原で改めてゆっくりお話を伺ったのがきっかけで、この週末は湯澤さんのご著書「ある日突然40億円の借金を背負う――それでも人生はなんとかなる」を拝読していました。

 ご尊父の急逝に伴い、36歳で40億円という年商の2倍の借金を抱え倒産寸前の会社を継承。16年かけて借金を返済されたことは大まかには伺っていました。しかし、お会いした時の湯澤さんからは、悲壮感のようなものが全く感じられないのです。それだけに手に取った本に書かれていた苦難は想像をはるかに超えたものでした。



 これに比べたら自分などまだ苦労の「く」の字も知らない、恵まれた甘ったれに過ぎません。自分が作ったわけでもない借金の返済に追われ、わが身のみならず妻子を路頭に迷わすかもしれない恐怖との闘い。そこへさらに追い打ちをかけるように降りかかってくる艱難辛苦の連続。自分ならとても16年も耐えられないでしょう、何しろ渦中にいた時は16年で返済できると約束されていたわけではないのですから。いや、いかに想像を巡らせたとて、所詮紙の媒体からでは本当のご苦労の万分の一も、現在の僕に分かりはしないでしょう。

 コロナ禍に見舞われたこの2年でさえ、決して順風満帆ではなかったはずです。しかし、お会いした時の湯澤さんは辛さを噯にも出されないのです。愚痴の一つさえ出ません。それどころか、口を衝いて出てくるのは、その場にいる人を含めた周りの人たちへの感謝と敬意の言葉ばかり。人生への賛歌、働くことの素晴らしさ、そして人々への感謝の言葉。苦難の果てに暗闇に光が差し込んできた時、照らされたのはそのようなものだったのでしょう。

 読み終えた後、改めて10月にお邪魔した時の料理の写真を眺めた時、こうした一品一品の背後に、湯澤さんを始めとする多くの方の人生を賭けた壮絶なドラマがあるのだとしみじみ思いました(本書では、お店の名前の由来やどうしてこのようなメニューにしたのかなどのエピソードについても触れられています)。きっと、他の飲食店にもそれぞれのドラマがあるに違いありません。もちろん、飲食に限らず他の業種でもです。半世紀も生きていて、今更ながら思います。だから僕たちは食べ物を前にして「いただきます」、「ごちそうさま」と手を合わせるのだと。

 最後に、心に残った、湯澤さんが苦境を前に立ちすくみ絶望に打ちひしがれている人たちへ贈ったメッセージを「あとがき」からそのまま引用させていただきます。ここに湯澤さんの人柄が凝縮されているように思ったからです。

 もう一度立ち上がってみませんか。
 「これ以上はとても無理だ、もう終わりだ、死んだ方がいい-」
 そう思っていても、もう一度だけ、立ち上がってみませんか。
 私は「朝の来ない夜はない」と、これ以上なく強く信じています。
 そして、あなたがその足でもう一度立ち上がるなら、あなたはその手であなただけの宝物をつかみとるだろうと、信じています。
 頼れる人もいなくて、どうしたらいいかわからず、それでも自分の人生を失ってなるものかと、そう願ったあの日の私のような人へ、この本を贈ります。
 立ちはだかる巨岩を前に、こんなものが動かせるわけがない、自分にはとても不可能だと足をすくませている人へ、この本を贈ります。
 不可能かどうかは、立ち上がってみてからでないと分からないものです


大船海鮮食堂 魚福



神奈川県鎌倉市大船1-10-15



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【講演メモ】「戦国武将に学ぶ経営術」

2019年11月21日 | 講演メモ


  11月20日、横浜中小企業懇話会の経営者セミナーにて、静岡大学名誉教授、文学博士、小和田哲男様のお話しを拝聴する機会がありました。こちらは、「戦国武将に学ぶ経営術」と題したご講演のメモです。

