11話。
レオとガウェイン。
価値観の違った2人ですがEDで同じ方向を向いているのがグッときますね。
王としての姿を描いた10話の関係との対比も効いている感じ。
1000年後の世界でようやく2人の見るべきところが定まった感じというのもいいなと。
やはりレオの変化が特にグッとくるきますね。
今作ではEDの細居さんのイラストが毎回楽しみで、
トワイスと覚者はどういう感じになるだろうと思っていたら無くて残念。
12話。
眼差しを描くっていうと横顔の絵になりますが、
ここでは表情を見せずに天を仰ぐ芝居をしてるのが目を引かれたな。
特にシャフ度とかやや引いた絵とかシャフト的な画作りが続く中で、
こういったあまりアニメで描かれない芝居に目を引かれます。
空を見上げることでコートの襟に髪が掛かる感じなんかも、
新鮮な髪の芝居という感じでGOODだったな。
直前の11話のEDで眼差しを強調されるからこそ、なお光るカットだったかなと。
本来は救世主となり得た男の姿としても印象的かな。
剣を託す。
1話で剣を抜きますが、選定の剣を抜くという意味合いがここで強調されている気がするな。
なぜムーンセル中枢にかけられた防壁を破壊できたのかっていうのは、
ハクノがこのために選ばれたものだからっていう意味合いを含んでる感じがするというか。
まあセイバーが宝具を止めたからからとかその辺の理由のがそれっぽいですが。
血の関係、みたいのを1話のネロとハクノ関係で触れられていたような気がしましたが、
血が流れるような場面は少なくなり、最後の薔薇と炎で彩られる赤を見ると、
花を愛でる感情、4話でネロがハクノに説いたこと、
それをハクノが己のものにしたことに触れられているような気がしたな。
ハクノの回想で森林の中のネロが出てくるのも納得というか。
憎しみという感情から遠のいたことを血の描写を遠ざけることで表現されてる感がするなと。
光の集積体。
ブラックホールのように物語の可能性を飲み込み粒子を放出し、
その集積体が可能性の集合体となる、というイメージなのかな。
宇宙的なイメージと回路のイメージなのかなとか。
光を集める表現っていうのが自分の好みなのでちょっと引っかかったかな。
地上に降り立つ凛。
髪の色がSERAPHの時のままなの、ただのミスなのかSERAPHと地続きという描き方なのか。
ゲームで凛がいた建物が修復されていたので、
肉体も復活したという感じなのかな。
FGOのエレシュキガルはやっぱこの凛が依代なのかな。
ハクノの死の先に立つもの、死の先に立つものっていう感じですし。
ゴースト好き公言してたのもそれっぽいですし、ランサーだし?みたいな。
今作では復活と救世主が裏テーマだったのかなという気がする。
1000年という時の中で覚者に代表されるような悟りを開く者というのは現れず、
代わりにキリスト的な死から復活したものを救世主とするような感じが引っかかる感じ。
そもそも原作では覚者、つまりは仏陀がラスボスというのが衝撃的だったので、
1話冒頭で覚者が出てきたことで覚者による世界の終わりが描かれるような雰囲気があったので、
最後に覚者が出てきてその考えを聞けることを期待していただけに、
ちょっと肩透かしな感じだったな。
ただ原作ゲームからただトワイスに従っていただけという感じだったので、
結局それだけだったのかもしれない。
ただ岸波白野が破れたことで世界が救われず、
FGO2部で言うところの剪定される世界となったと考えるなら、
チャクラバルティンは召喚された覚者自らの世界への慈悲、
1000年というタイムリミットは人類に対する慈悲だったのかなとか思えたり。
まあそれもデッドフェイスになる前の消え去ったトワイスの過去の意思、なのかもしれませんが。
各話感想で追ってきましたがとりあえず全体の印象とか。
ゲームとアニメの違いというとプレイヤーの存在があるように思うんですが、
1話冒頭での岸波白野の敗北はプレイヤーの不在を突きつけられている気がしたな。
そもそもゲームのラスボスとして格が違いすぎるように感じるところもあり。
それでもゲームで覚者に勝ててしまえるのはリトライの存在、
勝つまで繰り返すことができるというのがあるせいかなと思えるので。
原作のサーヴァント戦は雑魚戦と違って負けると自動的にコンテニューできる。
プレイヤーが勝つまでリトライすることが可能なのがゲーム。
そしてそれができないのが物語という語り口だったように思える。
勝てるわけなさそう相手でもゲームでは勝てるようになっている、
しかしプレイヤーという前提を抜いた場合の運命はこの物語のようになる、
という感じで、改めてトワイスと覚者の存在感を描かれた印象だったな。
第3階層、ありすの話でもその辺り触れられているような気がしたな。
本はページを戻せば元の物語に戻れる。
映像も巻き戻せば、チャプターで移動すれば好きな場面に戻れる。
でもゲームではプレイヤーが歩いた道筋、勝ち筋、コマンド、
メッセージを送るタイミングなど、全てを全く同じように戻すことはできない。
シナリオパートは同じでも、そこに至るまでのプレイヤーの操作は無数に存在し、
勝ち筋も決して一本道ではない。
何度もリトライする人もいるだろうし、高レベルまで上げてから難なく勝利する人もいる。
勿論プレイを録画して残すことも可能だけど、それは既にゲームをプレイしているとは言えない。
そういう色々な前提があってのLast Encoreという作品だったかなと。
今FGOでやってる夏のイベントやEXTELLA、
未プレイですが『Fate/hollow ataraxia』なんかもそうですが、
いわゆる一種のループものに対する価値観を描かれているような印象もするかな。
シュタインズゲートやまどか☆マギカなど主体的にループする物語が目を引きますが、
敵に意図的に囚えられるのが型月のループものの醍醐味みたいな印象があるというか。
ノベル形式のゲームであればプレイヤーが選択肢を選ぶので、
失敗して何度もリトライをするのはプレイヤー側として認識され、
主体的に未来を変えていくような描き方になりますが、
決してそうではなく、意図して閉ざされてしまった未来を獲得するのが型月流、
という風に言われている気がしたなと。
特に今EXTELLAをプレイしてますが、オートセーブで過去のシナリオに戻れない、
やるならまた最初からする必要があるなど、
ゲームに関してもリトライに対する考え方に触れられている気がしたな。
他には前にも触れたように芥川の蜘蛛の糸を連想させられたりとか、
仏教的な意味合いとか各階層にあるかなとか色々考えてしまいましたが、
そういうのには明るくないので疑問で終わってしまったな。
ゲームとは全く違ったEXTRAを見ることができて個人的には満足度の高い作品でした。
今後もFate関連の弾は結構あるのでこの先のアニメ化作品も楽しみです。
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奈須きのこ氏のインタビューが載っていた。
自分の印象とだいぶ近かったのでそんなに読み違いはしていなかったのかな、など。
このアフィ貼ろうとして間違えてタブ消して前書いてた文章を丸ごと消してしまったのが結構ショック。
Fate熱出てるんでもっと詳細に色々Fate関連のこと調べて書いたので残念。
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