忘れてはならない有名な詩があります。それは張継の「風橋夜泊」です。この詩、誰でも一度は目にしています。そう、水戸黄門等の活劇物等で悪代官や悪徳商人、越後屋なんかの床の間に飾ってある掛け軸です。
で、必ず黒地に白抜きの文字です。そして決まった書体で書かれています。
普通、白地に黒の墨で書くのでありますが、何故かこの詩はこれで掛け軸を仕立てているのを多く見かけます。それは何故かというと、下の写真にあるように、この石碑に墨を塗って紙を貼って取る拓本だからなんですね。
この詩の掛け軸は黒地の物が多いのです。だから石碑と同じ大きさになる訳ですね。それに石碑は曲がって立っている所為か何故か斜めになっているものも多いです。(笑)
江南の蘇州は名刹が多いので多くの詩人が訪れては詩を詠みます。
張継は襄州・常陽県の出身。「753年は(天宝12年)に進士に合格、安史の乱に際して江南に逃れ、越州(浙江省・紹興市)・杭州(浙江省・杭州市)・潤州(江蘇省・鎮江市)などを歴遊します。初めは節度使の幕僚となり後に塩鉄判官となった。766年(大歴元年)頃朝廷に入り持御使、検校祠部郎中に任じられた。770年洪州(江西省・南昌市)の地方官として転出、同地で没した。博識で議論好きな性格で政治に明るく公正な政治家だという事で評判があった。
道士のような風貌であった。因みに、節度使とは唐の中期以降均田制の崩壊に伴って、府兵制による辺境の防備が出来なくなると唐王朝は募兵制に切り替えて地方有力者の子弟を募集して募兵として軍鎮を置いた。その上に一定地域の統括をする藩鎮を置き募兵集団の司令官として節度使を任命した。本来律令にない令外官であり、それまでの都護府に代わり辺境の防備に責任を持ち行政権も与えられ強大な地方権力に成長するようになります。節度使は710年(平城京が出来た年だね)から始まって安西、北庭、河西、朔方、河東、范陽、平廬、隴右、剣南、嶺南の10節度使が設けられた。有名な安禄山や清代の西太后の時の李鴻章が節度使でした。
挿絵だと情感が増します。でも実際の橋と比べると勾配がきつすぎます。やはり人が通れないとね。右は昔の客船。
月落烏啼霜満天
江楓漁火対愁眠
姑蘇城外寒山寺
夜半鐘聲到客船
詩の解説説明が要らない位分かり易いよね。
月が沈み烏が鳴いて、空には冷たい霧が降る気配が満ち溢れている。川岸の紅葉した楓の間に見えるあかあかとした漁火がてんてんとして、旅愁のために眠り兼ねている私の眼前にうかんでいる。夜半、蘇州郊外にあるここ寒山寺の鳴鐘が私の乗る船に響き渡る。
針外しは、江南の春とか、こういう情景が浮かぶ詩が好きなんですね。