S見終わりました。
外部戦士たちが途中から目立たなくなってテンポ変わってから、
どうもその流れに載れなかったのですが、最後まで見て、この流れに納得。
目的は同じだが、そこに至るまでの道筋の違い。
そこで起こる衝突を描いてたのがSだったんだなぁ、と。
しかし、それを描ききるには子供番組としてはよろしくなかったのか、
セーラームーンの考え方を強調したかったためか(恐らく両方でしょうが)、
外部は隠れなければならなかったんだろうなぁ、と。
その辺うまくフォローしてあって好感が持てました。
これにより、セーラームーンの考え方をスムーズに伝えられていたと思いますし。
124話 迫り来る闇の恐怖!苦戦の8戦士
125話 輝く流星!サターンそして救世主
脚本:榎戸洋司
絵コンテ:佐藤順一
作画監督:伊藤郁子
脚本・コンテ・作監が連続で贈るクライマックス。
世界を崩壊へと導いてしまったセーラームーンを攻めるウラヌス。
この辺、最後までセーラームーンをメインに映してる辺りが凄い。
ウラヌスやサターンの主張を聞いてなお、その上をいかなければならない。
そうしなければならない、という意志を繋ぎとめてるのが伝わってくる。
叫んでも二段変身できない苦痛。
変身シーンは常に特別な時間軸、演出空間(アニメ的リアリズム)の中にありますが、
ここではそういったものと差別化して、長回しで変身できない現実をひたすらを突きつけている。
思わず涙ぐんでしまう瞬間。
その後の流れを見て思ったんだけど、
なんでここでセーラームーンはプリンセスにならなかったのかな?
セラムンって女性が憧れるプリンセス像を置いて、
プリンセスだから彼氏がいる、プリンセスだから凄い恋愛ができる、
プリンセスだから清い心がある、プリンセスだから慕われる、
という優越感や特別性、超越性をアピールしてるんだけど、
ココの場合、そのプリンセスだからこそ乗り越えなければならない、
譲ったらいけない意志というのを扱っているようで見てて興味深かった。
実際に上に立つものは決断を下したら、それを成し遂げなければならない、
それができなければならない、というのを突きつけてくる。
それって、プリンセスに単純に憧れてる視聴者からしたら結構つらいと思うんだよな。
それを思ってか、ここでは1期、Rのようにプリンセスには変身しない。
プリンセスは絶対者なのでこの状況を必ず救ってしまう。
ウラヌスもネプチューンの怒りも全部静めてしまう。
納得いかなくても、必ず。
しかし、セーラームーンがプリンセスであることは変わりない。
リーダーであり、セーラー戦士の意志を引き受け、成し遂げなければならい。
そういうセーラームーンとしての立場の『辛さ』を押し出してるのは凄いなぁ、と。
あえてプリンセスを出さないことで、セラムンの辛さを味あわせる今作は、
明らかに今までのシリーズとは毛色が違いますね。
Sが人気が高いのは、
こうした選択や立場による縛りなどのリアリティに寄るところが大きいのかもしれませんね。
その意志があるからこそ、仲間もプリンセスだと認めているという裏打ちにもなっている。
これは126話でウラヌス、ネプチューンを説得する際にも強調されています。
壊滅した都市の中に立つ赤ん坊を抱いて立つ戦士。
なんだかAKIRAを思い出しますね。
何気に漫画は講談社繋がりだったりします。
多くのクリエーターに影響を与えた永井豪も講談社。
MMRも講談社。
こうやって見ていくと90年代のアニメの終末論には講談社がついて回ってる気がします。
個人的には昭和という戦争を体験してない年号と分断され、
平成という年号のまま00年代に突入した90年代は、
数字上でも混沌としてるようで面白いなぁ、とか思います。
どうでもいい話でした。
126話 新しき生命!運命の星々別離の時
脚本:杉原めぐみ
演出:遠藤勇二
作画監督:中村太一
原画:中村プロ 中村太一 中山久司 奥野浩行 高村和宏
ウラヌスとネプチューンとの和解、そして別れの回。
中村作監でうーん、とか思ってたら戦闘シーンがなかなか凝ってる。
オバケもそうですが、アングルやフレームいっぱいにふとももを描いたり、
煙のフォルムやタイミングが明らかに他と違って、
中村さん今回は凄いなぁ、と思ったら、
まさか中山(現在は森)さんと奥野さんが参加されてたとは。
原画にあがったばかりの頃だと思うんですが、そんな頃から知り合いだったんですかねぇ。
SSのスペシャルの回でも中山さんは参加されて、金田系の作画をしていたと思います。
wiki見ると劇場版の原画もされてるようですね。見るのが楽しみです。
劇場版はやく見たいなぁ。Rとか劇場版は凄く良いそうです。
どっかで一括で買えないものか。
●ちびうさ SからSSへの引継ぎ
Sのテーマとして『ちびうさの友達』というのがあります。
上がセーラームーンのテーマなら、こちらはちびうさのテーマ。
Rなどで助けられるだけ、居場所を守ってもらっていただけの子供が、
誰かの居場所になることを引き受けようとする一面を扱ってるように思いました。
これは力不足により達成されることはありませんでしたが
(セーラームーン同様、主役としての辛さを味合わされている)、
SSで『美しいの夢の中に宿るペガサス』というファンタジーを交えて引き続き描かれています。
子供に友達を守る力は無いということを突きつけたSですが、
SSにて『美しい夢をもっていれば、誰かの支え、居場所になる』という。
現実は無力でも、夢があれば誰かを助けられる、引き受けられる!と。
しかし、ペガサスの力でパワーアップってのはかなりファンタジー。
今まではセーラームーンの愛だとか、プリンセスとしての力だとか、
女性を優越感に浸らせるステータスやアイテムを提示することで、
パワーアップさせていくような一面だったのに、
いきなりそれとは関係ない奴に力を分け与えてもらうってのはどうなの?っていう。
それって今までの視聴者層からしたら違うんじゃないの?という。
子供的には選民意識が強調されるのでOKでも、女性的な目線だと違うんじゃないか、と。
この辺のバランスの捩れがセラムンシリーズを終焉に導いた一つの要因だと予想。
それほどの異物感。
SSに関してはまだ6話程度しか見てないので、
半分くらい見たらまた適当に感想書きます。
しかし、ちびうさのかわいさは凄いですね。
溢れ出る子供っぽさがもう可愛くて可愛くて。
SSでの活躍も楽しみです。勿論ヴィーナスも楽しみです(笑)