窪田恭史のリサイクルライフ

古着を扱う横浜の襤褸(ぼろ)屋さんのブログ。日記、繊維リサイクルの歴史、ウエスものがたり、リサイクル軍手、趣味の話など。

K君の合格祝い

2011年11月24日 | 講演メモ


  2011年11月23日、8月に受講した、とあるセミナーで一緒になった高校生のK君から無事第一志望の大学に合格したとのお知らせをいただき、数人のセミナー仲間と共に彼の合格祝いをしました。ジュースはおろか、烏龍茶さえ飲まない真面目なK君です。われわれ大人は遠慮なくビールでしたが...

  縁あってセミナーの2日間を彼と一緒にすごしたのですが、K君の人となりには大いに感心させられました。今回はそのことについて少しお話させていただきたいと思います。

  全国屈指の柔道強豪校に通うK君は、当然高校日本一を目指す柔道部の一員として、高いレベルで柔道に打ち込んできたのですが、高校2年生の時、つまり1年前、突如病気のために柔道を諦めなければならなくなったのだそうです。

  それまで柔道に人生を賭けてきたK君が弱冠17歳で直面した挫折の大きさは想像するに余りあります。普通であればそこで腐ってしまっても不思議はないのですが、彼は恩師の勧めもあり、自分が柔道をできない分、裏方として同期の仲間達が全国制覇を目指す手助けをしたいと考え、高校最後の柔道生活を庶務として全うすることを選択したのだそうです。

  仲間を裏から支える過程で、K君は将来も人を支える仕事がしたいと考えるようになり、看護師になることを決意しました。8月のセミナーで初めてお会いした時、彼は看護師になるという夢を叶えるため、湘南台にある大学の看護学部を目指して勉強しているのだと話してくれました。そして、高校生にとって決して安くはないセミナーも自分で見つけ、自費で参加。その理由は、若くしてざまざまな年齢層、ざまざまな性格の人たちと接しなければならない看護師という仕事の性質上、より人のためになる看護師となるために、少しでも対人スキルを磨いておきたいからというものでした。

  とはいえ、高校3年生の8月です。やはり普通であれば、大学受験の忙しい時期でなくても、大学に入ってから受講すればいいのではないかと思うところです。しかし、彼にとって大学は目指すものではなく、看護師になるために入るべきものであり、全ては看護師になるために自分が必要と考えるものを実行に移しているだけなのでした。僕が大学に入った年に生まれ、20歳も年の離れたK君ですが、これには恐れ入りました。僕の手元には、僕がちょうど彼と同じ位の歳だった頃の日記が今でも残っているのですが、翻って僕の何と幼稚だったことでしょう!

  セミナーでは、パートナーと1年後再会したという設定で、1年後の近況について紹介しあうというワークがありました。そこでK君は僕に第一志望の大学に合格し、学生として生活している姿を明確に描いて見せました。それから3ヶ月、K君から「大学に合格しました」という連絡が来たのです。

  一点の曇りなく、自分を信じきる心。将来に対する明確なビジョン。きっと誰からも可愛がられるであろう、屈託のない笑顔の奥にある、一流の場で磨かれた意志の強さ。挫折と正面から向き合うことで培われた人生哲学。本当に彼からは学ぶべきものばかりの2日間でした。繰り返しになりますが、本当に自分は彼より20年も長く生きてきたのかと思います。

  K君、心からおめでとう。そして、これからもよろしく。

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鉄道博物館

2011年11月21日 | その他


  2011年11月19日、オープン4年にして初めて鉄道博物館に行ってきました。



  生憎の天候ということもあったかと思いますが、予想していたほど混雑しておらず、3時間ほどじっくりと見て回ることができました。



  詳細は上の動画にまとめましたが、大人も童心にかえり、結構楽しめました。およそ140年の歴史を持つ日本鉄道史を彩った往年の名車をはじめ、巨大ジオラマやシミュレーター、鉄道の仕組みがわかる体験型学習コーナーなど、なかなか充実しています。



  食事は、併設のレストランも良いですが、せっかくですから売店で購入できる各地の駅弁がお勧め。客車の中で旅気分を味わいながら食べることができます。写真は仙台駅の駅弁「はらこ飯」、こんなに本格的だとは思いませんでした。お勧めです。

鉄道博物館

埼玉県さいたま市大宮区大成町3丁目47番



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皇南パン

2011年11月16日 | 食べ歩きデータベース


  1939年(昭和14年)創業、慶州の名物らしいです。もの凄い人だかりと、これを買い求める車がひきもきらず。大人気であることが窺えます。箱をみると「ファンナムパン」とあるので、「皇南パン」というのは訳語ではないようです。



  店内では、皇南パンを作っている所を見ることができます。あんこを小麦の薄皮で包み、オーブンで焼き上げたもので、パンというよりはお饅頭に近いものですね。サイズもヨーヨーより少し小さいくらいなので、小腹を満たすにはちょうどよい大きさです。普通に美味しい。



  お土産で持ち帰った場合、電子レンジではなくオーブンで温め返した方が美味しく食べられると思います。

皇南パン

慶尚北道 慶州市 皇吾洞 347-1

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瞻星台

2011年11月15日 | 史跡めぐり


  「星を見る台」の名の通り、天文台と考えられています。善徳女王(在位632年~647年)の時代に造られました。東西方向から写真を撮っただけですので、写真では分かりませんが、真南方向に窓があいています。

  これまでご紹介してきた、芬皇寺皇(黄)龍寺の塔、そしてこの瞻星台はいずれも善徳女王の治世に造られました。

  壮大な仏教寺院はそれだけで先進文明の象徴であり王朝の権威を示すものになりますが、天文も農耕文明には不可欠であり、これらの物が善徳女王の時代に一挙に造られたことは、新羅が先進文明の摂取と集権化を急いでいたことの表れではないかと思います。後に朝鮮半島を統一することになる新羅ですが、この時代は北からは高句麗の、西からは百済の圧迫を受け、かつ朝貢していた唐(「貞観の治」で有名な太宗・李世民(在位626年~649年)の時代にあたります)からの支援もままならず、苦しい立場に置かれていました。そうした背景を踏まえると、これらの遺跡がより一層興味深くなります。

  なお、唐という覇権主義的性格をもつ強大な帝国の成立が、東アジアの周辺国にもたらしたインパクトの大きさについては、以前「大宰府政庁跡」で述べたとおりです。

瞻星台

慶尚北道 慶州市 仁旺洞 839-1

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大陵苑(天馬塚)

2011年11月14日 | 史跡めぐり


  慶州の皇南洞にある古墳群です。新羅時代の王族の古墳群と推定されています。多くは円墳ですが、中には皇南大塚のように二つの円墳がくっついた双子山型のものもあります(写真を撮り忘れました)。



  こちらは、国立慶州博物館に展示されている、皇南大塚から出土したとされる副葬品のレプリカ。女性の墓だったとされる北陵からは金冠、首飾り、腕輪などが出土し(上写真左)、先に造られた男性の墓とされる南陵からは武器類が出土したといわれています(上写真右)。考古学を専攻する現地の人の話では、後から足された北陵の方が大きく、副葬品も豪華であることから、女性の方が王族に連なる系譜ではないかとの説があるということです。



  天馬塚。1973年、皇南大塚を発掘するための試掘としてこの古墳を掘ったところ、中から驚くべき手付かずの副葬品が発見されたそうです。その中から白樺の皮に描かれた伝馬図が発見されたことから、天馬塚の名がつけられました。



  こちらが国立慶州博物館に展示されている、天馬塚の実物。良く見ると、天馬というより麒麟のように思えます。こうした経緯から、天馬塚は大陵苑の中で唯一、中を見学できるようになっています。5世紀末から6世紀初の古墳と見られ(日本も古墳時代中期の終わり頃にあたります)、竪穴式の積石木槨墳であったことが、盗掘を免れた要因と考えられています。



  味鄒王陵。新羅第13代味鄒王(在位262年~284年)の陵墓で、唯一被葬者が分かっています。新羅の王統には朴・昔・金の三姓があり、味鄒王は昔氏新羅時代に唯一、金氏から出た王です。一念の『三国史記』のおける味鄒王の評価は高く、名君であったようです。金氏として初めて誕生した王の陵墓であることから、この陵だけは門塀で囲われています。

大陵苑(天馬塚)

慶尚北道 慶州市 皇南洞 89-2

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上野隆博さん

2011年11月13日 | 講演メモ
  2011年11月11日、ニューヨークを中心に世界で活躍するダンサー、演出家である上野隆博さんのダンスパフォーマンスとお話を拝聴する機会がありました。

Showtime at the APOLLO TAKAHIRO DANCE


  僕はダンスのことは全く分かりませんが、素人目に見ても観客の度肝を抜く、素晴らしいパフォーマンスでした。胸骨や肩甲骨周りの驚くべき柔軟な動きもさることながら、全身を躍動させつつ、それでいて体軸はまるで宇宙から地球の中心に向かって一本の線が通っているのではないかと思われるほど、真っ直ぐにキープされています。シアトルマリナーズのイチロー選手のバッティングや、中国拳法の一派である太気拳の動きに似たものを感じました。もし、上野さんが空手か剣術をされていたら、恐らく相手は打っても上野さんがいない、あるいは気づかないうちに間合いに入られているというようなことになるでしょう。



  さて、ご講演ではダンサーになったきっかけから、世界の第一線で活躍するようになるまでの経緯、そしてこれからの展望についてお話いただきました。全く知らない分野のことでも、本物のお話は、聴く者の魂を揺さぶります。本当に時間を経つのを忘れるほど、のめり込んでしまいました。以下では、自分なりにまとめたメモを頼りに、ご講演の内容についてご紹介したいと思います。

1.ダンスを始めたきっかけと渡米まで

  上野さんは1981年生まれ。ダンスを始められたのは18歳と意外にも遅く、その動機は学校でも目立たない存在であるというコンプレックスの克服と、自分の力で何かを創造したいという強い思いにあったそうです。その結果、選択したのがたまたま当時「格好いい」と思ったダンスだったとのこと。大学在学中の4年間はダンスにあけくれ、自分なりにオリジナルのスタイルを確立していました。大学卒業を迎え、周囲のダンス仲間が次々と就職を選択していく中、上野さんは打ち込んだダンスを何の結果を残すこともなく手放すことに抵抗を感じ、ダンスの本場であるアメリカへ渡ることを決意されました。

2.アメリカの壁から学んだこと

  2004年、ニューヨークに渡られた上野さんは、マイケル・ジャクソンやジェームス・ブラウンを生んだエンターテイメントの殿堂、アポロシアターのオーディションに挑戦します。1,000人中、合格できるのは300人程度、しかも本場の黒人達に混じり、唯一言葉も文化も違うアジア人としての挑戦でした。自分のオリジナリティにはある程度自信をもたれていた上野さんでしたが、初めて受けたオーディションの結果は惨めなもので、4人いた審査委任のうち3人から「君のダンスはHIPHOPではない」と酷評されたそうです。ただ一人の審査員だけが「HIPHOPではないかもしれないが、彼のダンスは面白い」と評価してくれ、ギリギリの選出であったようです。

  しかし、この結果を「3人の審査員から否定された」ととらず、「少なくとも1人の審査員は分かってくれた」と受け止めたところが、上野さんの常人ならざるところ。本場で壁に突き当たり学んだことは、「自分のダンスは自分の思いを伝えようとするばかりで、相手を見ていなかった」ということでした。そのことを悟った上野さんは、ニューヨークのハーレムに居を移し、彼らのHIPHOPを吸収しようと努力されました。しかし、それでも自分は彼らと同じにはなれないということに気づいたそうです。

3.エンターテイメントは心のやりとり

  黒人ダンサーの真似をしたところで、所詮それは真似に過ぎません。かといって、オリジナルだけでも駄目。上野さんが導き出した結論は、「同じにはなれないかもしれないが、共通項はあるはず。大切なのは、どうすれば相手に想いを伝えられるか、オリジナルを受け入れてもらうことができるか。それには表面的なテクニックだけでなく、相手の心理面も考慮しなければならない」ということでした。

  具体的には、テクニックを見せるだけでなく、相手の心をつかむ仕掛けをパフォーマンスの中に織り込んでいくということです。例えば、冒頭の動画の例でご説明します。まず前提としてあるのは、アポロシアターにおいて上野さんは知名度の低い日本人、要するに「よそ者」であるということです。冒頭、日本人らしく空手のような動きから入ります(かつてシンクロナイズドスイミングでもイントロを平安二段という空手の型から入ったパターンがありました)。しかし、今時オリエンタリズムだけでウケるほど甘くはありません。そこで、最初は観客の好きなHIPHOPの曲を使い、かつムーンウォークなど、観客が慣れ親しんだダンスで一体感を演出します。それでいながら、ムーンウォークも多少アレンジして退屈させないようになっています。そして徐々にオリジナルの要素を増やし、自分らしさ、日本人らしさをアピールしていきます。

  やがて、スーパー・マリオ・ブラザーズの曲になりますが、これにも意味があります。ニンテンドーは彼らにとっても馴染みのあるもの。しかしそれは、日本のオリジナルであり、あくまで日本のイニシアチブによってアメリカ人と共有できるものであるということを示しているのです。

  マリオによって観客を自分のペースに巻き込む。そうした下地を作った上で、最後は自分の好きなように演技し、ラストを一礼で終わります。礼で終えたことの意味は、もうお気づきと思いますが、日本人であるということが第一、それに礼を入れることによって、観客が拍手し盛り上がる余韻の間を入れるという意図がありました。この「間」の呼吸というのも日本人らしいところでありますが…

  以上のように、オリジナリティに磨きをかけつつ、観客に阿ね、同化しようというのではなく、異質であることを受け入れてもらう工夫をすること、相手にいかに喜んでもらうかというエンターテイメントの原点に立ち返ることによって、上野さんは2005年、「Showtime at the APOLLO」で1位を獲得、その後9週連続1位という金字塔を打ち立てました。

4.当たり前を当たり前にはできないほど徹底する

  アポロシアターで実績をつくり、上野さんはプロ・ダンサーとしての道を歩み始めますが、ここでまた壁にぶつかります。それは英語がまだ十分には話せなかったこともありますが、ダンスが我流であったため、個人の枠を超えて活動するようになった時、オリジナルだけでは通用しなかったためです。そこで上野さんは、3年間、バレエやダンスを基礎から学び直しました。日本では能の世界の言葉に「守・破・離」というものがありますが、同じように真にオリジナルを輝かせるには、やはり強固な基礎を持っていなければならないということなのでしょう。

  そうした困難の克服を経て、2009年、上野さんはマドンナのバックダンサーとして世界ツアーに参加します。上野さんがマドンナから学んだことは、「ベスト・パフォーマンス=ベスト・リハーサル」、つまり完璧な結果を残すために、当たり前と思える準備を誰にもできないほど徹底してやり抜くということだそうです。そして、世界に活躍の場が広がれば広がるほど、自分が日本人であることを意識し、周囲とは違う存在であることを意識せざるを得なかったといいます。これはイチロー選手も同じ事をいっていました。しかし、違うことを意識するからこそ、日本人として、また一個人としてのアイデンティティにこだわり、それを受け入れてもらえるように努力ができる。また、違うことを認識するというは、それゆえに相手に対する敬意も払えるということでもあります。

5.これからの夢

  強烈な個性で世界と対峙し、Newsweek誌で「世界が尊敬する日本人」にも選ばれた上野さんですが、30歳を迎えられた今、ダンスを通じてさらに世界を広げて行きたい、そしてやがては後に続く後輩達が自分を超えていけるよう、常に退路を絶って先鞭をつけて行きたいとおっしゃっていました。経済産業省の「Cool Japan Project」にも参加されている上野さんですが、こちらから日本のエンターテイメントやアイデンティティを発信するだけでなく、世界の目をこちらに向けさせたいと夢を語っておられました。

  ご講演が終わり、魂を揺さぶられた聴衆の拍手は感動の波動となって会場を包み込んだように感じました。終了後、皆さんが「会場が暑い」と口々に言っておられましたが、この高揚感がその原因だったのではないかと思います。

  翻って、日々の生活の中で、自分が自分であることにどこまで徹底できているでしょうか?

  「もっとやれるはずである」、そう決意を新たにした次第です。

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芦屋 串乃宴-横浜馬車道②

2011年11月12日 | 食べ歩きデータベース


  以前ご紹介した、横浜馬車道そばにある「芦屋 串乃宴」に久しぶりにお邪魔してきました。芦屋スタイルの上品な、たくさん食べても胃にもたれにくい串揚げです。



  実は前回お邪魔した時は、既に夕食を済ませた後だったので、あまり食べられなかったのです。その反省を踏まえ、今回はきちんとお腹をすかせて臨みました。



  揚げ物には焼酎など蒸留酒がいいですね。



  串揚げを一本一本ご紹介していると、膨大な量になってしまいますので、動画にまとめることにしました。一部食べるのに夢中で写真を撮り損ねてしまったものがありますが、ご参考になればと思います。



  今回目に止まったのが、動画の中にもでてくる、「天使の海老」。天使の海老とは、フランス領ニューカレドニアで養殖される高級海老のことで、上の写真のように透き通った姿をしています。殻が柔らかく、身は揚げても車海老ほど固くならず、ふわっとした食感です。ですから、ボイルしてサラダやマリネなどに良く合うのではないかと思います。白ワインと相性が良さそうですので、やはりフランス人好みに作られているのではないかと思いました。噛むほどに味のある車海老と食べ比べてみるのも面白いでしょう。



  〆はいちごシャーベットでさっぱりと。

芦屋 串乃宴

横浜市中区相生町4-66
第15須賀ビル2階



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雁鴨池/臨海殿址

2011年11月11日 | 史跡めぐり


  雁鴨池は、新羅の王城があった月城のすぐ東にあります。

  新羅時代の674年(文武王14年)、三国統一を成し遂げた文武王が造成した別宮の址です。元々、月池と呼ばれていましたが、朝鮮時代に廃墟と化し、そこに雁と鴨が飛来したことから、雁鴨池と呼ばれるようになったそうです。僕が訪れた時も、薄っすらとした曇り空に雁の群れが飛んでいて、何となく寂しげな雰囲気がありました。



  新羅時代の最盛期に、王族や貴族の宴会の場として、また王子が住む東宮として整備され、現在は臨海殿を初めとして、一部の建物が再建されています。法隆寺に観られるようなエンタシスの柱が、この時代の様式を感じさせます。



  復元された臨海殿から臨む雁鴨池。



  月精橋の模型。月精橋は760年(景徳王19年)に造成された、大規模な回廊式の楼橋で、王宮である月城に出入りするための通路でした。現在、復元作業が行われており、上の写真は復元のために作成された模型です。



  少し見難いですが、最盛期はこのようであったろうと推測される復元模型です。



  前述のように、ここは君臣の宴会や賓客をもてなす場として使われていたと考えられ、高麗時代の931年、敬順王が太祖王建のために、臨海殿で宴会を開いたという記録があります。実際、池の発掘調査では、当時使われていた土器や箸、装飾品、瓦などが出土しており、それらのレプリカが展示されています。中でも面白いと思ったのは、上のサイコロのような遊具。ちょっと見てみますと、サイコロの面にはそれぞれ「三杯飲む」とか「詩を暗誦する」といった罰ゲームの内容が刻まれています。今も昔も宴会でやることは大して変わりませんね。

雁鴨池/臨海殿址

慶尚北道 慶州市 仁旺洞 26

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第14回YMSを開催しました

2011年11月10日 | YMS情報


  2011年11月9日、第14回YMSを開催しました。



  今回は、「成果創出のための仮説検証型マネジメント~ものごとをいかに推進・管理していくか」と題して、アーンスト・アンド・ヤング アドバイザリー株式会社の榎本義広さんにご講義いただきました。実は彼とは社会人1年目以来、14年のつきあいなのですが、それぞれ異なるバックボーンを持つ人たちが、持ち味や人とのつながりを活かしてリレーしていくのがYMS式勉強会の大きな特徴でもあります。

  さて、講義の内容は日々のマネジメントにおける目標や計画の立て方、PDCAサイクルの運用方法、さらに活動を発展させていく方法など、短い時間の中ですが、濃いものとなりました。

  フレームワークそのものは当社でも導入されているものですが、こうして改めて仔細に検討してみると、事実に基づいた判断ができているか、現象と課題を混同していないか、課題を構造化し本質まで掘り下げることができているかなど、どの程度徹底できているか反省点も多いです。このことは、目標管理のみならず、営業活動や交渉事、日常的なコミュニケーションにいたるまで、あらゆる点について言えると思います。



  内容が盛りだくさんだった分、参加者も話し足りなかったのでしょうか。終了後の懇親会も大いに盛り上がりました。

  次回は12月14日(水)、忘年会となります。

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皇(黄)龍寺跡

2011年11月09日 | 史跡めぐり


  新羅時代の553年(真興王14年)から93年の歳月をかけて造営された、新羅時代最大・最古の寺院跡。裴勇俊(ぺ・ヨンジュン)お勧めのスポットなのだとか。

  実際に現地に立ってみると、大変大きな寺院であったことが分かります。1976年に行われた発掘調査では、伽藍の総面積80,928㎡、沼地を埋め立てて台地とし、その上に造営されたことが明らかになりました。



  昔、日本史で伽藍配置の変遷を覚えましたが、上空からの写真で伽藍配置を見ると、一塔一金堂で、中門・塔・金堂・講堂が南北一直線に並ぶ、いわゆる飛鳥寺式伽藍とほぼ同じ配置であることが分かります。飛鳥寺の建立は6世紀末なので、時代も一致します。

  皇(黄)龍寺という名前の由来は、新羅の真興王が月城(新羅の王城)の東にあたるこの地に新しい宮闕(きゅうけつ:宮城のこと)を造営しようとしたところ、黄龍が現れたことから寺院に作り変え、皇(黄)龍寺と名づけたという故事によります。高麗時代の1238年(高宗25年)、モンゴルの侵入を受け焼失。



  塔の跡。日本では大化の改新があった、新羅時代の645年(善徳女王14年)、百済の有名な匠人、阿非知を招請し、九重の塔を完成したとされています。



  礎石の数から見ても、非常に巨大な塔であったと推測されます。

皇(黄)龍寺跡

慶尚北道 慶州市 九皇洞 320-1

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