  イントロでは、NHK大河ドラマの時代考証という仕事がどういうものなのか、お話しがありました。たとえば、これは小和田様が手掛けられたものではありませんが、2016年に『真田丸』というドラマがありました。主人公の名前は真田信繁。かつては真田幸村と呼んでいましたが、本当は信繁が正しく、このドラマでは「信繁」が採用されました(1985年の『真田太平記』では、「幸村」でしたね)。こうした歴史研究の移り変わりを反映するのも大事なお仕事のようです。

【戦国時代のキーワード】

1.弱肉強食
2.合従連衡
3.下剋上



1.下剋上と立身出世願望

1)「負け組」も勝つことができた時代
・三方ヶ原の戦いでの敗北が、家康を天下人にしたといわれる。
・朝倉宗滴 「巧者の大将と申すは、一度大事の遅れに合ひたるを申すべく候」

2)身分は固定化されていなかった
・例:石田三成(茶小姓だったという説)、豊臣秀吉(百姓)

3)通用しない「親の七光り」
・江戸時代と違い、大名の嫡男が大名とは限らない。

2.一般的だった大名間移動と途中入社

1)終身雇用ではない時代
・信長の人材登用:領地付きの城主となったのは、譜代の臣ではなく明智光秀が初。その次は羽柴秀吉。
・藤堂高虎は7度主を変えている(浅井長政、阿閉貞征、磯野員昌、織田信澄、豊臣秀長(~秀保)、豊臣秀吉(~秀頼)、徳川家康(~家光))。

2)自己の能力開発
・禅僧から教育を受ける者が多かった(太原雪斎は有名)
・生涯学習の傾向:毛利家の家臣、玉木吉保は、中国古典→日本古典→兵法書→歴史・地理→料理→医学と生涯学び続けた武将であり、医師でもある。

3.埋もれた才能の掘り起こし

1)異能者と異業種間交流
・桶狭間の戦いの論功行賞で一番手柄だったのは、一番槍の服部子平太(一忠)でも、今川義元の首級をあげた毛利新介(良勝)でもなく、隠密の簗田政綱であった。情報の価値が武功よりも認められた事例。

2)北条氏綱の遺訓(北条氏綱公御書置)から
・「侍中より地下人・百姓等に至るまで、何れも不便ふびんに存せらるべく候。すべて人に捨りたる者はこれなく候」
・「その者の役に立つ所をば遣ひ、役に立たざる所をば遣わずして、何れをも用に立て候を能き大将と申すなり」
・「此の者は一向の役に立ざるうつけ者よと見限りはて候事は、大将の心には浅ましき狭き心なり」
・「侍中に我身は大将の御見限りなされ候と存じ候へば、勇みの心なく、誠のうつけ者となりて役に立ず」
・「皆々役に立たんも、又た立つまじきも大将の心にあり」

3)秀吉を抜擢した織田信長
・人材登用に優れていたのが、信長。
・秀吉と年齢も仕官した時期もほぼ同じ前田利家は、身長180㎝(当時の平均身長は160㎝程度と推定される)、槍の名人でもあった(「槍の又左」の異名)。家柄も利家の方がはるかに上。一方の秀吉は推定154㎝、華奢な体躯で戦国時代にあっては通常有能な家臣とは言い難い。しかし、先に出世したのは秀吉の方であった。
・信長が秀吉に見出した才能は「話術」。この才能で美濃攻めの際、西美濃三人衆(稲葉良通、安藤守就、氏家直元)の籠絡に成功。彼らの内通により、難攻不落の稲葉山城は落城した。
・一方、信長の問題点は競争原理に偏り過ぎたこと。赤母衣衆筆頭の前田利家と黒母衣衆筆頭の佐々木成政は犬猿の仲であったと言われる。羽柴秀吉と明智光秀も競争関係に置かれ、それに疲れた光秀が本能寺の変を起こす遠因になったとも推測される。

4.上の人への自由な批判が可能だった社会

1)毛利家家臣、志道広良(しじひろよし)
・「君は舟、臣は水。水能く舟を覆す」(『荀子』)。江戸時代であれば、このようなことは言えない。
・『甲陽軍鑑』より。「国持つ大将、人をつかふに、ひとむきの侍をすき候て、其そうきやうする者共、おなじぎやう儀さはうの人計、念比(ねんごろ)してめしつかふ事、信玄は大きにきらふたり」(イエスマンばかりで周りを固めたくない)

2)黒田長政の福岡城「釈迦の間」
・福岡城本丸に「釈迦の間」を設け、「異見会」という家老と対等な立場で討論する仕組みを作った。当時は関ケ原の戦い後で社会が安定し始めていたころであり、江戸時代の身分の固定化、官僚主義的な色が濃くなりつつあった時代であり、そうした背景を考えれば異例のことであった。

5.部下を信頼するシステム

1)副の置き方
・秀吉晩年の暴走は、良きサブであった弟・秀長の死後であったと言われる。

2)徳川家康の三河三奉行
・天野康景、高力清長、本多重次の三名。「仏高力、鬼作左、どちへんなきは天野三兵」と謡われ、性格が異なる者を抜擢し、個性に応じて用いた家康の眼力がうかがわれる。
・後に老中まで上り詰めた本多正信は三河一向一揆に与し、一度追放されている。しかし、後に帰参し、石川数正が出奔し豊臣秀吉についた際、本多作左衛門(重次)を推挙したのは正信であった。

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マグロ船に教わった、組織活性術

2014年10月11日 | 講演メモ


  10月10日、株式会社ネクストスタンダード代表取締役社長、齊藤正明さんの講演を拝聴する機会がありました。「日本一のマグロ船に教わった!組織を元気にする仕事術」というテーマでしたが、ご本人は元々漁師ではなく、水産物の鮮度保持剤を研究する技術者だったそうです。それが仕事の関係で、当時日本一の売上げを誇ったマグロ船へ乗船することとなり、そこで苛酷な環境の中で組織のモチベーションを保ち、部下の能力を伸ばしていく仕事術を目の当たりにしたということでした。

  マグロ船というのは、一度出港すると40日~50日はずっと海の上。否が応でも全長わずか20mと電車一両分程度の船に9名の乗組員が一緒に過ごさなければなりません。しかも、全長150kmもある延縄を海に流し、マグロを釣る、一日12時間にも及ぶ重労働が20日間連続で続くそうです。しかも、決して高いとは言えない報酬の中で、船長はどうやって漁師たちのモチベーションを保ち、チームワークを保っているのか?

  齊藤さんが船長から教わったという様々な事柄の中で、最初に印象に残ったことがありました。それは、朝起きてから今までに良かったと思えることを10秒間でいくつ思いつくことができるか、というものです。これが5個以下だと、船長いわく「釣り上げられてから初めて身に起きた不幸に気づくマグロと同じ」なのだそうです。即ち、日頃から当たり前のことにどれだけ有難味を感じ、感謝できるかということ。海に不慣れな齊藤さんは43日の航海中、実に40日間船酔いに苦しめられたそうですが、船長から「それだけ苦しい思いをすれば、上陸した時、地面が動かないということだけで感謝できるようになる」と言われたそうです。因みに、僕はこの時ひとつも思いつくことができませんでした。



  心に残ったことの二つ目。組織には多かれ少なかれ仕事のできる人もいれば、できない人もいると思います。しかし、船長いわく「たった9人でやらなければならない過酷なマグロ漁。海の上に出たら、どんなに未熟な者でも何かの役に立つようにしなければできない。」ということでした。そのために、一人ひとりのできることに目を向け、自信をつけさせてあげることが大切なのだそうです。例えば、まだ体ができていない若手に対しては、「力仕事に不向き」から「身軽な作業に向いているのではないか?」と発想を転換し、本人に居場所を見出してあげるのだそうです。当たり前のようでなかなかできないことだと感心しました。

  三つ目は、乗組員の立場からのお話。前述の通り、マグロ漁は危険かつ重労働にも関わらず、その報酬は決して高いとはいえないそうです。普通の会社務めの方が割に合うはずなのに、若手の乗組員はなぜあえてマグロ船に乗り、自発的に動いているのか?その問いに対する若手乗組員の答えは、「船長のような人間になりたいから」というものだったそうです。即ち、船長自身が若手乗組員たちにとって手の届く目標、憧れになっている。船長の仕事とは、①周りを元気にし、②能力を伸ばしてやり、③結果として売上を上げることだということです。

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安田祐輔さん②-NPO法人キズキ

2012年04月10日 | 講演メモ
  大学では紛争解決などに携わるインカレ団体に所属。20歳にして、激しい民族対立を繰り返す、イスラエル人とパレスチナ人の若者を来日させ、会議を開催するという事業を資金集めから奔走し、実現させました。この時、会議そのものより、当初は決して分かり合おうとしなかった両民族の若者が、1ヵ月後、帰国の途に着く成田空港で、お互い涙を流しながら惜別する姿を見て、自分が課題と思ったことについて小さなことからでも状況は変えられるということの学びが大きかったそうです。これが現在の安田氏の活動の原点になっているとのことでした。

  学生時代の活動の中で、やがてサンフランシスコなどにも講演に呼ばれるまでになりますが、ある九州大学での講演でルーマニアに誘われ、三年生の時、同国で平和活動をする若者のワークキャンプの運営を任されます。しかし、現地を知らず、抽象論で平和を語る彼らの姿に違和感を覚え、帰国。

  三年生の秋頃から、バングラディッシュへ頻繁に行くようになります。そこでは現地を知るため、娼婦街で農村から身売りされてきた娘たちと共に生活し、やがて完全に理解することはできなくとも、半分くらいは彼女達の視点で物を考えられるようになったといいます。

  彼らの貧困問題は、衛生・医療・教育など多々あるものの、決して餓死するという類の貧困ではありませんでした。貧しくても、幸せそうに生きている人々が沢山いる。一方で、イスラム教国における極貧の農村にいるよりは、はるかに所得もあり、自由も保障されているはずの娼婦達の中に、リストカットを何度も繰り返す者がいる。そこで、人はどんなに貧しくても、お金や暮らし向きによってではなく、尊厳や生きる意味によって生きているのだ、それを守る仕事がしたいと肌身で感じるようになったそうです。

  帰国後、大手商社に入社しますが、何が自分のやるべきことなのか迷い、半年で休職。しかし、その時間が自分のやりたいことについてじっくりと考える期間となり、忘れていた10代の頃の経験が蘇ってきたそうです。「尊厳や生きる意味を見失い苦しんでいるのは途上国でも、日本でも同じ。ならば、まず母国である日本で活動を始めた方ができることも多い。自分の経験から、「受験」を通じて、苦しむ子供達に自己肯定感を取り戻してもらうことができるのではないか?」と。

  2010年、NPO法人キズキを設立。まず実績作りから開始します。当初は梨の礫でしたが、半年後ぐらいから問い合わせが増え始め、現在では受け入れ体制が課題となっているそうです。お伺いしたこの日もまさにそうでした。



  家庭と学校だけ、あるいは家庭の中だけしか居場所のない、様々な事情を抱えた子供達が、キズキという新たな人との接点の場を持つことができる。それだけで、大きな前進といるでしょう。安田さんが入塾面接で心がけているのは、面接に訪れた子供達を「いかに安心させるか」ということ。面接を通じて、誰とも話すことのできなかった子供が口を開くようになったり、虐待を受け傷ついた子供が面接終了時には「一緒に写真を撮ってほしい」と言い出すまでになったりする。子供達が大学に合格し、自己肯定感を取り戻す切欠としてくれるのはもちろんのこと、こうした事が安田さんの遣り甲斐となっているそうです。

