こちらも18年振りに訪れた今帰仁城です。当時は麓までバスで行き、そこから歩いて登ったのですが、途中で脱水症状を起こし、城に着いた時には9月の暑い盛りだというのに寒気でガタガタ震えていた思い出があります。当時は今のようにきれいに整備されておらず、全く人気がありませんでした。幸い古ぼけた自動販売機が一機だけあり、それで救われましたが…。今帰仁城、今まで見てきた沖縄の城の中で最も好きな城です。
今帰仁城の図(クリックすると拡大します)
発掘調査によると、今帰仁は13世紀末頃から現地の有力者によって簡単な城が築かれていたことが分かっています。最盛期は14世紀、三山鼎立の時代。怕尼芝(はにし)、(みん)、攀安知(はんあんち)と三代91年続いた山北(北山ともいう)・怕尼芝王統の時代でした。山北の版図は現在の本島北部域に分類される地域とほぼ同じ、恩納村、金武町以北と三山の中で最大の広さを持ち、出土品から中国や東南アジアと盛んに交易を行っていたことが分かっています。しかし、明への朝貢回数が最も少ないことから、実際の国力は三山の中で最も低かったと考えられています。
今帰仁城は自然の絶壁の上に築かれた堅固な城塞でした。中城や座喜味城で見られたような成形された石積みではなく、本部層の古生代石灰岩の自然石を積み上げた野面積みと呼ばれる技法で石垣が造られています。因みに、中城も座喜味城も新生代の石灰岩で、石の色の違いによりそのことがよく分かります。
1416年(1422年との説もあります)、中山の尚巴志は総勢3,500人の山北討伐の軍を興します。たった3,500人と思われますが、1609年の島津藩による琉球侵攻時の琉球王国側の軍勢が約4,000人だったことを考えると、三山鼎立の時代にあってはほとんど総力戦ともいうべき大規模な軍事行動であったのではないかと思われます。しかし、そうであったとしても、実際に城を歩いてみると、これほどの城塞が本当にわずか3,500人の軍勢で陥落したのか、疑わしくなります。
そこで山北征伐について調べてみました。中山軍は尚巴志率いる海路の本軍2,700人と護佐丸率いる陸路の第二軍800人の二手で侵攻しました。そして北山王攀安知をおびき出すことに成功した本軍が城外で交戦している間に、城内にいた攀安知の家臣、本部平原が裏切り、呼応した第二軍が突入。今帰仁城は陥落したということです。史書『中山世鑑』や『中山世譜』は攀安知を「武芸絶倫」、「淫虐無道」と評していますが、琉球王朝側の史書なので実際どうだったのかは分かりません。
どこの国、いつの時代でも歴史が「勝者の記述」であるという点では同じです。「中城跡」で取り上げた勝連の阿麻和利も、「阿麻和利の乱」で反逆者の烙印を押されていますが、地元では名君として讃えられています。
琉球の歌謡集である『おもろさうし』には勝連の繁栄を「大和の鎌倉のようである」と讃える歌が収められていますし、そもそも阿麻和利という呼称自体、「天降り(あまふり)」を意味する尊称だとする説もあるほどです。
長くなってしまいましたが、上の絵図に沿って今帰仁城の様子を順次ご紹介していきたいと思います。初めに外郭(①)。外郭は高さ2mほどの低い石垣が数百mにわたり蛇行して続いています。発掘調査により、ここには屋敷の跡が確認されています。
平郎門(②)。現在のものは1962年(昭和37年)に再建されたものです。1713年に国王に上覧された琉球王国の地誌『琉球国由来記』に、「北山王者、本門、平郎門ヲ守護ス」の記述が登場します。
御内原(後述)より見下ろした大隅(ウーシミ)(③)。最も高い石垣が築かれた堅牢な城郭で、兵馬を訓練する場所だったと伝えられています。
カーザフ(④)。カー(川)+ザフ(迫)、つまり谷間の意。谷間の断崖絶壁に城壁が積み上げられており、鉄壁の防御を誇ったと想像できます。
大庭(ウーミャ)(⑥)。政治・宗教儀式が行われていたと考えられている場所で、正面に正殿(主郭)、右側に南殿、左側の一段高い所に北殿があったと考えられています。
ソイツギ(城内下之御嶽)。大庭の北西にあり、前述の『琉球国由来記』には「城内下之嶽」、神名「ソイツギノイシヅ御イベ」と記されています。「ソイツギノイシヅ御イベ」とはイベ(聖域)の名前らしいですが、「ソイツギ」は「添い継ぎ」?「イシヅ」は「礎」?名前の意味が分かりません。ご存知の方がいらっしゃいましたらご教授頂きたいと思います。いずれにせよ、旧暦八月のグスクウイミという祭祀の時、今帰仁ノロ(祝女)が五穀豊穣を祈願する場所のようです。風水でも北西は最も位が高く(天(乾)の方位)、神様を祭る方位とされていますね。
御内原(ウーチバル)(⑦)。女官が生活した場所と伝えられ、城内でも神聖な場所。大隅の写真の通り、北側から海を一望することができます。
主郭(⑧)。正殿のあった場所。現在見られる礎石は、山北滅亡後、中山から派遣された監守が使用していた建物の跡です。
志慶真門郭(シゲマジョウカク)(⑨)。城内の東端に位置し、城主に身近な人々が住んでいたと考えられます。発掘調査によって4つの建物があったことが確認されていますが、その大きさは6m四方または5m×4m程度で、現在の一般的な住宅の大きさからみてもかなり小さい建物です。また、発掘により志慶真門郭と大庭を繋ぐ通路石敷が確認されています。郭の南端にはかつて志慶真門があったことも分かっています。
今帰仁城跡
沖縄県国頭郡今帰仁村字今泊5101
繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした