わが家の墓がある、北鎌倉円覚寺。お盆の墓参りついで、久し振りに境内を散策して来ました。
円覚寺は
弘安の役の翌年、1282年に
北条時宗により創建。中国より
無学祖元を招き、元寇による日本、元、高麗全ての戦死者の菩提を弔うために建てられたと言われています。
鎌倉五山の第二位であり、多くの観光客が訪れる名所でもありますので、一度は訪れたことのある方も多いのではないかと思います。
円覚寺の「円覚」という寺号は、寺地として選定された場所から石櫃に入った円覚経を掘り出したことによると言われていますが、恐らく後世に作られた話であろうと思われます。
同じように、円覚寺の山号を「瑞鹿山」といいますが、これは円覚寺落慶開堂の日に無学祖元の法筵(ほうえん:仏法を説く席の意)に列するために、上の写真にあるような洞中より白鹿が現れたという言い伝えに由来します。この洞は「白鹿洞」といって、現在も境内に残っていますが、恐らくこれも伝説でしょう。一昨年訪れた中国蘇州の「
虎丘」にも似たような言い伝えがありました。こちらの場合は、春秋時代、呉王闔閭(こうりょ)の葬儀の3日後に墓の上に白い虎が現れたことから、虎丘と名づけられたのだと言われています。
さて、生憎の雨模様の中、ざっと散策しただけに終わった境内ですが、まずは山門から。こちらの立派な山門は1783年、円覚寺中興の祖と言われる大用国師誠拙和尚により再建されたものです。ちょうどこの時期はこの山門周辺で毎年盆踊りが開催されています。僕も2年前、参加してきました。
その後ろにあるのが仏殿。新しく見えるのは、この建物が1964年の再建であるためです。
仏殿内の宝冠釈迦如来像。
選仏場。1699年建立の元座禅道場です。「選仏場」とは文字通り、修行の結果、仏を選び出す場所という意味でしょうか。
その隣にあるのが、居士林。居士、すなわち在家の修行者のための座禅道場です。この建物は東京牛込にあった柳生流の剣道場を移築したものです。1928年、柳生徹心により寄進されました。
柳生新陰流は、『
兵法家伝書』を著した
但馬守宗矩が臨済僧
沢庵に強い影響を受けていたことで知られていますし、剣禅一致を唱える流派ですから、この円覚寺とも深い関わりがあったかもしれません。
禅宗様を代表する建築、国宝
舎利殿(写真奥)。源実朝が宋の能仁寺から請来した仏牙舎利(お釈迦様の歯)を奉安する堂です。立入禁止のため、遠くから眺めることしかできませんでしたが、歴史の教科書に必ず写真が載っていますね。
わが家の墓がある仏日庵の開基廟(写真奥)。開基、すなわち北条時宗の廟所であり、時宗のほか、貞時(時宗の子、9代執権)、高時(貞時の子、14代執権)の廟所でもあります。堂内には彼らの尊像が安置されています。また、この仏日庵にある
烟足軒という茶室は、
川端康成の小説『
千羽鶴』の舞台となったことでも知られています。
黄梅院。元々、北条時宗夫人の覚山尼が時宗の菩提のために建立した華厳塔があった場所ですが、後に
足利尊氏が禅僧
夢窓疎石の塔所として建立したものです。したがって、上の写真のように、ここだけは北条氏の家紋である「三つ鱗」ではなく、足利氏の「丸に二つ引両」が見えます。
1301年、北条貞時が国家の安泰を祈って寄進した国宝洪鐘(おおがね)。鎌倉時代の代表的な梵鐘です。1284年に父時宗の病死を受け、わずか13歳で執権に就任。以降、
霜月騒動など縁者や北条得宗家内の度重なる内紛や、元寇後も未だ消えない外敵からの脅威に晒された貞時の祈りが感じられます。しかしながら、北条氏(鎌倉幕府)は貞時の息子高時の代で32年後に滅亡したのでした。
円覚寺
神奈川県鎌倉市山ノ内409
繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした
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