怒りに触れる
前回、「福井県民の生活にふれあうことに」という例を挙げ、正しくは「福井県民の生活にふれることに」だと書きました。そして、昨日、面白い投稿ビデオを紹介する番組を見ていて、16歳の男の子が「地域の人たちにふれあっていきたい」と言うのを聞きました。その心掛けは素晴らしいのですが、惜しいですねぇ、日本語がいけません。さらに、テロップはというと、「地域の人たちに触れ合っていきたい」ですよ、こちらはプロですよ、これで給料をもらっている人なのに、なんてこったい、こりゃだめだ( ̄д ̄)!
「生活にふれあうことに」については、「生活に」なら「ふれ合う」ではなく「ふれる」ですが、テロップが「ふれあう」でしたし、役所の文書でも「ふれあう」が多くなっているので、「○と△がふれ合う」というのをイメージできないのだろうか、というふうに考えました。そこへこれですから、やっぱり若い人はみんな「~とふれ合う」「~にふれる」の区別がつかないのかも~~~( ̄ ̄)。テロップの「~に触れ合う」はもはや問題外! そんなあほなこと書いてて給料もらうな!
それだけではなくて、ちょっと気になるのが、背景に自己中心ということがありはしないかということです。「ふれる」と「ふれあう」を比べると、その意味は別として、「ふれあう」のほうが響きがいいですね、だから、本来「ふれる」と言うべきところで「ふれあう」と言ってしまう、さらに、「ふれあう」と言っているのは口先だけであって、感覚としては、「~と互いに~合う」ではなく、「~に対して一方的に~する」なのではないでしょうか。
この16歳の男の子の場合、自己中心というより、自分から積極的に地域の人たちに声をかけていく、働きかけていく、という気持ちが強くて「地域の人たちに」になってしまった、そして、「働きかけていきたい」という具体的な表現ではなく、よりソフトで響きのいい「ふれあっていきたい」という言葉が続いた、ということなのだと思いますが・・・、正しくは「地域の人たちとふれ合っていきたい」です。う~む、皆さんはどのようにお考えになりますか?
前回、「福井県民の生活にふれあうことに」という例を挙げ、正しくは「福井県民の生活にふれることに」だと書きました。そして、昨日、面白い投稿ビデオを紹介する番組を見ていて、16歳の男の子が「地域の人たちにふれあっていきたい」と言うのを聞きました。その心掛けは素晴らしいのですが、惜しいですねぇ、日本語がいけません。さらに、テロップはというと、「地域の人たちに触れ合っていきたい」ですよ、こちらはプロですよ、これで給料をもらっている人なのに、なんてこったい、こりゃだめだ( ̄д ̄)!
「生活にふれあうことに」については、「生活に」なら「ふれ合う」ではなく「ふれる」ですが、テロップが「ふれあう」でしたし、役所の文書でも「ふれあう」が多くなっているので、「○と△がふれ合う」というのをイメージできないのだろうか、というふうに考えました。そこへこれですから、やっぱり若い人はみんな「~とふれ合う」「~にふれる」の区別がつかないのかも~~~( ̄ ̄)。テロップの「~に触れ合う」はもはや問題外! そんなあほなこと書いてて給料もらうな!
それだけではなくて、ちょっと気になるのが、背景に自己中心ということがありはしないかということです。「ふれる」と「ふれあう」を比べると、その意味は別として、「ふれあう」のほうが響きがいいですね、だから、本来「ふれる」と言うべきところで「ふれあう」と言ってしまう、さらに、「ふれあう」と言っているのは口先だけであって、感覚としては、「~と互いに~合う」ではなく、「~に対して一方的に~する」なのではないでしょうか。
この16歳の男の子の場合、自己中心というより、自分から積極的に地域の人たちに声をかけていく、働きかけていく、という気持ちが強くて「地域の人たちに」になってしまった、そして、「働きかけていきたい」という具体的な表現ではなく、よりソフトで響きのいい「ふれあっていきたい」という言葉が続いた、ということなのだと思いますが・・・、正しくは「地域の人たちとふれ合っていきたい」です。う~む、皆さんはどのようにお考えになりますか?