先週末の日曜日は久し振りに時間を空け、
NPO法人日本交渉協会からこの度出版された『交渉学のススメ』を読みました。本書は交渉行動における個々のテクニックを扱った本ではなく、あくまで交渉を学問として捉え、その応用までの概要を述べた内容となっています。読了することで、交渉学とは何か、それはどのように進化し現実世界の場で応用されているのかを掴むことができます。交渉学への入口として、また交渉学を学んだ方でも知識の整理として役立つ一冊かと思います。
第1章は、日本における交渉学の誕生について。日本に交渉学を紹介したのは、国際基督教大学教授の藤田忠先生です。藤田先生はアメリカにおける交渉学の黎明期である1973年にハーバード大学で交渉学を学ばれました。帰国後、後に日本での交渉学の普及を目的として日本交渉協会を設立されています。
藤田先生、日本交渉協会が目指す交渉のあり方。それを一言で表すとすれば、「燮(やわらぎ)の交渉」という事ができます。藤田先生はこの「燮」という文字を「人と人とが言葉を介して対立を解決する姿」と捉えています。そしてそれは単なる解決ではなく、文字通り「やわらぎ(調和)」の解決です。これを交渉学では、決まった大きさのパイの取り分を奪い合う「分配型交渉」に対比して、「統合型交渉」と呼んでいます。
また、この「燮の交渉」のロールモデルが、藤田先生がハーバード大学で出会った、エドウィン・O・ライシャワー元駐日大使です。ライシャワー博士は占領時代の色が濃く残る1961年に駐日大使として赴任。「イコール・パートナーシップ(対等な日米関係)」を掲げ、日米関係の改善と強化に尽力されました。1972年の沖縄返還も博士の努力が大きく影響したとされていますが、『ライシャワー自伝』を読んで分かることは、博士が日米間の表面的な諸問題に対処するために、その背後にある当事者の思想、文化、メンタルモデルにまで踏み込んで理解されようとしていたことです。まさに後述する「価値創造型」交渉を実践されていた方と言えるでしょう。
第2章は、交渉学の系譜。交渉学の源流は1920年代、メアリー・パーカー・フォレットのコンフリクト論に遡るそうです。やがて1930年代以降、労使交渉論が盛んになり、1965年の『労使交渉の行動理論』で共著者のリチャード・E・ウォルトンとロバート・B・マッカーシーは、交渉を「分散交渉」・「統合交渉」・「態度形成」・「内部交渉」の4つの角度から分析しています。1980年代に入ると意思決定論の一部としての交渉学に心理学の知見が加わり、実践的な交渉行動の研究が進みました。有名なロジャー・フィッシャーとウィリアム・ユーリーによる『ハーバード流交渉術』もこの頃に出されました。そして東西冷戦が終わり、グローバル化が進んだ1990年代以降、異文化間交渉研究が盛んとなり、現在に至っています。
第3章と第4章は、交渉学原論の必要性と交渉学の基礎について。しばしば理論と現実の交渉行動の乖離が指摘され、「理論は役に立たない」という向きもありますが、本書では社会が複雑化する現代こそ交渉行動を個々のテクニックではなく、全体としての知的体系として理解しておく必要があると述べています。この知的体系として交渉学原論があります。第4章はその基礎について紹介していますが、ご興味がおありの方は日本交渉協会が認定する民間資格
「交渉アナリスト」の2級講座でより深く学ぶことができます。
第5章は、交渉の進化モデルについて。交渉学を学ぶ目的は、万能な解を求めることではなく、千差万別な状況に応じて最適解を自ら導き出す力を養うことだと述べています。本章では、交渉を「奪い合い型」・「価値交換型」・「価値創造型」の三段階に区分しています。第一段階の「奪い合い型」は前述の「分配型交渉」のことです。第二段階の「価値交換型」は、双方の価値認識の差を利用し、お互いにとって有益な合意を形成する段階です。スチュアート・ダイアモンド博士が『ウォートン流 人生のすべてにおいてもっとトクをする新しい交渉術』で述べている「不等価交換」がこれに当たると思います。
第三段階の「価値創造型」は双方の共通目的から問題解決に向け、新たな解決策を創造する段階です。この「共通目的」については、後出のコンフリクト・マネジメントを図式化した「文化の島とダイバーの図」(p.247)が非常に分かりやすかったです。真の共通目的はしばしば表面的には見えません。これを明らかにするためには、コミュニケーションを通じた情報交換によって双方の背後にある「世界観(メンタルモデル)」に辿りつき、これを言語化する必要があります。それは文化や価値観の差異を超えた、集合的無意識のレベルで共有された目的です。詰まる所、交渉の進化とはコミュニケーション・レベルの進化(と深化)であると言えるかもしれません。
ピーター・センゲ博士は、『最強組織の法則』の中で物事をシステムとして捉える「システム思考」を図式化した「氷山モデル」の中で、「出来事」・「時系列パターン」・「構造」の基底にやはり「メンタルモデル」を置いています。共通目的を明らかにし、新たな価値を創造プロセスとしては、オットー・シャーマー博士の「U理論」が参考になります。
ただ注意しなければならいのは、交渉の段階が進化したから「奪い合い型」が無くなるわけでも、「奪い合い型」交渉を否定しているわけでもないという事です。有史以来、今日に至るまで人類文明から分配型交渉が消えたことはありません。これも交渉の一段階として厳として存在(むしろ主流)することを受け入れた上で、その理論を理解しておくことが交渉力を養う上で必要になります。
さて、その後は各方面の交渉の専門家による交渉学の実践と応用事例が紹介されています。鈴木有香先生による「コンフリクト・マネジメント」、鄭偉先生による「グローバルマインドと異文化コミュニケーション」、昨年「
交渉学特別セミナー」でご講演いただいたアラン・ランプルゥ先生とミシェル・ペカー先生による「会議を交渉する」。どれも今こそ「統合型交渉」が求められていることが分かる興味深い内容となっています。
豊富な参考文献も、交渉学に興味を持たれた方には役立つのではないかと思います。
繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした