窪田恭史のリサイクルライフ

古着を扱う横浜の襤褸(ぼろ)屋さんのブログ。日記、繊維リサイクルの歴史、ウエスものがたり、リサイクル軍手、趣味の話など。

今帰仁城跡

2016年02月20日 | 史跡めぐり


  こちらも18年振りに訪れた今帰仁城です。当時は麓までバスで行き、そこから歩いて登ったのですが、途中で脱水症状を起こし、城に着いた時には9月の暑い盛りだというのに寒気でガタガタ震えていた思い出があります。当時は今のようにきれいに整備されておらず、全く人気がありませんでした。幸い古ぼけた自動販売機が一機だけあり、それで救われましたが…。今帰仁城、今まで見てきた沖縄の城の中で最も好きな城です。


今帰仁城の図(クリックすると拡大します)

  発掘調査によると、今帰仁は13世紀末頃から現地の有力者によって簡単な城が築かれていたことが分かっています。最盛期は14世紀、三山鼎立の時代。怕尼芝(はにし)、(みん)、攀安知(はんあんち)と三代91年続いた山北(北山ともいう)・怕尼芝王統の時代でした。山北の版図は現在の本島北部域に分類される地域とほぼ同じ、恩納村、金武町以北と三山の中で最大の広さを持ち、出土品から中国や東南アジアと盛んに交易を行っていたことが分かっています。しかし、明への朝貢回数が最も少ないことから、実際の国力は三山の中で最も低かったと考えられています。

  今帰仁城は自然の絶壁の上に築かれた堅固な城塞でした。中城や座喜味城で見られたような成形された石積みではなく、本部層の古生代石灰岩の自然石を積み上げた野面積みと呼ばれる技法で石垣が造られています。因みに、中城座喜味城も新生代の石灰岩で、石の色の違いによりそのことがよく分かります。

  1416年(1422年との説もあります)、中山の尚巴志は総勢3,500人の山北討伐の軍を興します。たった3,500人と思われますが、1609年の島津藩による琉球侵攻時の琉球王国側の軍勢が約4,000人だったことを考えると、三山鼎立の時代にあってはほとんど総力戦ともいうべき大規模な軍事行動であったのではないかと思われます。しかし、そうであったとしても、実際に城を歩いてみると、これほどの城塞が本当にわずか3,500人の軍勢で陥落したのか、疑わしくなります。

  そこで山北征伐について調べてみました。中山軍は尚巴志率いる海路の本軍2,700人と護佐丸率いる陸路の第二軍800人の二手で侵攻しました。そして北山王攀安知をおびき出すことに成功した本軍が城外で交戦している間に、城内にいた攀安知の家臣、本部平原が裏切り、呼応した第二軍が突入。今帰仁城は陥落したということです。史書『中山世鑑』や『中山世譜』は攀安知を「武芸絶倫」、「淫虐無道」と評していますが、琉球王朝側の史書なので実際どうだったのかは分かりません。

  どこの国、いつの時代でも歴史が「勝者の記述」であるという点では同じです。「中城跡」で取り上げた勝連の阿麻和利も、「阿麻和利の乱」で反逆者の烙印を押されていますが、地元では名君として讃えられています。

  琉球の歌謡集である『おもろさうし』には勝連の繁栄を「大和の鎌倉のようである」と讃える歌が収められていますし、そもそも阿麻和利という呼称自体、「天降り(あまふり)」を意味する尊称だとする説もあるほどです。



  長くなってしまいましたが、上の絵図に沿って今帰仁城の様子を順次ご紹介していきたいと思います。初めに外郭(①)。外郭は高さ2mほどの低い石垣が数百mにわたり蛇行して続いています。発掘調査により、ここには屋敷の跡が確認されています。



  平郎門(②)。現在のものは1962年(昭和37年)に再建されたものです。1713年に国王に上覧された琉球王国の地誌『琉球国由来記』に、「北山王者、本門、平郎門ヲ守護ス」の記述が登場します。



