窪田恭史のリサイクルライフ

古着を扱う横浜の襤褸(ぼろ)屋さんのブログ。日記、繊維リサイクルの歴史、ウエスものがたり、リサイクル軍手、趣味の話など。

メヘラーンガル城砦①

2011年12月31日 | 史跡めぐり




  デオガール(地点D)から北西に向かい、ジョドプル(地点E)へ。幹線道路から外れていたため、直射日光の照りつける中、悪路を6時間かけて移動しました。この区間が距離以上にキツかったです(地図をクリックすると拡大します)。



  さて、ジョドプルのシンボルであるメヘラーンガル城砦は、1459年、マールワール王国のラーオ・ジョーダ王によって築かれたインド三大城砦の一つに数えられる壮大な砦です。標高130mの岩山に高さ36mにも及ぶ巨大な城壁がそびえ、見る者を圧倒します。



  1459年年頃の世界(地図をクリックすると拡大します:「世界歴史地図」より)。



  砦からは、ジョドプルの旧市街が見渡せます。ジャイプルが別名「レッド・シティ」と呼ばれるのに対して、ジョドプルの旧市街はほとんどの家が青く、それゆえに「ブルー・シティ」と呼ばれています(上の写真をクリックすると拡大します)。最初は青いタイルで作られた家々が集まっているのかと想像していたのですが、ただ壁を青く塗っていただけでした。



  次回(「メヘラーンガル城砦②」は2012年1月9日公開予定です)以降、砦の内部をご紹介していきたいと思います。

  本年も「窪田恭史のリサイクルライフ」をご覧いただきありがとうございました。

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フォート・スィーンク・サガール

2011年12月30日 | 海外での出来事


  デオガールに到着して宿泊したのは、昨日ご紹介したデオガール・マハルではなく、そこから5kmほど離れた、湖の中の島にあるフォート・スィーンク・サガールでした。今回は知られざる、この素晴らしいホテルをご紹介したいと思います。



  途中でマンプラという羊飼い、牛飼いの住む小さな村こそ通りましたが、見渡す限りごつごつした岩だらけの荒野。今でこそ地続きですが、雨期にはここは陸地と切り離され、島になるそうです。



  そして眼前には湖沼が広がります。鳥の鳴き声しかしない、非常に静かなところです。

フォート・スィーンク・サガール


  このフォート・スィーンク・サガールは、デオガール家が18世紀に建てた離宮を2005年、元型の趣を残しつつ宿泊施設に改装したもので、部屋は4つしかありません。

 

  その部屋ですが、元々マハラジャの離宮だけあって、ラジャスターン様式の立派なもの。



  バスルームが地下にある部屋もありました。



  さらに部屋には湖沼を見渡す小さなプライベート・バルコニーがあります。カワセミなどの野鳥が見られ、鳥の鳴き声しかしない静けさ。朝起きて、ここでしばらく瞑想をしましたが、いつまでもそうしていたいほど癒される雰囲気でした。ここがあの喧騒と雑踏に包まれたインドであることが信じられません。



  中庭。中心部分が浅い池になっており、夏期はここに水を張るそうです。冬は代わりに焚き火をし、夕食はこの中庭でします。星空の下、焚き火のパチパチという音しかしない素晴らしい静寂でした。

  因みに、1泊2食付で8,500ルピー(12,000円弱)位だったと思います。



  お世話をしてくれた方と記念写真。彼の家は5代に渡って、このデオガール家に仕えているそうです。



  ここのオーナーで、デオガール・マハルに住むマハラジャの兄、ランドヒル・シングジ大佐(退役軍人)と共に。

  期せずして、われわれはこのフォート・スィーンク・サガールに宿泊した最初の日本人になりました。

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デオガール・マハル

2011年12月29日 | 海外での出来事




  ジャイプル(地点C)からさらに南西に下り、ちょうどアジメル(地点F)とウダイプルの中間くらいに位置するデオガール。湖を中心として荒野の真っ只中にできた街です(地図をクリックすると拡大します)。



  ここで見かける外国人観光客は欧米人ばかり。周辺にこれといった観光地がないためか、日本人の姿はありませんでした。今もマハラジャの末裔が住むデオガール・マハルへと続く町並みは、狭く入り組んでおり近世の面影を残しています。美しくはありませんが、雰囲気があります。

  インドにはマハラジャの宮殿や離宮をホテルに改装したパレス・ホテルが各地にあります。ここデオガール・マハルもその一つです。およそ300年ほど前、メワールの16貴族(注)の一つであったデオガールのラワット(=ラジャ)によって造られました。最盛期には、210の村からなる、ラジャスターン地方で4番目に大きな勢力を誇ったそうです。

注)ウダイプルのマハラーナ(マハラジャの中のマハラジャの意)に仕えた「ウンラオス」と呼ばれる最高位の貴族



  その宮殿の一部を50部屋からなるホテルに改装しました。宮殿の入口では、この地を治めたかつての支配者の絵が出迎えます。



  門の上は「カチェリ」という、かつて裁判が行われたところだそうです。



  2階の中庭。白大理石の玉座が見えます。かつてここは中庭ではなく、1階から3階まで吹き抜けでした。



  ここに宿泊はしませんでしたが、部屋を案内してもらうことはできました。かつての宮殿の豪華さをそのまま活用したロイヤル・スイート5室、デラックス・スイート23室、デラックス・ルーム22室となっています。



  マハラナ・スイートの一部。まさに宮殿そのものです。

  因みに、現在は部屋の一部として隠れてしまっていますが、デオガール・マハルには、ジャイプルのハワ・マハル(風の宮殿)のように小窓のたくさんある宮殿の跡があります。実はハワ・マハルを造ったサワーイー・プラタープ・シンは、幼少時代をここデオガール・マハルで過ごしたことがあるそうで、一説にはハワ・マハルはデオガール・マハルから着想を得て造られたと言われています。

デオガール・マハル


  その他の部屋も上の動画にまとめましたので、ご覧ください。

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シティ・パレス

2011年12月28日 | 史跡めぐり


  シティ・パレスはジャイプルの中心に位置し、今でもマハラジャが住んでいる宮殿です。一部は博物館となっており、見学することができます。

  1726年、サワイー・ジャイ・シン2世(ジャイプルという名称は彼の名に由来します)によって造られました。それまでは、ジャイプルの北東11kmのところにある、アンベール城という山城が居城でしたが、ムガル帝国の保護下で統治が安定し人口が増加したこと、それに伴って水不足が深刻化したことから、新たにジャイプルを建設し、遷都しました。



1726年頃の世界(地図をクリックすると拡大します:「世界歴史地図」より)。

  アグラからジャイプルに向かうと、ずっと平原が続いているのですが、ジャイプルの付近は丘に挟まれた狭隘地になっていることが分かります。またここは北東にデリー、東にアグラ、西はアジメールに通じる交通の要衝であり、当時の繁栄をうかがい知ることができます。

  シティ・パレスが築かれた当時、ムガル帝国は既に衰退に向かっていましたが、イギリスが勢力を拡大した後は、イギリスの間接統治下に入りました。そのため一定の自治権があり、直轄領に置かれたデリーやアグラと違い、宮殿内の保存状態が良いということも言えると思います。



  さて、宮殿内部ですが、こちらはムバラク・マハルと呼ばれる、イギリスのサミュエル・ジェイコブの設計になる賓客の宿泊施設です。現在はテキスタイルの展示室となっています。

 

  ディワーネ・カースと呼ばれる賓客謁見の間。



  正面には2つの大きな銀製の甕があります。1902年、エドワード7世の戴冠式に出席するため、マハラジャがロンドンへ行幸する際、沐浴のためにガンジス川の水をこの甕に入れロンドンまで運んだそうです。これらは世界一大きな銀製品として、ギネスブックに登録されています。



  月の宮殿と呼ばれる、マハラジャが住んでいる宮殿の中庭。





  ここには、見事な装飾を施された「孔雀の門」と呼ばれる門が4つあり、それぞれ装飾が異なります。それぞれの門については、下の動画をご覧ください。

シティ・パレス




  サブハ・ニワス、即ち謁見の間です。マハラジャの玉座、装束や甲冑などが展示されていますが、残念ながら撮影禁止でした。

  時間の関係で、短い滞在となったのが残念でした。

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ハワ・マハル(風の宮殿)

2011年12月27日 | 史跡めぐり


  町並みがピンク色に見えることからピンク・シティの別称で知られる、ラジャスターン州の州都ジャイプル。そのジャイプルの象徴ともいえる建物がこのハワ・マハル(風の宮殿)です。



  1799年頃の世界(地図をクリックすると拡大します:「世界歴史地図」より)。

  ハワ・マハルは、ラージプートのマハラジャ、サワーイー・プラタープ・シンによって建てられた奥行きのない5階建ての宮殿です。通りに面して953もの小窓があり、宮廷内の女性たちが外から顔を見られることなく街の様子を眺められるようになっていました。名前の由来は、この小窓を通して風が循環し暑さを凌げるような構造となっている事によります。

  時間の関係上、残念ながらジャイプルには半日しか滞在することができず、ハワー・マハルは外観のみの見物となりました。

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アルシサール・ハヴェリ

2011年12月26日 | 海外での出来事




  11月30日の夜にジャイプル(地点C、地図をクリックすると拡大します)に到着。インドの知人の同級生がオーナーの息子というホテルに宿泊しました。入口は狭く、町のど真ん中の普通の家という感じで、最初はこれがホテルかと驚きましたが、中に入ってさらに驚きました。



  ここアルシサール・ハヴェリは、貴族の館をホテルに改装した、いわゆるヘリテージ・ホテルだったのです。

  今から500年以上前、アメールのマハラジャ、ウダイカランの孫であり、偉大な戦士でもあったマハラオ・シェクハジがシェクハワット家を創始しました。そのシェクハワット家の分家がラージプートのカチュワーハー家であり、ジャイプルを統治していた有力氏族でした。このアルシサール・ハヴェリは、1892年に建てられたカチュワーハー家の館(ハベリ)を1994年、ホテルに改装したものです。ということは、御曹司の彼はカチュワーハー家の末裔?



  伝統的なラージプートの建築様式を反映した、大変雰囲気の良いホテルです。実際、写真だけ見ると、後にご紹介する有名なジャイプールのシティ・パレスと見分けがつかないほどです。それにもかかわらず、シングル・ルームが1泊3,800ルピー(約5,320円)と大変お得。これは穴場ではないでしょうか。

アルシサール・ハヴェリ


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ファティープル・スィークリー③

2011年12月25日 | 史跡めぐり


  モスク地区の東門を出て北に向かうと、まさに廃墟と化した都と呼ぶに相応しい光景が目に入ってきます。ここは宮廷地区と呼ばれるところの外れにあたり、恐らく都の外郭部分だと想像されます。



  宮廷地区そのものは残念ながら日没が迫っており、その日のうちにジャイプールへ移動しなければならなかったことから見ることができませんでした。上の写真右手がジョド・バーイー殿。ジョド・バーイーは第4代皇帝ジャハンギールの妃です。左手が廷臣ビルバルの館と呼ばれています。しかし、いずれもはっきりしたことは分かっていません。



  こちらは「象の門」と呼ばれる門。入口の両側に象の彫刻が施されています。イスラム建築において象はタブーですが、これもやはりアクバルの融和政策の一つでしょうか?象が破壊されているのは、ひょっとしたら後代になって意図的になされたのかもしれません。



  兵舎と水を確保するための階段井戸(バーオリー)。巨大な井戸で、底まで階段で下りられる構造になっています。前述のように、ファティープル・スィークリーは水不足に悩まされ、そのことが都放棄の原因となりました。



  隊商宿(キャラバン・サライ)。ガイドはハーレムだと説明していましたが、いくら何でも後宮を町の外郭に造るとは思えません。やはり隊商宿か市なのではないかと思います。



  ヒラン・ミナール(鹿の塔)。アクバルが大切にしていた愛象の墓の上に建てられたという説があります。塔の外壁一面に象牙のような装飾が施された、珍しい塔です。

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ファティープル・スィークリー②

2011年12月24日 | 史跡めぐり


  中に入ると、右手に皇帝用の通用門があります。意外なことに、皇帝は正面のブランド門ではなく、こちらの小さな門を使ったそうです。



  左手にはジャマー・マスジッド。ジャマー・マスジッドはデリーにもありましたが、「金曜モスク」という意味です。



  イスラム教のモスクでありながら、内部はイスラム教、ヒンドゥー教、キリスト教の要素が取り入れられています。これはアクバルの3人の妃がそれぞれイスラム教、ヒンドゥー教、キリスト教であったこと、そして広大な帝国を安定的に統治するため、各宗教の融和を図ったアクバルの政策を象徴してもいます。