  これからの展望としては、もっと多くの子供達に「人生は失敗しても何度でもやり直せる」ということを知ってもらいたい、たとえ根拠はなくとも「何とかなる」と思える強さを育んで生きたいということでした。

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安田祐輔さん①-NPO法人キズキ

2012年04月09日 | 講演メモ


  「急遽、授業がフルで入ってしまって…」

  春うららかな巣鴨地蔵通り商店街。お訪ねした教室のドアを潜った瞬間、その雰囲気が一変しました。新学期早々、桜の開花も間もない4月6日、不登校・中退・引きこもりなどで学校へ行けなくなってしまった子供達ために、再学習支援を行っている、NPO法人キズキの安田祐輔さんのお話を拝聴する機会がありました。<お忙しい中、本当にありがとうございました>

  それからおよそ2時間、安田さんのNPO法人キズキ設立に至るまでの経緯から、現在までのお話を伺いましたが、お話を伺うというより、こちらがエネルギーを充電させていただいているような感覚を覚えました。お話の中で僕なりに要点をまとめますと、

1.人は小さなところからでも影響を及ぼすことができること
2.抽象論で理想を語るのではなく、現場に寄り添うこと
3.何人も尊厳によって生きる存在であること
4.問題を抱えた相手の解決を図るのではなく、まず安心が大切であること

以上の4点になりますが、これらについて順を追って述べさせていただきたいと思います。

  安田さんは1983年、横浜生まれ。ちょうど僕とは10歳違いますが、一時同じ町に住んでいたという不思議なご縁がありました。小学校時代、家族は様々な問題で崩壊状態であり、安田さんは帰宅してもいつも一人という孤独な時間を過ごされたていたそうです。

  そんな家から出るため、安田さんは千葉県にある全寮制の中学に特待生として入学します。お話全般を通じ、安田さんには自らの境遇を自ら打開しようという意思の強さを感じましたが、わずか12歳にしてこの決断は驚かされます。しかし、特待生であるがゆえ、進学実績を過剰に期待する学校の姿勢と同級生によるいじめ等もあり、中学二年生で退学。

  横浜に戻るものの、再婚した父親の家には馴染めず、預けられた祖父母の家でも、世代間ギャップの問題もあり、中学三年生の頃には地元の暴走族に入っていました。後になって、そうした不良仲間もそれぞれ不幸な境遇を抱えていたことを知ったそうです。

  18歳の時、環境に人生を決められることへの悔しさ、自分は何がしたいのかという疑問から、一流大学に入れば今の環境から抜け出すことができるのではないかと一念発起し、2年間、ゼロからの猛勉強の末にICU(国際基督教大学)に進学。当時、アフガン戦争の米軍による空爆で子供達が苦しむ状況を知り、そうした環境を変えるため、将来は国連のような機関で働きたいと漠然と思っていたそうです。

<つづく>


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山崎亮さん-コミュニティ・デザイン

2012年03月24日 | 講演メモ
  3月23日、コミュニティ・デザイナー、山崎亮さんのお話を拝聴する機会がありました。

  山崎さんは、地域の課題を住民参加型で解決するためのコミュニティ・デザインに携わっておられ、まちづくりワークショップ、住民参加型総合計画作り、建築および景観デザイン、パーク・マネジメント等、数多くのプロジェクトを手掛けておられます。今回の演題もずばり「コミュニティ・デザイン」でした。

  ここでいうコミュニティ・デザインとは、簡単に言うと、地縁型コミュニティが衰退し、高齢化、過疎化など様々な問題が叫ばれて久しい現代社会にあって、地域住民のみならず、地域外からの人たちをも引き付ける、魅力ある地域づくり、すなわちテーマ型コミュニティのデザインのことです。

