窪田恭史のリサイクルライフ

古着を扱う横浜の襤褸(ぼろ)屋さんのブログ。日記、繊維リサイクルの歴史、ウエスものがたり、リサイクル軍手、趣味の話など。

ファイバーリサイクル報告会に行ってきました

2010年02月28日 | リサイクル(しごと)の話


  昨日、通常の組合さんですと総会にあたる、ファイバーリサイクルネットワーク(以下、FRN)さんの活動報告会および交流会に出席させていただきました。

  当社は1989年の設立準備会の頃からお手伝いをさせていただき、今日に至っています。

  FRNさん(服部孝子代表)は神奈川県下で古着の回収活動や古布を使った小物作り(当ブログでも何度かご紹介させていただいています)などを通じ、リサイクルについての情報発信、地域のコミュニティー作りや布を大切にする文化の普及にご活躍されています。

  1992年設立で、来年で20年目を迎えるFRNさんは、当時古着や古布を集める仕組みなどなかった時代に日本で初めてファイバーリサイクルという名前を冠し、我が国で最初に古着・古布を集める活動を始められた団体であり、今や「ファイバーリサイクル」という言葉は全国に普及しています。

  自立と自律をモットーに、自分たちの力で20年間も活動を続けてこられたこと自体、敬服の外はないのですが、そればかりでなく、今や風物詩ともなった年2回の着物フェアーなどを通じた収益を、世界の女性の地位向上のための支援や毎年のように起こる災害義援金に当てるなど、布を通じてその名が示すとおりの「つながり」を世界に広げていらっしゃいます。この18年間の活動で、それらの支援実績は何と1,000万円を超えています。

  自分たちの思いを20年間保ち続け、実践するのは並大抵のことではないと思います。激しい時代の変化の中でも自分たちの立ち位置を見失わず、明るく元気に活動を続けておられるFRNさんから学ぶことの多かった一日でした。

  繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした

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ISO14001の審査が終わりました

2010年02月26日 | リサイクル(しごと)の話


  今日で4日間にわたる、ISO14001の更新審査が終わりました。認証取得して3年が経過し改めて感じたことですが、目標を設定し観測することの意義です。



  上のグラフは当社から排出された一般廃棄物と産業廃棄物の排出量変化を2007年度を100として比較したものですが、2009年度の着地予想は一般廃棄物が12%減、産業廃棄物に至っては92%減と、3年間でそれなりにEMSを運用した効果が現れた感じです。尤も、排出量自体、元々少ないということもあるのですが。

  ダイエットでも体重を計測し始めることによって、不思議と数値が変化し始めることをお感じになられたことはありませんか?観察し、意識の俎上に上ることで行動が変わるだけなのかもしれませんが、あたかも観察することによって数字が動き始める、まるでシュレディンガーの猫のような感覚をおぼえるときがあります。何事においても、意識的に観察することは大切なのだと感じた4日間でした。

  繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした

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お前んごつ、何の役にも立っとらん奴はクズじゃ

2010年02月25日 | 講演メモ
 福岡の「味処 なか野」でたまたま名刺交換をさせていただいた、三澤卓洋さんという方から、心に残るお話を伺いました。

 三澤さんは昭和23年、大分の農家に7人兄弟の末っ子としてお生まれになりました。子供時代の生活は決して楽とは言えず、次男のお兄さんが親代わりとなり、大家族を支えておられました。

 そのような環境ですから、三澤さんは衣類にしろ生活用品にしろ、およそ新品という物を買ってもらったことがありませんでした。そんなことからある時、お兄さんと「何かを買ってくれ」ということで口論になったそうです。

 言い争いの果てに、三澤さんは思わず「兄貴は俺のことを廃品ぐらいにしか思っていなのか!」(窪田注:方言が難しいので言葉を直しています)と口答えをしてしまいました。するとお兄さんは、

 「廃品は、社会のため、人のために役立ち、その使命を終えたから廃品になれたんだ。お前みたいな何の役にも立っていないような奴はクズだ」と烈火のごとく怒り、三澤さんは大いに殴られたのだそうです。

 三澤さんは成人して警察官となられましたが、「警察官は社会や県民のため...」という言葉を聞くたびに、その時のお兄さんの言葉を思い出されるのだそうです。そういえば三澤さん、「なか野」でもお酒の席でしたが「社会のため、県民のため」と繰り返しおっしゃっていました。

 以前、このブログの「日本語の中の「ぼろ」」の中でも少し書いたことがありましたが、「ぼろ」・「くず」・「廃品」など、私たちが何気なくそれらの言葉を口にするとき、無意識の内に蔑むようなニュアンスを含んでいます。しかし突き詰めてみると、古い物や先人が築き上げてきた社会の上で今日の繁栄を謳歌している者に、果たして三澤さんのお兄さんがおっしゃったように、世のため人の為に役立ってきた廃品を蔑む資格があるのだろうか、と考えさせられてしまいます。

 話は変わりますが、衣類について三澤さんから伺ったもう一つ心に残った話をご紹介したいと思います。

 三澤さんは警察をご退職された後、現在は民間企業にお勤めでいらっしゃいますが、着ている作業服に警察時代の思い出を縫い付け、若い頃のエネルギーを喚起していらっしゃるのだそうです。以前、このブログの「繊維リサイクルに関する消費者の意識調査」でお話させていただいたことにも繋がりますが、やはり衣類というものには、その方の思い出や誇り、時には人生そのものがこもり、それによって時間を越え、人の行動まで変容させてしまう力があるのだ、としみじみ感じました。

 繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした

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正華さん直売「好」の、きのこまん

2010年02月19日 | 食べ歩きデータベース


  有限会社正華さんの直売店、「好」(ハオ)で前から気になっていた「きのこまん」。何と8種類ものきのこを贅沢に使った逸品です。



  予想どおり、グルタミン酸がたっぷり感じられる中身。豚肉を使用していないのですが、ごろっと入ったマッシュルームの食感が、それを感じさせない食べ応えを演出しています。逆に豚肉の脂肪がない分、胃に優しく、大きさの割りにあっさりと食べられるのが嬉しい。

  「好」さん最大の特徴だと僕が勝手に思っている、饅頭の皮の甘みとモチモチ感も十分。僕も含めて、「中華まんの大きいのはちょっと...」と敬遠されている方、是非おすすめです。

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2010年同窓会がありました

2010年02月15日 | その他


  土曜日に復活後5年目となる恒例の同窓会が、横浜駅西口、「蒼の風」にてありました。

  今年は例年に比べ人数は少なめでしたが、25年振りの再会となる同窓もいて盛り上がりました。

蒼の風

神奈川県横浜市神奈川区鶴屋町2-15 CRANE YOKOHAMAビル5F



  繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした

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馬車道 韓国料理 幸喜屋 2

2010年02月12日 | 食べ歩きデータベース


  先月ご紹介した、関内馬車道にある韓国料理のお店、幸喜屋さん。あれからずっと気になるメニューが頭から離れず、昨日再び行ってきました。



  スタッフが全員体育会系という面白いお店。ソフトドリンクに何とプロテインシェイクがあるところは何とも幸喜屋さんらしいところ。



  そして今回はこちらも体育会系。当社金沢工場の佐藤君(剣道二段)と壁谷澤君(空手三段)です。呑むビールの量も体育会系でした。



  さて、今回一番のお目当ては、何といっても注文を受けてから麺を打つという冷麺。ただ、この日は温暖な横浜でも雪になるのではないかというくらい冷たい雨模様。冷麺はあきらめて温麺にすることにしました。

  果たしてこの麺ですが、チヂミの時と同様、今まで僕が知る冷麺とは全く次元を異にする、新しい食感でした。強いて表現するなら、白滝に日本そばの香りをほのかに付け加えた感じです。スープもスパイシーな、一般的な韓国温麺とは違うものでした。



  前回に引き続き、海鮮チヂミと上の写真は鯛チヂミです。表面のサクッとした食感が本当にクセになる、絶対お勧めの一品です。鯛チヂミも普通「鯛~」というと、一体どこに鯛が入っているのか分からないようなのがよくあるパターンですが、この鯛チヂミは鯛の身がしっかりと入っていて驚きます。

  この他、新鮮なレバーや牛肉などの刺身は前回の記事でご紹介していますので、そちらもご覧ください。

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インビクタス(INVICTUS)

2010年02月10日 | レビュー(本・映画等)
  かつて映研に籍を置いていた人間とはとても思えないようなことですが、実に10年ぶりに映画館へ行ってきました。午前中に話題のアバターを観て、その後1時間半ほどの間をおいて表題のインビクタスを鑑賞するという少々ハードなスケジュール。



  27年に及ぶ投獄生活から釈放され、1994年に南アフリカ大統領に就任したネルソン・マンデラは民族協調と和解を呼びかけ、アパルトヘイト撤廃後の黒人と白人が団結した新しい国家建設を目指します。そして国の団結と将来への希望を象徴するものとして、1995年に南アフリカで開催されたラグビーW杯における南アフリカ代表、スプリングボックスの優勝に期待を寄せます。

  ラグビーは南アフリカで最も盛んなスポーツの一つですが、白人によるスポーツと見なされ、当時の南アフリカの黒人にとってスプリングボックスは「アパルトヘイトの象徴」でした。そのスプリングボックスは、アパルトヘイトに対する国際的非難の高まりにより国際試合から締め出され、弱体化していました。黒人政権の誕生で被支配層に転落することを恐れていた白人にとって、スプリングボックスの弱体化はやはり自分たちを象徴する存在であったかもしれません。

注)先日Jスポーツで1995年のW杯決勝を再放送していましたが、実際のスプリングボックスは92年の対外試合復帰後、かなりチーム状態を回復し、優勝候補の一つとなっていたようです。ただし、当時のオールブラックスが圧倒的に強かったことは事実です。

  マンデラ大統領は自国で開催されるW杯を機に、そんなスプリングボックスを国を挙げて応援することで、新政権が目指すものが白人に対する復讐でも黒人による独裁でもなく「人種間、民族間の協調と団結による一つの祖国」であることを示そうとします。そして主将のフランソワ・ピナールとスプリングボックスも「チームと祖国の団結」によってW杯の優勝を目指します。そして、雨中の準決勝ではフランスを19vs15、決勝では圧倒的な攻撃力を誇るニュージーランドを15vs12で破り、奇跡的とも言える優勝を成し遂げるのです。

1995年、南アフリカW杯ダイジェスト


ジョナ・ロムー


映画中でもスプリングボックス最大の脅威として登場するニュージーランド、オールブラックスジョナ・ロムー選手(当時20歳)。当時の映像に見る、その圧倒的なスピードとパワーは映画以上の迫力です。

  映画では政府職員に柔らかい口調で"Sir"と呼びかける謙虚な物腰。黒人主体の国家スポーツ評議会がスプリングボックスのチーム名とエンブレムを廃止しようと決定した時、自ら説得に赴いて彼らを不承不承ながらも納得させてしまう信頼感。静的だが己の信じる道に対する確固たる意思を感じさせるマンデラ大統領のカリスマ性を名優モーガン・フリーマンが見事に表現しています(フランソワ・ピナールを演じたマット・デイモンも良かったです)。

  27年もの間投獄生活を強いられていた人間が権力の座について、復讐ではなく「赦しと和解」を訴えるなど並の人間にできることではないと思います。しかもそれは薄っぺらな博愛主義などではなく、そうすることが唯一、南アフリカを発展させる手段であるというプラグマティクな認識にもとづいていたがゆえに長年虐げられてきた大多数の黒人から(心から納得はしていなかったでしょうが)支持を得られたのでしょう。

  実際、マンデラが投獄された1960年代初め、アフリカでは多くの国が植民地からの独立を果たしましたが、それらの国々で次に起こったことは軍事独裁政権による大虐殺であったり、あるいは黒人同士による泥沼の内戦といった状態でした。マンデラは恐らくそういったアフリカの実情をつぶさに観察し、一方獄中という極限生活の中で自らを鍛え、復讐心を律して、祖国が発展するためには黒人と白人が和解し、団結するしか方法はないとの結論に至ったのではないかと思われます。

 それはマンデラが獄中で心の支えにしていたという詩、”INVICTUS(インビクタス)”の中に表れています。

 激しい怒りと涙の彼方には
 恐ろしい死だけが迫る

 しかし、言うは易けれども行うは難しです。映画でも描かれているように、マンデラの主張は実の娘でさえ受け入れることができていませんでした。それでも揺るぎない確固たる信念は、同じく”INVICTUS(インビクタス)”の中でこう表現されています。

 私は我が運命の支配者
 我が魂の指揮官なのだ

 マンデラ大統領が直面したのとは比べようもないほど小さな課題であってさえ、このような揺るぎない精神を保つことは難しい。それが僕の現実であるからこそ、なおさら映画に感動しました。もう一度観に行きたいですね。

自由への長い道―ネルソン・マンデラ自伝〈上〉
ネルソン マンデラ
日本放送出版協会

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水城らあ麺

2010年02月06日 | 食べ歩きデータベース


  福岡での半日。水城と大宰府政庁跡を巡ったついでに、お昼は「水城らあ麺」に行ってきました。



  ここは隣の人が食べていた野菜の量が物凄いちゃんぽんが名物らしいですが、僕が頼んだのはチャーシュー麺。

  スープはオーソドックスな豚骨ですが、雑な豚骨スープにありがちな臭みはなく、濃厚でありながら後味があっさりとしています。したがって、最初の一撃のインパクトはそれほど強くありません。その代わり、食べ進めるにつれて徐々に旨さが増し、食べ終わり店を出てから「美味しかったな」と実感が湧いてくる、食べやすく安心できるラーメンでした。麺は福岡で一般的な、素麺位の太さの細麺です。





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大宰府政庁跡

2010年02月05日 | 史跡めぐり
  大宰府政庁跡は水城から2kmほど歩いたところにあります。簡単に歩けてしまうので、それだけでも「水城を突破されたら大宰府は放棄するしかないだろうな」と実感できました。

  さて、今一度おさらいしますと、白村江の大敗の後、唐による侵攻を恐れた中大兄皇子は、西日本における政治・軍事・外交の拠点をそれまでの那津宮家(福岡市博多区比恵)から十数キロ内陸に移します。これが後の大宰府の原型になったと言われています。そして664年に国分丘陵と吉松丘陵を塞ぐ防塁である水城を築き、665年には大宰府を囲むように大野城基肄城(きいじょう)、阿志岐城といった大規模な百済式山城を次々と築きました。日本書紀には大宰府がいつ作られたのか記述がありませんが、水城や大野城が築かれた年代から類推して663年の白村江の戦い直後のことであろうと思います。因みに、阿志岐城についても文献の記録はありませんが、発掘調査で城跡が発見されています。実際地形を見ると、ここにも山城があった方が防衛上自然だと分かります。



  こうして白村江の大敗からわずか数年の間に筑紫の地形を利用した一大防衛網が完成しました。上の上空写真を見れば大宰府を中心として地形丸ごと要塞化したようであることが分かります(クリックすると拡大写真が見られます)。

  当時の天智朝が抱いていた唐による侵攻の現実味は、我々が想像する以上に大きいものであったに違いありません。唐という、当時の中国史上最大の帝国の成立は東アジア諸国に大変動をもたらしました。唐は西は西突厥、東は高句麗などを圧迫し、白村江の戦いを迎える頃にはほぼ最大版図にまで勢力を拡張しつつありました。そうした覇権主義的超大国が現れた影響の中で朝鮮半島では660年に百済が滅亡し、668年には高句麗が滅亡したのです。だとすれば、旧百済にまで迫った唐の勢力が白村江の戦いの余勢を駆って日本列島に侵攻してくるかもしれない、と考えたのは極自然なことではなかったかと思います。また、この時期は659年~661年に第四次、665年~667年に第五次とそれぞれ遣唐使が派遣されていますから、彼らからもたらされる唐の情報も、あるいはさらなる脅威を与えたかもしれません。



  ちょうど東アジア諸国2000年の興亡を追った「歴史地図」という動画が掲載されているサイトを見つけましたので、リンクさせていただきました。これを見ると唐の出現と勢力拡大が周辺諸国に与えたインパクトをより一層感じることができます(上の画像をクリックしてください)。わが国においても白村江の大敗が契機となり、都城律令の整備など天皇を中心とする中央集権体制の成立が急がれ、結果としてそれが現在に連なる日本という国の成立につながったわけですから、その影響はまこと大きかったといわなければなりません。



  さて、上の写真は大宰府政庁の復元模型です。ただし、これは10世紀後半に再建された大宰府を想定しています。白村江の戦い直後に建てられたと考えられる大宰府は、発掘調査によると掘立柱建物(Ⅰ期)で、8世紀初頭に礎石を用いた朝堂院形式の建物が整備されました(Ⅱ期)。この建物は940年の藤原純友の乱で反乱軍の襲撃を受け焼失、10世紀後半に再建されました(Ⅲ期)。現在見られる礎石はそのⅢ期のものです。再建された建物は菅原道真が「都府の楼はわずかに瓦の色を看る 観世音寺は唯鐘の声を聴くのみ」と詠っているように壮大なもので、当時としては平城、平安に次ぐものであったと言われています。



 大宰府政庁跡の上空写真(クリックすると拡大写真が見られます)。



 それぞれ左から南門、回廊、西脇殿、東脇殿、正殿跡です。

 因みに、大宰府政庁跡は天神様で有名な太宰府天満宮から3kmほど離れたところにあります。天満宮のある場所は菅原道真が没したところであると言われています。



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新聞記事掲載予定のお知らせ

2010年02月04日 | リサイクル(しごと)の話
2010年2月6日の神奈川新聞に当社が登場する記事が掲載される予定です。

よろしくお願いいたします。

繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした

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