  イスラム・カーン廟。アクバルに皇子誕生の予言を授けたサリーム・チシュティの孫であるイスラム・カーンの墓があります。



  奥の方の天蓋ベッドのような物がイスラム・カーンの墓ですが、元々ここはイスラムの聖職者が講話を行うところ(ジャマート・カーナ)でした。



  中央にある総大理石の建物は、サリーム・チシュティ廟。1580年に彼が死去すると、アクバルはここに墓を建てました。



  サリーム・チシュティ廟の雨どいを伝って流れ落ちた水は聖水とみなされました。



  廟の周りは見事な透かし彫りが施されています。これらは1枚の大理石の板を彫刻したもので、一つとして同じ模様はありません。この精緻を極めた透かし彫りの技術は、やがてアグラ城砦やタージ・マハルに受継がれていくことになります。



  螺鈿細工の施された聖者サリーム・チシュティの墓。



  裏手には地下道の入口がありました。現在は閉鎖されていますが、遠く42km離れたアグラ城砦まで通じていたそうです。青函トンネルが53.85kmであることを考えると、にわかには信じがたいですが...

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ファティープル・スィークリー①

2011年12月23日 | 史跡めぐり


  ファティープル・スィークリーはムガル帝国第3代アクバル大帝(在位1556年~1605年)によって、アグラ城砦の南西42kmの地点に建設された都です。ファティープル・スィークリーとは、「勝利の都スィークリー」を意味します。ガイドの話では初代皇帝バーブルがこの町を攻略した時、「勝利の町」(ファティープル)と名づけたとか。アクバルが命名したという説もあります。

  いずれにしても都自体はアクバル大帝によるものです。子宝に恵まれなかったアクバルは、1568年、ここスィークリーに住むイスラム教の聖者サリーム・シチュティより皇子を授かるとの予言を得ました。その予言どおり、翌年には皇子(第4代皇帝ジャハンギール)が誕生しました。皇子の誕生を記念して、アクバルはここに都の建設を決意、1574年にアグラから遷都しました。



1569年頃の世界(地図をクリックすると拡大します:「世界歴史地図」より)。

  しかし、猛暑と慢性的な水不足に悩まされ、都はわずか14年で放棄され廃墟と化しました。ファティープル・スィークリーは大きくモスク地区と宮廷地区に分かれます。冒頭の写真は、モスク地区の入口にそびえる、高さ54mもの巨大なブランド門。1573年、アクバルがグジャラート地方を征服したことを記念して建立したもので、アーチ内側の彫刻にはヒンドゥー教の要素が取り入れられています。



  トルコ式の風呂。かつてモスクを訪れる者は、まずこの風呂で身を清めました。



  ブランド門の扉にはたくさんの蹄鉄が打ち込まれています。病気の家畜が聖者によって治癒されることを祈ったものといわれています(ガイドの説明では、後にイギリス人が打ち込んだもので、上向きは幸運、下向きは不運、横向きは普通を意味しているということでした)。

ファティープル・スィークリー

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日本料理 空海②

2011年12月20日 | 食べ歩きデータベース


  以前もご紹介した「日本料理 空海」さん。その時お知らせしましたが、12月1日より常磐町から弁天通1丁目に移転しました。



  昭和58年に厚生大臣賞を受賞したご主人の確かな腕と、リーズナブルなお値段。日本料理の真髄が楽しめるこのお店は、折りしも忘年会シーズンで大盛況でした。



  今回はふく鍋付よくばりコースをフォトチャンネルにまとめました。Facebookでチェックインクーポンもあります。

日本料理 空海

神奈川県横浜市中区弁天通1-15-1
アコルデ横濱関内B1



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