  「魅力ある地域づくり」というと、何か行政の仕事のようなイメージがありますが、山崎さんの特徴は、そこに必ず住民参加があることにあります。お話によると、その原点は1995年の阪神淡路大震災にあり、川沿い避難した被災者の住民達が、家も町も失った中で自生的に協力し合い、コミュニティを再形成している姿にあったそうです。僕と同じ1973年生まれなので、その頃はちょうど翌年(僕の場合はそうではありませんでしたが)には社会に出るという時期。建築デザインを専攻されていた山崎さんは、その時、ただ斬新なだけでなく、社会が抱える課題に対して共感できる形で解決策を提供するという、デザイン本来のあり方を追求し、徐々にコミュニティ・デザインに関わるようになっていたのだそうです。

  住民参加型ということで、ご講演の中でまず例に挙げられていたのが、閉店後の商店街にどこからともなく現れる「大阪のおばちゃん」。そのおばちゃんの周りに、地域のお年寄りや体の不自由な方たちが集い、コミュニティを形成する。しかもそのおばちゃんは毎日必ず周辺を清掃してから帰るそうです。そうした、誰に言われるでもない、素人による自生的な空間活用能力を考えた時、本当に何から何までを行政が用意する必要があるのでしょうか?逆に行政が用意してくれなければ本当にコミュニティの再生はできないのでしょうか?これが山崎さんのコミュニティ・デザインの特徴である住民参加型の元型としてあるのではないかと思います。

  それは必ずしも地縁型コミュニティを否定するものではありません。長い伝統や文化を保持している地域であれば、それを再発見することによってアイデンティティやコミュニティを再構築することも方法でしょう。しかし、そうした過去の遺産が断絶して久しい地域、あるいは新興住宅地など、新たに開発された地域で、住民のコミュニティ意識が醸成されていないような地域では、別のアプローチも必要になります。それがテーマ型コミュニティと言えるでしょう。

  テーマ型コミュニティの事例として最初に挙げられたのが、兵庫県にある有馬富士公園です。ここは元々典型的な行政によるいわゆるハコモノで、山奥に作った公園にいかに来場してもらえるかが課題でした。山崎さんが発想したのは、お客が集まる=ディズニー・ランドということ。そこでディズニー・ランドのスタイルを分析してみると、そこには管理者であるオリエンタル・ランドとゲストとの間にキャストが介在し、お客さんにディズニーの魅力を伝えています。しかし、県立の有馬富士公園では、そのために予算を割いてキャストを集めることができません。そこで、代わりに地域住民の力を活用するというわけです。

  地域には、普段から趣味や高い志を持ってさまざまな活動をしている人たちが沢山います。しかし、彼らにもそれを広く伝える場がなかったり、あるいは自分だけの世界に留まっていたりという課題があります。これを有馬富士公園という「場」を提供することで、双方の課題を解決すると共に、人が集うことによる、公園を媒介とした人のつながりを創出することができます。

  実際、道作り、水生物ウォッチング、たこあげ、天体観測など、声をかけた50団体のうち20団体が公園に集い、それぞれ活動を行っています。さまざまなイベントの内容や予定は、公園のホームページから見ることができます。さらに、それぞれの団体がそれぞれのファンを持つようになった結果、2001年の年間集客数41万人(これでも十分凄いと思いますが)が2005年には75万人になったということです。

  次に、有馬富士公園の手法をデパートという多層空間に応用したのが、鹿児島のマルヤガーデンズです。ここでは、各フロアにコミュニティ作りのためのスペースを設け、やはり声をかけた50団体のうち40団体が日替わりで集い、さまざまな活動を行っています。例えば、オーガニック・ファションを発信していた団体と隣接する店舗がつながり、そこでの新ブランドに発展したという例も挙げられていました。僕もちょうど一年前、とある研修で同じように郊外沿線型ショッピング・モールのスペースを活用したコミュニティづくりのアイデアでプレゼンしたことがありますが、単純な思いつきと、実際にそれを行うのとでは雲泥の差があります。「言うは易し、行うは難し」です。

  コミュニティ・デザインで山崎さんが目指しておられるのは、「公共的な事業の住民参加を通じて、「担い手」を育成する」ことだそうです。さまざまな人の交流を通じ、それぞれの能力が高まることで、シナジー効果が生まれます。そうすることによって、本当の地域の活力が生まれるのだと思います。そのためには、小さなコミュニティを集め、さらにそれらを相互作用させていくコーディネートが重要だそうです。

  そこでのキーワードは「ゆるいつながり」。いつ抜けても構わないコミュニティだからこそ、普通打ち明けられない悩みやアイデアも相談できたり、逆につながりが強まるという逆説があるのです。こうした気軽に相談できる場の創造は、うつ病が原因で年間3万人もの自殺者を出している(イラク戦争とその後数年の米兵の戦死者数でさえ、2万人に達しません)、明らかに異常な社会に対する有効な解決策となりそうな気がします。

コミュニティデザイン―人がつながるしくみをつくる
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K君の合格祝い

2011年11月24日 | 講演メモ


  2011年11月23日、8月に受講した、とあるセミナーで一緒になった高校生のK君から無事第一志望の大学に合格したとのお知らせをいただき、数人のセミナー仲間と共に彼の合格祝いをしました。ジュースはおろか、烏龍茶さえ飲まない真面目なK君です。われわれ大人は遠慮なくビールでしたが...

  縁あってセミナーの2日間を彼と一緒にすごしたのですが、K君の人となりには大いに感心させられました。今回はそのことについて少しお話させていただきたいと思います。

  全国屈指の柔道強豪校に通うK君は、当然高校日本一を目指す柔道部の一員として、高いレベルで柔道に打ち込んできたのですが、高校2年生の時、つまり1年前、突如病気のために柔道を諦めなければならなくなったのだそうです。

  それまで柔道に人生を賭けてきたK君が弱冠17歳で直面した挫折の大きさは想像するに余りあります。普通であればそこで腐ってしまっても不思議はないのですが、彼は恩師の勧めもあり、自分が柔道をできない分、裏方として同期の仲間達が全国制覇を目指す手助けをしたいと考え、高校最後の柔道生活を庶務として全うすることを選択したのだそうです。

  仲間を裏から支える過程で、K君は将来も人を支える仕事がしたいと考えるようになり、看護師になることを決意しました。8月のセミナーで初めてお会いした時、彼は看護師になるという夢を叶えるため、湘南台にある大学の看護学部を目指して勉強しているのだと話してくれました。そして、高校生にとって決して安くはないセミナーも自分で見つけ、自費で参加。その理由は、若くしてざまざまな年齢層、ざまざまな性格の人たちと接しなければならない看護師という仕事の性質上、より人のためになる看護師となるために、少しでも対人スキルを磨いておきたいからというものでした。

  とはいえ、高校3年生の8月です。やはり普通であれば、大学受験の忙しい時期でなくても、大学に入ってから受講すればいいのではないかと思うところです。しかし、彼にとって大学は目指すものではなく、看護師になるために入るべきものであり、全ては看護師になるために自分が必要と考えるものを実行に移しているだけなのでした。僕が大学に入った年に生まれ、20歳も年の離れたK君ですが、これには恐れ入りました。僕の手元には、僕がちょうど彼と同じ位の歳だった頃の日記が今でも残っているのですが、翻って僕の何と幼稚だったことでしょう!

  セミナーでは、パートナーと1年後再会したという設定で、1年後の近況について紹介しあうというワークがありました。そこでK君は僕に第一志望の大学に合格し、学生として生活している姿を明確に描いて見せました。それから3ヶ月、K君から「大学に合格しました」という連絡が来たのです。

  一点の曇りなく、自分を信じきる心。将来に対する明確なビジョン。きっと誰からも可愛がられるであろう、屈託のない笑顔の奥にある、一流の場で磨かれた意志の強さ。挫折と正面から向き合うことで培われた人生哲学。本当に彼からは学ぶべきものばかりの2日間でした。繰り返しになりますが、本当に自分は彼より20年も長く生きてきたのかと思います。

  K君、心からおめでとう。そして、これからもよろしく。

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