  御内原(後述)より見下ろした大隅(ウーシミ)(③)。最も高い石垣が築かれた堅牢な城郭で、兵馬を訓練する場所だったと伝えられています。



  カーザフ(④)。カー(川)+ザフ(迫)、つまり谷間の意。谷間の断崖絶壁に城壁が積み上げられており、鉄壁の防御を誇ったと想像できます。



  大庭(ウーミャ)(⑥)。政治・宗教儀式が行われていたと考えられている場所で、正面に正殿(主郭)、右側に南殿、左側の一段高い所に北殿があったと考えられています。



  ソイツギ(城内下之御嶽)。大庭の北西にあり、前述の『琉球国由来記』には「城内下之嶽」、神名「ソイツギノイシヅ御イベ」と記されています。「ソイツギノイシヅ御イベ」とはイベ(聖域)の名前らしいですが、「ソイツギ」は「添い継ぎ」?「イシヅ」は「礎」?名前の意味が分かりません。ご存知の方がいらっしゃいましたらご教授頂きたいと思います。いずれにせよ、旧暦八月のグスクウイミという祭祀の時、今帰仁ノロ(祝女)が五穀豊穣を祈願する場所のようです。風水でも北西は最も位が高く(天(乾)の方位)、神様を祭る方位とされていますね。



御内原(ウーチバル)(⑦)。女官が生活した場所と伝えられ、城内でも神聖な場所。大隅の写真の通り、北側から海を一望することができます。



  主郭(⑧)。正殿のあった場所。現在見られる礎石は、山北滅亡後、中山から派遣された監守が使用していた建物の跡です。



  志慶真門郭(シゲマジョウカク)(⑨)。城内の東端に位置し、城主に身近な人々が住んでいたと考えられます。発掘調査によって4つの建物があったことが確認されていますが、その大きさは6m四方または5m×4m程度で、現在の一般的な住宅の大きさからみてもかなり小さい建物です。また、発掘により志慶真門郭と大庭を繋ぐ通路石敷が確認されています。郭の南端にはかつて志慶真門があったことも分かっています。

今帰仁城跡

沖縄県国頭郡今帰仁村字今泊5101



繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

座喜味城跡

2016年02月19日 | 史跡めぐり


   沖縄の城巡りとしては、首里城、中城、勝連城、今帰仁城に続く5つ目、読谷村にある座喜味城です。

   座喜味城は昨日ご紹介した護佐丸が中城に入る前に居城としたところです。琉球三山時代(1322年頃~1429年)の1416年(1422年という説もあります)、明日ご紹介する山北(北山ともいいます)の今帰仁城を攻略した中山の尚巴志は、山北を監視するため山北と中山の境に位置し、良港を備えた座喜味への築城を護佐丸に命じました。因みに、護佐丸は山北の初代国王である怕尼芝(はにじ)に滅ぼされた先今帰仁按司の曾孫です。山北攻略時、護佐丸は弱冠二十歳でした。

   冒頭の写真を見ても分かるように、城が築かれた標高120mの台地は赤土層の脆弱な地盤でしたが、護佐丸はそれまでの居城であった山田城を崩した石材で丘を取り囲み、石積みの工夫によって二つの郭から成る連郭式の城を築き、築城の名手としての名を高めました。



   座喜味城は、沖縄の城としては中規模のものです。しかし、脆弱な地盤を克服するため工夫された石積みによる城壁は、東シナ海を背後に美しい曲線を描き、一見の価値があります。護佐丸は1440年に中城に移るまでの18年間座喜味城に居城し、海外交易により第一尚氏を経済的に支えたと言われています。発掘調査では、15世紀~16世紀のものとみられる中国製の青磁と陶器が最も多く出土しており、座喜味城は護佐丸が中城に移った後も使用されていたと考えられています。



  座喜味城には一の郭と二の郭にそれぞれ一つずつ、美しいアーチ門が造られています(上写真左)。中に門扉の跡がありましたので、かつては扉があったのでしょう。アーチ門のかみ合う部分には楔石がはめられています(上写真右)が、他の城には類例が見られないそうです。このことから、座喜味城のアーチ門は現存する中で、沖縄最古ものではないかと考えられています。いずれにせよ、座喜味城築城の技術はその後中城でも大いに生かされたことでしょう。



  一の郭の北側には、間口16.58m、奥行き14.94mの石組みが発掘されており、この中に建物が建っていたと考えられています。しかし、瓦等が出土していないことから、恐らく建物は板葺か茅葺だったのではないかと推定されています。

