風水師、山道帰一氏の『風水パワースポット紀行』に掲載されていた、佐賀県唐津市高島にある宝当神社に行ってきました。
JR筑肥線唐津駅から徒歩10分程度、
唐津城すぐ近くにある宝当桟橋から、「
ニューたかしま」という定期便が1日6本出ています。そこから高島までは10分ほどです。
上述の『風水パワースポット紀行』によれば、高島は「折脚文星」という龍穴格局(パワースポットを形成する地形構造)で、かつ冒頭の写真を見て分かるとおり、山頂が丸くなっているに当たる吉地形だそうです。「折脚文星」には、「社会的に高い地位を得られる試験に及第し、たとえ身分の向上が無くとも、降格も無く安定し、税を重く課せられない安全が得られる」という意味があるのだとか。
上の航空写真(Google mapより)で印のある位置が宝当神社ですが、明治時代より「当島の寶」ということで寶当神社と呼ばれていたものを、この名前に因み、平成5年(1993年)、島民が町興しのために「宝当袋」(今でも神社近くの土産物屋に売っています)という黄色い袋を発売したところ、宝くじに当選したというご利益が続々と集まり、その噂が全国に広まって、一躍有名になったのだそうです。
さて、その宝当神社は、船を降りて5分と歩かないところにあります。ずっと案内が出ているので、すぐに分かると思います。
ここは野崎隠岐守綱吉を祭神としています。野崎綱吉(以下、綱吉)は元々信州諏訪(長野県)の生まれ。それがどういうわけか豊後(大分県)の大友義鎮に仕官し活躍しました。主君の大友義鎮は肥前草野(佐賀県)の草野鎮永に迎えられ、ここでも綱吉は当時九州三強の一翼であった龍造寺隆信の軍勢を撃退するなどの活躍をみせましたが、これを妬んだ草野家家臣に追われ、この高島に逃れてきました。そのわずか3ヵ月後、草野城は再び龍造寺に攻められ落城しました。
当時、高島の島民は筑前吉井(福岡県)の海賊、火山神九郎に苦しめられていました。ある時、吉井荊娯という海賊が神九郎の手下三十余名と共に高島を襲撃してきました。それを聞きつけた綱吉は海賊を相手にたった一人で奮戦、賊は次々と倒れ、生き残った者わずか5名だったということです。これ以降、海賊は綱吉を恐れ、襲ってくることはありませんでした。
しかし、綱吉は1586年(天正13年)、わずか32歳で病死。その死を悼んだ島民は綱吉のために祠を建てました。余談ですが、現在でも島民の90%が野崎姓なのだそうです。そのことからも、綱吉がいかに島民に慕われていたかが分かります。その後、1901年(明治34年)に鳥居が奉納され、「寶当神社」と呼ばれるようになりました。
現在の石の祠は1768年(明和5年)に建てられたものですが、この下に綱吉が埋葬されているとされています。
宝当神社の裏は、山へと続く登山道へと通じています。非常にのどかで、肩が軽くなるような雰囲気です。見える鳥居は、高島の氏神を祭る塩屋神社です。
塩屋神社は1581年(天正9年)に綱吉が先祖を祀るため、島民と共に建立したものです。本当に祖先かどうかは別として、藤原鎌足、不比等、魚名(不比等の子)、産土神(うぶすながみ:土地または先祖の発祥地の守護神)として大山祗神(おおやまつみのかみ)を祀っています。須佐舘男尊(すさのおのみこと)、菅原道真も合祀しています。
急な登山道を登っていくと、標高約170mの山頂付近に石仏があります。高島では、石仏は「おだい様」と呼ばれ、厚く信仰されているのだそうです。
山頂付近より、唐津方面の眺望です。赤丸で囲った所が唐津城(クリックすると拡大します)です。海からの風が心地よく、清々しい気持ちになります。
せっかく来たので、島の食堂でお昼を。こちらは、海鮮丼です。11時40分唐津発の船で到着し、13時20分の高島発の船にちょうど良い位でした。
繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした
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