本書は世界恐慌が勃発した1920年代前後の知の巨人たち(ミンスキー、ヴェブレン、ヒルファーディング、ケインズ、シュンペーター)が資本主義の本質をどう捉え、その将来をどう予測していたかを辿り、「世紀に一度の不況」と形容される現在の経済状況下において、資本主義の前提となるヴィジョンの再構築を提起しています。
彼らの分析に概ね共通しているのは、企業における「所有と経営の分離」が進んだ結果、従来想定されていた「産業資本主義」とは別に「金融資本主義」が発展、拡大し、産業と金融の二つの価格決定メカニズムがそれぞれ別個に働くようになった。その結果、資本主義は制度的な不安定性を常に内在するようになり、従来の自由主義の考え方では必然的に自己破壊の方向に向かう。その自己破壊は一面で資本主義を発展させる原動力となるものの、やがては資本主義そのものを破壊してしまうため、それを抑制する何らかの手段、多くの場合政府の役割が必要になる、というものです。
しかし、自己破壊の作用を抑制するための政府の役割について論じると同時に、それが有効に作用するために彼らが重視しているのは、合理的とされる経済学や科学が成立する前提として、活動主体である人間が共有すべきビジョン(非合理的な先入観)についてです。何故なら、政府がある経済政策を打つにしても、どういうビジョンを描いているかによって打たれる政策は変わり、ビジョンを誤ると経済政策は資本主義の自己破壊作用を抑止するどころか、ますます発展させてしまう可能性さえあるからです。
例えば日本の経済史で、ビジョンを誤ったために思惑とは反対の結果を生んでしまった例として、1920年代終わりの井上財政、1950年代空半ばのドッジライン、1980年代のいわゆるバブルなどが挙げられます。井上財政は明らかなデフレであったにもかかわらず緊縮財政を実施しデフレをさらに悪化させてしまった例。ドッジラインはインフレが収束しつつあり十分金融が引き締まっていたにもかかわらずさらに金融引き締めを行い景気を悪化させてしまった例。80年代後半はインフレ傾向にあるにもかかわらず金融緩和を行い(これはアメリカからの要望があった事も否めませんが)、結果としてバブルを生み出してしまった例です。最近では明らかにデフレ傾向にあった90年代半ばに緊縮財政を推し進め、いわゆる「失われた10年」(「失った10年」というべきでしょう)という停滞を生んでしまった例があります。
彼ら巨人たちがビジョンの重要性を説いた当時と同様に、なぜ今、短期的には景気回復に結びつくとも思えないビジョンの構築をわざわざ問い直さなければならないのでしょうか。それは欧米はじめ各国がこの10年こぞって推し進めた金融偏重の経済モデルの破綻が誰の目にも明らかになっているにもかかわらず、未だにそういうモデルを目指した市場万能主義の先入観(ビジョン)は消え去っていないように思えるからです。景気回復は焦眉の急ではありますが、短期的に効果を挙げそうな経済政策にばかり血道をあげていても、ではなぜそうした政策を行い今後どういう経済モデルを目指すのかが共有されなければ、結局「市場か政府か」というような単純かつ硬直的な二元論を脱することができず、「これからの10年」をも失う可能性があるからです。国家百年とは言いませんが、せめて国家二十年くらいの計は立てられるのではないかと思います。
「失う前の10年」、つまり90年代半ば頃ですが、当時、バブル崩壊後の経済低迷は日本経済の構造的欠陥が原因であるとして(この頃は「構造改革」ではなく「規制緩和」と呼ばれていました)、「日本異質論」や「1940年体制論」が盛んに叫ばれていました。僕が卒業後就職した経営コンサルタント会社においても社内報であるパートナー(共同経営者)が当時ITバブルに沸き返るアメリカ経済の繁栄は80年代のサプライサイドの成果である」と賞賛し、「グローバルスタンダード」である「アングロ・サクソンモデル」に日本企業を変革しなければならないと強調していたように記憶しています。
しかし、資本主義の普遍的モデルであるはずの「アングロ・サクソンモデル」でさえも、今やその盟主たるアメリカが大手金融機関を次々と国有化し、巨額の公的資金を注入するなど普遍などではないことは明白となりました。90年代初めに認知されつつあった資本主義モデルの多元性、つまり資本主義を機能させる制度は唯一普遍のものなどなく、その国の歴史、文化、慣習などを背景として様々なモデルが存在しうるという、冷静になれば当たり前の議論が再び脚光を浴びるようになるでしょう。経済システムが歴史、文化、慣習などを反映したものである以上、形成されるビジョンは必然的にナショナルな性格を帯びます。これからの時代はネイションを基盤としたビジョンを描くことができるかどうかが繁栄の鍵となることでしょう、なぜならスーパーパワーとしてのアメリカの存在が急速に低下した今日、各国はそれぞれ国益の拡大を図って鎬を削ることになるわけですが、その中で短期的な経済利益だけを国益と捉えて右往左往する国と、自らの国柄を反映して長期的戦略で意思決定を行う国とでは、その勝敗は明らかだからです。
経済モデルの前提としてのビジョン、ビジョンの前提としてのネイション。よってネイションは経済モデルの前提であるという関係で、本書は著者の前作である「
経済はナショナリズムで動く」や前々作「
国力論」と繋がっていきます。
繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした
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