本書は、2008年に出版された『経済はナショナリズムで動く』(PHP研究所、絶版)を加筆・改訂したものです。
『経済は~』の時もそうでしたが、本書をお読みになられ、「当たり前のことを当たり前に述べているだけではないか」という感想をお持ちになられた方も多いのではないかと思います。実際、その通りだと思います。
その「当たり前」を何故改めて問い直さなければならないのか。それはわが国の支配的な言論にその「当たり前」がほとんど見られない、あるいは誤解されているために、「当たり前が当たり前ではない世の中」になってしまっているからであろうと思います。
詳細は本書をお読みいただくとして、ここでは本書の最も重要な概念である「経済ナショナリズム」について簡単に整理してみたいと思います。
まず、経済ナショナリズムを理解するには、一言で「クニ」と言ったときのステイト(国家)とネイション(国民)を明確に区別なければなりません。経済ナショナリズムに対する誤解の多くは、そもそもこのステイトとネイションの区別が曖昧であるところにあります。
本書によれば、ステイト(国家)とは、「政治的・法的な制度あるいは組織」(p.78)のことであり、我々が一般的にイメージする政府や省庁がこれにあたります。これに対し、ネイション(国民)とは、社会学者のアンソニー・スミスの定義によれば、「歴史的領土、共通の神話や歴史的記憶、大衆、公的文化、共通する経済、構成員に対する共通する法的権利義務を共有する特定の人々」(p.78)のことを指します。すなわち、ネイション(国民)とは、「構成員の社会的想念によって統合される共同体」と言い換えることができます。
したがって、ナショナリズムとは、「ネイション(国民)に対する忠誠のイデオロギーあるいは感情」(p.78)を言うのであり、政府などステイト(国家)に対する忠誠のイデオロギーはステイティズムとしてナショナリズムとは明確に区別されます。
以上のことを理解すると、経済ナショナリズムは「ネイション(国民)に対する忠誠のイデオロギーを持った経済政策」となり、その目的は「ネイション(国民)の経済的利益の増大」ということになります。経済ナショナリストにとって、ステイト(国家)は「ネイション(国民)の経済発展のために必要な手段」(p.81)なのです。
経済ナショナリズムは、経済自由主義と対立する概念であるかのように誤解されていますが、経済ナショナリストの目的はネイション(国民)の経済的利益の増大ですから、採用する経済政策はその目的に適うと想定される限りにおいて、プラグマティックに変化します。つまり、目的に応じて保護主義的政策を採用することもあれば、経済自由主義的政策を採用することもあるのです。したがって、経済ナショナリズム=保護主義というのは誤っています。この点については、より具体的な以下の著作についてのレビューも掲載しておりますので、そちらもご覧いただければと思います。
『自由貿易の罠 覚醒する保護主義』
『「TPP開国論のウソ」①』
『「TPP開国論のウソ」②』
『「TPP開国論のウソ」③』
『「TPP開国論のウソ」④』
『「TPP開国論のウソ」⑤』
ゆえに、経済ナショナリストは、ステイト(国家)の利益には合致するが、ネイション(国民)の不利益に繋がるような政策には反対します。例えば、国民にとって不利益であるにも関わらず、省益拡大を企図したような政策などです。個人的には昨今のデフレ下における増税論などまさにその様なものではないかと考えていますが、そうした政策には反対の立場を採ります。
以上が、経済ナショナリズムについての極基本的な理解です。この経済ナショナリズムが何故今重要であるのでしょうか。それは、70年代末に興り、90年代以降文字通りグローバルな規模で急拡大した経済自由主義の極端な形態である「新自由主義」の破綻が、2008年以降、誰の目にも明らかになっているにもかかわらず、わが国の支配的な言論がそうしたイデオロギーから未だに一歩も抜け出せていないからです。
2008年以降、僕は複数の経済学者から「人々を幸せにすると信じて打ち込んできた経済学が本当に人を幸せにするのか疑わしくなってきた」という告白を聞かされたことがあります。それは、経済学の主流である新古典派の想定する「経済厚生の最大化」が、元より完全情報や金銭的利益のみに動機付けられる合理的個人というおよそ現実ではあり得ない仮定の下に導き出された結論であるからというだけではなく、経済学のいう経済厚生は必ずしもネイション(国民)の経済的利益とは一致しないということが明らかになったからではないでしょうか。
経済ナショナリズムを理解すること、それは経済政策の目的が「国民の経済的利益を増大させること」という「当たり前」に立ち返るということなのです。
繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした
ブログをご覧いただいたすべての皆様に感謝を込めて。
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『経済は~』の時もそうでしたが、本書をお読みになられ、「当たり前のことを当たり前に述べているだけではないか」という感想をお持ちになられた方も多いのではないかと思います。実際、その通りだと思います。
その「当たり前」を何故改めて問い直さなければならないのか。それはわが国の支配的な言論にその「当たり前」がほとんど見られない、あるいは誤解されているために、「当たり前が当たり前ではない世の中」になってしまっているからであろうと思います。
詳細は本書をお読みいただくとして、ここでは本書の最も重要な概念である「経済ナショナリズム」について簡単に整理してみたいと思います。
まず、経済ナショナリズムを理解するには、一言で「クニ」と言ったときのステイト(国家)とネイション(国民)を明確に区別なければなりません。経済ナショナリズムに対する誤解の多くは、そもそもこのステイトとネイションの区別が曖昧であるところにあります。
本書によれば、ステイト(国家)とは、「政治的・法的な制度あるいは組織」(p.78)のことであり、我々が一般的にイメージする政府や省庁がこれにあたります。これに対し、ネイション(国民)とは、社会学者のアンソニー・スミスの定義によれば、「歴史的領土、共通の神話や歴史的記憶、大衆、公的文化、共通する経済、構成員に対する共通する法的権利義務を共有する特定の人々」(p.78)のことを指します。すなわち、ネイション(国民)とは、「構成員の社会的想念によって統合される共同体」と言い換えることができます。
したがって、ナショナリズムとは、「ネイション(国民)に対する忠誠のイデオロギーあるいは感情」(p.78)を言うのであり、政府などステイト(国家)に対する忠誠のイデオロギーはステイティズムとしてナショナリズムとは明確に区別されます。
以上のことを理解すると、経済ナショナリズムは「ネイション(国民)に対する忠誠のイデオロギーを持った経済政策」となり、その目的は「ネイション(国民)の経済的利益の増大」ということになります。経済ナショナリストにとって、ステイト(国家)は「ネイション(国民)の経済発展のために必要な手段」(p.81)なのです。
経済ナショナリズムは、経済自由主義と対立する概念であるかのように誤解されていますが、経済ナショナリストの目的はネイション(国民)の経済的利益の増大ですから、採用する経済政策はその目的に適うと想定される限りにおいて、プラグマティックに変化します。つまり、目的に応じて保護主義的政策を採用することもあれば、経済自由主義的政策を採用することもあるのです。したがって、経済ナショナリズム=保護主義というのは誤っています。この点については、より具体的な以下の著作についてのレビューも掲載しておりますので、そちらもご覧いただければと思います。
『自由貿易の罠 覚醒する保護主義』
『「TPP開国論のウソ」①』
『「TPP開国論のウソ」②』
『「TPP開国論のウソ」③』
『「TPP開国論のウソ」④』
『「TPP開国論のウソ」⑤』
ゆえに、経済ナショナリストは、ステイト(国家)の利益には合致するが、ネイション(国民)の不利益に繋がるような政策には反対します。例えば、国民にとって不利益であるにも関わらず、省益拡大を企図したような政策などです。個人的には昨今のデフレ下における増税論などまさにその様なものではないかと考えていますが、そうした政策には反対の立場を採ります。
以上が、経済ナショナリズムについての極基本的な理解です。この経済ナショナリズムが何故今重要であるのでしょうか。それは、70年代末に興り、90年代以降文字通りグローバルな規模で急拡大した経済自由主義の極端な形態である「新自由主義」の破綻が、2008年以降、誰の目にも明らかになっているにもかかわらず、わが国の支配的な言論がそうしたイデオロギーから未だに一歩も抜け出せていないからです。
2008年以降、僕は複数の経済学者から「人々を幸せにすると信じて打ち込んできた経済学が本当に人を幸せにするのか疑わしくなってきた」という告白を聞かされたことがあります。それは、経済学の主流である新古典派の想定する「経済厚生の最大化」が、元より完全情報や金銭的利益のみに動機付けられる合理的個人というおよそ現実ではあり得ない仮定の下に導き出された結論であるからというだけではなく、経済学のいう経済厚生は必ずしもネイション(国民)の経済的利益とは一致しないということが明らかになったからではないでしょうか。
経済ナショナリズムを理解すること、それは経済政策の目的が「国民の経済的利益を増大させること」という「当たり前」に立ち返るということなのです。
国力とは何か―経済ナショナリズムの理論と政策 (講談社現代新書) | |
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繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした
ブログをご覧いただいたすべての皆様に感謝を込めて。
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