  生憎の曇り空でしたが、城壁からは首里や那覇、そして東シナ海に浮かぶ慶良間諸島、久米島、伊江島、伊平良諸島が眺望できるそうです。中城同様、やはりここも戦略上極めて重要な要害の地であったことが分かります。

座喜味城跡公園

沖縄県中頭郡読谷村字座喜味708-6




繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中城跡

2016年02月18日 | 史跡めぐり


  2月7日、18年ぶりに沖縄の代表的な城跡である中城を訪れました。

  中城は14世紀後半頃から、当時の領主だった先中城按司により数世代にわたって拡張され、その後琉球王府の命を受けて入城した琉球王国建国の功臣、築城の名手としても名高い護佐丸盛春によって現在の形になりました。



  標高160mの丘に築かれた連郭式の山城で、西には宜野湾市と東シナ海を望み(写真左)、東には中城湾と勝連半島(写真右)を見渡すことができます。眼下の景色を見下ろすだけでも、ここが極めて重要な交通の要衝であったことが分かります。


1440年頃の世界(地図をクリックすると拡大します:「世界歴史地図」より)。

  1440年、琉球王朝(第一尚氏)の第三代尚忠王は、当時大きな勢力を誇った勝連按司の阿麻和利を牽制するため、重臣護佐丸に中城を与えました。入城した護佐丸は北の郭、三の郭を増築しました。



  その護佐丸によって築かれた北の郭で美しいアーチを描く裏門。1853年、日米和親条約を締結したペリーの艦隊は、帰途に琉球へ寄港しています。その記録である『日本遠征記』は中城について、画家ハイネの挿絵付きで「要塞の資材は、石灰岩であり、その石造技術は、賞賛すべきものであった。石は…漆喰もセメントも何も用いていないが、この工事の耐久性を損なうようにも思わなかった」と記しています。

ペリー提督日本遠征記 (上) (角川ソフィア文庫)
クリエーター情報なし
KADOKAWA/角川学芸出版




  ハイネの挿絵に登場する表門(1998年撮影)。

  実際、上の地図の通り中城が築城されたのは本土では室町時代にあたります。本土では以前このブログでご紹介した大野城御所ヶ谷神籠石のような古代の山城以降、大規模な石垣建築が築かれたのはせいぜい元寇防塁ぐらいだと思われますので、当時の琉球は本土よりも高度な石垣技術を持っていたと言えます。



  北の郭より三の郭を望む。沖縄の城としては高さのある亀甲積みの石垣が、見る者を威圧します。三の郭は新城とも呼ばれ、亀甲積みは石垣技法の中でも進んだ技法であることから、ここが後から増築されたことがよく分かります。



  三の郭より二の郭を望む(写真左)。二の郭の石垣は布積み(豆腐積み)と呼ばれ、四角く成型した石を綺麗に積み上げています。また、中城のシンボルともいえる美しい曲線を描いた石垣(写真右)も二の郭で見ることができます。



  二の郭に建つ「忠魂碑」。名前から推察するに、琉球王朝の史書『中山世譜』で忠臣とされている護佐丸を慰める碑でしょう。1458年、護佐丸は阿麻和利の讒言により謀反を疑われ、中城において自害しています。尤も、阿麻和利も護佐丸を除いた後、謀反を起こし首里を急襲しますが、王府軍によって滅ぼされています(護佐丸・阿麻和利の乱)。


【勝連城跡(1998年撮影)】

  護佐丸が忠臣であったのか否かについては諸説ありますが、個人的な見解としては護佐丸も阿麻和利も、尚氏により意図的に除かれたのではないかと思っています。「走狗は煮られる」の諺通り、建国の功臣が排除されるというのは、どこの国でも良くあることです。



  北の郭石垣に残る狭間。発掘調査により、中城からは石や金属製の弾丸が発見されています。火矢(ヒーヤー)と呼ばれる、明で開発された銃器が琉球にもあったと考えられます。

  因みに、甲冑や刀剣は貿易により日本から輸入されたものが使われていたようです。勿論、明から輸入された武器も使われていたでしょう。



  北の郭にある大井戸(ウフガー)。今も水を湛えています。城において水の確保は最も重要であるはずですが、琉球の城では場内に水源を確保しているのは珍しいそうです。城の規模、当時の琉球の軍勢規模からいって、長期間の籠城を想定していなかったのかもしれません。

中城城跡公園

沖縄県中頭郡中城村泊1258



繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【診断事例37】自分の考え方を大切に、しかし順応性も備えた方

2016年02月17日 | 筆跡心理関係


  上の画像は、クリックすると拡大します。50代・男性・会社経営をされている方です。

【この方の人物像】

  基本的には考え方も日常の行動も真面目な方だと言えます。自分の考え方や信念を大切にしており、日常の行動にも一定のパターンがあるようです。特別忍耐強いという訳ではないのですが、物事にはコツコツと取り組む方で、特に好きなことにはのめり込んでしまう傾向にあります。しかし、その真面目さは決して頑なというものではなく、むしろTPOに応じた柔軟な対応の取れる方です。とはいえ、いい加減なことやどっちつかずの優柔不断な態度は嫌います。

  ご自分では恐らく社交的であるとは思っておらず、どちらかと言えば内気なタイプと思われているかもしれませんが、人付き合いは決して苦手ではありません。周囲に順応する力と前に進む力がありますので、周りからはむしろ外向的なタイプとの評価を得ているかもしれません。

【診断の感想】

  拝見いたしました。素晴らしいです。筆跡から全部ですか、私のイメージとかではなくて??筆跡からここまで導き出せるのはすごいなと思います。「考え方、日常の行動もまじめな方」という点、そうです。真面目とは相対的ですので、真面目か不真面目かという線引きがどこにあるかは定かではないですが、真面目だと思います。自分の考え方や信念を大切にしているという点、日常の行動に一定のパターンがあるという点、そのとおりですね。この「信念」というのがなんであるのかは、まだ自分でもわかっていません。信念を貫くという言葉がありますが、まだその信念というものを表面上これだというところまで認識できていないのですが、でも何か基準というものがあるようにずっと思っています。社交的かどうかという点もニュアンスも含めこのとおりです。私は社交的ではないと自分では思っていますが、苦手ではないのでそうふるまうので、周りからはそう見えている、まさにその通りですね。朝から晩まで誰とも話さないし、電話もしないし、孤独にずっといることが苦ではなく、でもこれが好きということでもないのですが、用事がなければ話はしないほうです。私はいわゆる「ワイワイ楽しむ」というのは苦手なんですね、どちらかというと。県人会や同窓会の運営をいくつかやっていますが、社交的だから好きでやっているというよりは、一般参加が苦手だから、幹事や運営方になればそこにいる理由ができるから、という考え方ですね。社交的だからいろんな会合に出ていると思われているのですが、いろんな会合に一般参加するのが超苦手なんです。内気なタイプとの指摘はこのようなところにありますかね。そのものですね。ありがとうございました。

繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新山そば-沖縄そば(沖縄県名護市)

2016年02月15日 | 食べ歩きデータベース


  18年ぶりの沖縄だというのに、直前に恐らく風邪で胃をやられてしまい、ほとんどまともな食事を摂ることができませんでした。

  そんな中でも辛うじて食べられたのが沖縄そば。実際、沖縄らしい食べ物と言えば二杯の沖縄そばだけでした。
 
  さて、訪れたのは沖縄県名護市にある「新山(しんざん)そば」。1925年(大正14年)創業の老舗だそうです。沖縄そばが誕生したのは明治以降と言われており、しかも戦前にあったお店は沖縄戦でほとんど姿を消してしまったそうなので、かなりの老舗と言うことができるでしょう。

  住宅街の中にひっそりと佇む小さなお店。どこにあるのか探すのも一苦労ですが、店内には芸能人や政治家、スポーツ選手などの色紙が多数掲示されており、良く知られたお店であることが分かります。



  沖縄そばは、「そば」と言っても小麦粉に鹹水を加えて作られた、分類としては中華麺に属する麺だそうです。こちらのそば(上写真「新山そば」)は「きしめん」のような幅広麺で、ソーキ(豚のあばら肉)に揚げ豆腐、結び昆布がトッピングされています。昆布の効いたスープはあっさりとしていて、胃の具合が悪かった僕にも優しく、美味しくいただくことができました。



  てびち(豚足)そば。こちらは体調を整え、改めて食べてみたいと思います。

  名護と言えば18年前、本部町の塩川ビーチから名護市外れの宮里まで、約10㎞強の道のりを夕食のためだけに歩いて行った思い出があります。夕暮れ時、当時は街灯もなかった海沿いの道をとぼとぼ歩いたのですが、陽が沈んでしまうと自分の足のつま先さえ見えないほど暗くなってしまい、正直非常に心細かった記憶があります。宮里までたどり着き、人の姿を見かけた時には、まるで新大陸を発見したかのような喜びと安堵感がありました。

新山そば

沖縄県名護市大東1丁目9-2



繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第68回YMSを開催しました

2016年02月11日 | YMS情報


  2月10日、mass×mass関内フューチャーセンターにおいて、第68回YMS(ヨコハマ・マネージャーズ・セミナー)を開催しました。



  今回は、株式会社マインドシーズ 代表取締役 丹羽亮介様より、「人材育成の現状とあるべき姿」と題してお話いただきました。

  初めに、人材育成の現状と経緯について。まず現状の教育システムですが、わが国は中学までの義務教育を終えると、98.4%が高校へ進学、53.2%が大学(短大含む)へ進学します(平成25年時点)。就学を終えると社会人になるわけですが、社会人になると勉強しなくなる、あるいは勉強しても自分の仕事に関わる範囲に限定される傾向があるそうです。

  次に経緯ですが、教育を徳育、知育、体育に分類するとすると、体育は別として、江戸時代までは徳育に偏っており、明治以降は若干の修正はなされたものの知育に偏っている。その知育も戦前は「末は博士か大臣か」という言葉があったように、陸軍士官学校、海軍兵学校、師範学校などが高等教育の担い手であったのに対し、戦後は工業化社会に適合した教育に重きが置かれるようになりました。その傾向は基本的に現在まで変わっていないようです。

  即ち、大雑把に言って約150年前から徳育が教育システムから姿を消し、さらにその傾向に拍車がかかって70年が経過しました。18世紀にイギリスの歴史家エドワード・ギボンが『ローマ帝国衰亡史』の中で、偉大なローマ帝国が滅亡した原因をローマ人の道徳の衰退、精神性の衰退にあると看破したように、道徳は文化の根幹を成すものです。徳育が行われなくなることによって、道徳が時間の経過と共に衰微していくというのは、我々も日常生活の中で多かれ少なかれ実感しているところでしょう。

  とはいうものの、ある文化の中で共有されている道徳は、そう易々と消滅するものではないようで、それと意識せずとも人々の中に存在し思考や行動を規定し続けています。昨今、不倫の発覚した芸能人や覚醒剤使用で逮捕された元スポーツ選手が非難を浴びていますが、非難されるのはそうした行いがその文化の中で共有されている道徳に悖るからでしょう。

  しかし、それでも徳育が行われなければ道徳が衰退していくことは間違いないわけで、そのことが組織の人材育成においても既に大きな問題となって現れています。例えば、上役が若手社員にある道徳上の誤りを咎めたとして、若手社員の方にその道徳が欠落している、あるいはまだ身に着いていないため、何故咎められるのかが分からない。一方の上役の方もその道徳を無意識に体得して当然視していたために、何故誤りなのかが言語化できないといった具合です。いみじくも、今回のセミナーで行われたディスカッションの中である技術系の経営者の方が言っていました、「技術より人間性が仕事では大事だ。だが、それをどう教えていいかが分からない」と。

  さて、道徳はあらゆる文化に共通する点もありますが、多くはその文化の歴史と共に独自形成され共有されていきます。それではわが国の道徳や精神性の基礎にあるものとは何なのでしょうか?丹羽先生によれば、それは神道・仏教・儒教だということです。

神道:明・清・静を尊ぶ精神
仏教:因果・因縁・恩の概念
儒教:修己治人の思想

  これらが相俟って日本人の道徳や精神性を形成してきたと考ると、今回のテーマである「人材育成」は、最後の「儒教」の部分が大きな要素を占めていると言えます。そこで、以降は儒教を主とする東洋思想の考え方からお話が展開していきました。

  さて、徳育の「徳」とは「人を人たらしめている要素」と置き換えることができますが、儒教では徳を「仁・義・礼・智・信」の五つに分類しています。それぞれ難しい概念ですが、ここでは、

仁:愛
義:全体に対する部分のあるべき姿、理想の姿
礼:全体と部分の調和
智:理性
信:期待される役割を果たす力

と理解します。これらの要素を備えた人こそ、日本では無意識に「人物である」と見なされているのです。丹羽先生によれば、これら五徳のうち現在の日本で最も欠けてしまっているのは「義」なのだそうです。「人材を育成したいがどのような人材にしたいのかが分からない」、「社会に対する自社のミッションが描けない」といった問題が随所で起こっているのも、「義」の欠落に起因しているのでしょう。

  最後に、人材育成の要点と方法について。まず第一に「修身」が基本であるということです。「修己治人(己を修め、人を治める)の学」と言われる儒教では、「修身→斉家→治国→平天下」という順序を定めており、周囲よりまずわが身を正すことを重視しています。修身はさらに「己の認識を正すこと(格物・致知)」と「己の行いを正すこと(誠意・正心)」に分けられますが、何を基準に認識や行動を正すかといえば、それは先ほどの五徳(あるいは五徳の事例である聖賢の教え)になります。中でも前述の話に照らせば、その過程で「義」を抽出し共有する必要が特に現代ではあるでしょう。

  「修身」とはまた、「偏りなく公平に人と接すること」でもあります。よく好悪感情が対人認知に歪みをもたらす例として、ハロー効果(一部の印象が全体の印象を規定すること)などが指摘されていますが、「修身」とはそうした認知の歪みを極力失くすためにその原因である自分を見詰め続ける(慎独)行為だとも言えます。

  次に、人材育成の留意点について。ここでは「結縁(けちえん)」、「任用」、「賞禄の別」の三点が挙げられていました。

  「結縁」とは「常に問いを持つこと」。心理学にカラーバス効果と呼ばれるものがあります。意識していることほど関係する情報が自分のところに舞い込んでくるようになるという効果で、これは無意識に脳がその情報を検索するからだと言われています。ニュートンはリンゴが落ちるのを見て万有引力の法則を思いついたのではなく、万有引力の概念について問いを持ち続けていたから、リンゴが落ちるのが目に入ったというわけです。同様に、人の能力を覚醒させる契機は適切な人や書物との出会いにあります。その適切な出会いをもたらすために大切なのが本人の中に「問いを持ち続けること」だということです。

  「任用」とは「任せて用いる」こと。立案から実行までを任せるという意味で「使用」とは異なります。

  「賞禄の別」とは、「仕事の実務能力と人の上に立てる能力とは別であり、これを明確に分けなければならない」ということです。

  第三に、人物評定法として「五観」が紹介されました。これは中国の戦国時代、魏の名相李克(李悝)が人を観察する要点として挙げたものだそうです。

・居ればすなわちその親しむ所を観る…平素どういう人物と親しいかを観る。
・富めばすなわちその養う所を観る…金があるならばどう使うかを観る。
・達すればすなわちその挙ぐる所を観る…出世した後、どういう人物を登用するかを観る。
・窮すればすなわちその為さざる所を観る…人は窮すると何でもしてしまうが、何をしないかを観る。
・貧すればすればその取らざる所を観る…貧乏しても節度を保っているかを観る。



  古典は短い表現の中に深い意味が凝縮されているので、考えれば考えるほど思考が広がってしまいます。ゆえに興味が尽きないのですが、逆にこうして要約するとなると実に難しいものだと思いました。

  次回、第69回YMSは3月9日(水)開催予定です。

過去のセミナーレポートはこちら。

繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第67回YMSを開催しました

2016年02月11日 | YMS情報


  2月8日、沖縄県浦添市の株式会社てぃーだスクエアにおいて、第67回YMS(ヨコハマ・マネージャーズ・セミナー)を開催いたしました。

  今回は第16回YMS以来4年ぶりとなる他の経営者の会との合同開催、そしてYMSとしては初の横浜の外に場所を移しての開催となりました。



  初めに、今回の開催に多大なご尽力をいただきました、株式会社てぃーだスクエア代表取締役 嶌田 浩司様より開会の挨拶を頂きました。

  続いて、沖縄側の会「沖縄和僑会」様より、活動概要のご説明を頂きました。「和僑会」は香港で設立された「香港華南起業家ネットワーク」を母体とする世界で活躍する日本人企業家のネットワーク組織です。「和僑」とは言うまでもなく華僑の日本人版ということですが、現在香港、深圳、北京、上海、タイ、シンガポール、プノンペン(カンボジア)などの海外地域他、北海道、中部、東京、九州、そして沖縄と国内にも拡大しており、世界大会も行われているそうです。ベトナムやフィリピンにも準備会があると伺いました。



  そして、YMSからも活動の主旨と内容についてご説明させていただきました。「YMSのご紹介」は4年前にYoutubeにて公開しておりますが、それから4年が経過し新たな要素も追加した2016年版でお話させていただきました。



  さらに、参加者それぞれの事業説明および自己紹介の後、自由な意見交換が行われました。業種も地域も全く異なり、しかも初対面ではありましたが、自然発生的に想像以上の活発なやり取りが展開しました。企業個別の課題もさることながら、横浜側としては沖縄の潜在的な可能性のほかに、外からは窺い知ることの難しい課題も知ることができました。また、沖縄はその市場の大きさや地政学的特徴ゆえに、東・東南アジアとの経済的結びつきが思っていた以上に強いという事も感じることができました。



  夜は懇親会上に場所を移し、さらに多くの参加者も加わって親睦を深めることができました。南国の熱と共に1,500km離れた仲間達の熱い想いを一身に浴びることのできた濃密な時間だったと思います。横浜にもぜひ来ていただきたいですね。

過去のセミナーレポートはこちら。

繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

テクニカルショウ・ヨコハマ2016に出展しています

2016年02月03日 | リサイクル(しごと)の話


  本日、2016年2月3日から5日まで、横浜のパシフィコ・ヨコハマ展示ホールC-Dで開催されている、「テクニカルショウ・ヨコハマ2016(第37回工業地術見本市)」に出展しています。
  
  昨年は、580社・団体が出展、3日間の総来場者数27,015人、県下最大の工業見本市だそうです。




  弊社は、昨年受賞した、「かながわ産業Navi大賞2015」の受賞製品ブースにて、エコ部門大賞を受賞した「特殊紡績手袋よみがえり」シリーズをはじめ、繊維リサイクル製品を中心に展示を行っております。

  会場では、日頃お世話になっている製造業の方々も多数出展されていました。



  東京光音波株式会社様。



  株式会社スリーハイ様。



  株式会社オーク様。



  トーカイ工業株式会社様。



  株式会社赤原製作所様。



  株式会社コイワイ様。

  どうぞお気軽にお立ち寄りください。

繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2016年1月アクセスランキング

2016年02月01日 | 人気記事ランキング


  明後日は節分です。まだまだ厳しい寒さが続いていますが、咲いている梅などを見ますと、春は一歩一歩近づいているようです。

  さて、2016年1月にアクセスの多かった記事、トップ10です。
 
  まず、この度黄綬褒章を受章されたこともあって、上田和男さんの記事が第1位となりました。2位は弊社新年会の記事。
 
  アメリカン・フットボールの日本選手権“RICE BOWL”が3位。昨年にわかに人気が戻ってきたラグビーは、決勝ではなく準決勝が6位にランクインしました。

  地元の話題なのですが、「L'Atelier build-ハマの洋食屋さん」も4位と多くのアクセスがありました。

  10位「久村俊英さんの超能力を目撃してきました」は、ついに16カ月連続のランクインです。

1 「上田和男さんバーテンダー歴50年を祝う会」に参加してきました
2 2016年新年会を開催しました
3 第69回 RICE BOWL パナソニックvs立命館大学
4 L'Atelier build-ハマの洋食屋さん
5 第66回YMSを開催しました
6 ジャパンラグビートップリーグ・プレーオフ2015・リクシル杯準決勝 パナソニックvs神戸製鋼
7 その他
8 【ダイエット日記】2015年は失敗でした…
9 カテゴリー毎の記事一覧(リサイクル(しごと)の話)
10 久村俊英さんの超能力を目撃してきました

繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする