流星、夜を切り裂いて ~FLY HIGH~ ver.2

米たにヨシトモファン 京アニに興味あり アニメ語りメイン

劇場アニメ ベルサイユのばら を語る

2025-02-15 11:44:19 | ■アニメレビューとか
見てきました。
旧作のベルばらはあまり内容を覚えていなかったので新鮮な気持ちで見ることができました。吉村愛監督ということでミュージカル風の作風となりましたが、歌とイメージが挿入されるに止まり、人物たちが歌に合わせてダンスをするという形ではなかったので、あくまで物語のイメージを浮かび上がらせる装置という印象でした。旧作のイメージに囚われず、マリーアントワネットを中心とした煌びやかな世界のディテールが劇場作品という説得力を作っていたような気がします。中でもミュージカル的なイメージ空間ではキャラクターが存在する窓から窓への受け渡しなど、漫画のコマの考え方の延長からコマを越境するようなイメージが続き、また情報量に圧倒されました。演出的なアイディアだけでなく作画とCGの合わせや色彩、撮影など各セクションが浮くような形でなく、一体となって迫ってきて、画面の総合力の高さが感じられました。

構成としては前半がマリーアントワネット、後半がオスカルに焦点を当てているように思えたかな。前半が煌びやかに画面を彩る派手なシーンが多数見られますが、後半はそうしたシーンがあまりなく、制作上の都合なのかもしれませんが、マリー/オスカルで分かるならある程度納得のいく見せ方だったのかなという風に思えました。

沢城みゆきのオスカルは説得力が感じられて、現代のオスカルとして受け入れやすい感じだったかな。オスカルの死について、旧作は物悲しい気がしていました。オスカルの死が悲しい出来事を呼び込んだような印象もあったので。ただ今作はオスカルが男として育てられてその生涯を全うしたことを革命の成功と絡めて見せていて、そこに意味があったことを印象付けられている気がしました。多くの兵士たちがなぜオスカルについていくのか、なぜオスカルが肯定される存在なのか、というその意義を主張する感じが現在に本作を蘇らせる意味を感じさせてくれました。

オスカルの心情については丁寧に描写されている気がしていましたが、飛躍を感じたのはアンドレと一夜を共にする辺り。なんだろう、オスカルがアンドレに女性性を見せるための描写というのがやや不足していたように感じたんですよね。最終的には納得させられるんですが、人を導くカリスマ性、ある種の王としての振る舞いからのギャップも強く、自分が何か見落としていたのかもかなと思いつつも、ちょっと引っかかったシーンだったかな。

全体的に楽しんで見ることができたので、吉村愛監督の次回作も楽しみです。

【ネタバレあり】機動戦士GundamGQuuuuuuX(ガンダム ジークアクス)を語る

2025-01-19 13:09:23 | ■アニメレビューとか
見てきました。
こういった先行作品は見る必要性をあまり感じなかったのですが、何かあるっぽいので確認のため見てきました。

以下ネタバレ感想。



ネタバレ的には正直、タイトルに書いてあるので、ネタで「ジーク!アクス!」と書こうかと思っていましたが、予想通り過ぎてたかなという感。パンフ買わなかったので憶測ですが個人的に東地宏樹(かな?)にナレーションをさせるのがまず引っかかったな。トップ2の時の嫌味な参謀役やグレンラガンなどガイナ作品時代にヘイトを稼ぐをような役をやっていたので、ここでそのスターシステムを発動させる意図をまず考えてしまうよな、と。

宇宙世紀のifということでシャアがガンダムを奪取していたらどうなるか、というガンダムファンなら一度は考える妄想から展開していくのがなろう系の文脈のように思えたかな。ビグザムの量産やソロモンをグラナダに落下させようとするなど、ifと逆シャアの展開の先取りから、シャア消失の謎と繋げ、ある意味では逆シャア後を描く作品という位置づけのように思えた。

特に絵的にそれを感じたのはガンダムとシャアの顔のアップの多様。マスクをつけたシャアとガンダムを繋げる見せ方はどこかF91のエンディングを思い出しました。ユニコーンガンダムやハサウェイもですが、F91という作品に至る道筋でどの作品でも足踏みをしているように感じるのが不思議です。

ifのifで色々やってる感じですが、コロニー内の生活についても現代的な解釈をだいぶ入れている感じがしました。スマホや現代の若者的なキャラクター、コロニー内の神社という今までのガンダムではなかった宗教観の導入や現代的な風景の道筋によりサイド6は日本国由来のコロニーであることの意識づけなど、未来の宗教への考察不足ではないかとか、そういう未来的なガジェットを入れるよりは現代の風景を混ぜながらちょっと違う風景を入れればいいのではないか、という形だったのかな。Gのレコンギスタでも日本が出ていたりしたし、ZZは日本の俯瞰から始まるし、ガンダムは日本っていう解釈は突飛ではなく富野監督自身が触れてきた歴史があるので、だいぶ拡大解釈したなという感じがします。成り立ち的に水星の魔女が若者向けを意識したガンダムだったようですが、本作はそのもっと源流側にいる作品なのかな。

アムロやララァの不在、アレックスやその他1年戦争時にいたMSやキャラクターは出るのかなど気になるポイントはあるかな。Zガンダムの2年前に当たる?のでカミーユとかジュドーも出そうと思えば出せるだろうし。まあ初代を意識した作りでしょうから、あまり意識はされていない気もしますが。

キラキラに代表されるニュータイプの共感をどのように表現されるかは気になりますが、このキラキラってサンライズ作品だと谷口悟朗監督の『スクライド』辺りとそう変わらない設定というかイメージのように思えて、個人的に少し後退してしまったような印象を受けたかな。サンライズのアナザーガンダムの蓄積もあるため、画面から新しさを感じ取るには難しい作品かもしれないとも感じた。

これだけの方が揃っているのに画面は旧作意識の表現が並ぶのも気になったかな。イデオン前後の板野意識のミサイルなのかなとか、当時を意識した丸爆発を庵野方式でやってるのかなとか、そういうことをやる意義があるのだろうかとか、色々見ながら考えてしまった。シャアがガンダムの性能を愚痴るあたりからして本作はギャグ方向一歩手前という感じなので、割とむず痒いポイントがあるのが突き放した見方になる所以かな。ガンダム史的に様々な方向の中の一つという感じですが、その様々な方向に乗っかっているガンダムでもあるので、どこまでそこに乗っかりに行くのか。頭部を破壊の時点でGガンダムには乗っかってますし。

画的にはコロニー内の風景の描写がよかったかな。空気遠近で町が空に透けている感じとか、エルトリゥムだなと思いながら見ていましたが新鮮さは感じられたかなと。

今後の物語でニュータイプがどのように描かれているのかわかりませんが、新たに解釈されるガンダムがどのようなものになるか楽しみです。

その他
・MSを戦闘モードにする回路、テムレイの回路が引用元かな。
・駅での出会い、Zガンダムでカミーユとジェリドが宇宙港であったのを思い出す。
・ジオングがどうなったのか気になる。
・ガンダムがアウトローっていうのはZガンダムですでにやっているけど、時代的には鉄血後を意識してしまう。

ロード・オブ・ザ・リング ローハンの戦い を語る

2025-01-17 21:28:06 | ■アニメレビューとか
見てきました。
3部作の実写映画は公開当時見ていましたが、もうずいぶん昔なのでほとんど覚えていませんでしたが、そんな自分でも繋がりを意識できる作品でありました。神山健治作品として見に行きましたが、予想以上に楽しめる作品になっており、タイトルの重みが画面に出ているのだろうかとも思ってしまいました。

以下ネタバレ感想。


冒頭の雄大な世界の見せ方が美しく、これだけでもう素晴らしい映画が始まったなと期待感が高まるシーンでした。雄大なカメラワークに美しい山々を密着マルチで見せるあたりは凄くアニメだなと感じるのですが、この感じは今までにあまり見たことがないタイプの処理のように感じられ、魅力的でした。また馬をしっかりと描いており、俯瞰から馬に乗ったキャラクターを追いかけるというアニメでは難しい表現をしっかり描いていて、これだけのことをやってのける作品はもう既に凄いし、技術を見せるのではなく世界観を示すのに最大限の労力が払われていることに感動しました。そう、大変なことをやるのは大変なだということを意識させるんじゃなくて観客を没入させるためにあるんだよな、と謎の感動が押し寄せすっかり作品の虜になっていたと思います。個人的に本作の欠点をあえてあげるならこういったシーンがこの冒頭にしかないことだと思います。

特に大きな鳥、ワシ?かわかりませんが主人公のヘラが追いかけますが、最初は大きさが分からず普通のワシくらいをイメージしていたら予想していたより大きく、そういう大きさが徐々にわかってくるのも世界観の説明として面白く、ファンタジーの持つ意外性の面白さを見せているのも良かったです。とにかく冒頭でヘラというキャラクターを通じた世界の見せ方が素晴らしく、期待感の広がる形でした。


見終わってみるとヘラという女性性が楯の乙女を通じて描かれていたのかなと思いますが、個人的に感じたのは、追い詰められ砦に籠城し、敵側が攻め入るのにヤグラを立てているのを見ると、性器の暗喩っぽい感じで、男性女性のぶつかり合いを強調されているのように感じ、なぜその視点を入れるに至ったのか気になりました。一つの国の内紛となるので、王座を巡る争いが男女の性に分かれるとはどういう暗喩なのか、引っ掛かる気がしたんですよね。単純に守ってるところに入れるから、というのも直喩すぎる気もしたので。

最終的に新たなる王によってその場は納められ、ヘラも敵役であるウルフもその役目を終えますが、なぜそういう形になったのか。それは王が男女の痴情のもつれのような、人の愛憎の先にあるものであるという風に語られているような気もします。ヘラもウルフも互いに人々の上に立つものとして表現されてきましたが、その更に上にいるもの、人ではないものが王のなのだと言われている気もしたな。そうあらねばらないものというか。

ヘルム王がウルフに敗北しますが、その後ヘルム王は幽霊として扱われる。幽霊が存在する世界というのもあるかもしれませんが、そうした人を超越した存在となるものが王であることに触れているようでもあります。玉座を狙う人同士の争いが、結果的に王に求められる超越性に触れていて、ファンタジーとしての王の位置付けを描いているようであったと思います。ヘラもウルフも王の形の一つですが、男女性により人であることが強調されるからこそ、その上に立つものが強調されるのかなという気がしました。

ヘルム王、最後まで戦う姿は男のマッチョイズムを強調する強さがあり、今はこうした人物像が求められる時代なのか、という風に感じられました。体が大きく、強きものが王であり、父である、というのは古い価値観のように感じますが、娘を守る強き父という存在は王としての説得力をこれでもかと描いており、また違った強さもまた王の形だという対比にもなっていて、ヘルム王を中心としたキャラクター間の対比が良かったと思います。

楯の乙女が今作では強調されていましたが、FGOをはじめ、盾を持つキャラクターが英雄だ勇者だと描かれるこの日本で楯の乙女に触れらるのは流行を抑えられた印象が強く、ロードオブザリングでありながら日本のオタク文化の文脈が強く乗ったなと感じられました。
また楯の乙女であるオルウィンがロードオブザリングでいうレゴラスに近い印象しました。人の王に近い存在で最後まで生き残る強い戦士、という繋がりで。今作で「楯」が強調されることでFate世界におけるクラス設定、つまりはセイバー、アーチャー、ランサー、ライダー、アサシン、バーサーカーの7つを物語のキャラクターに当てはめてほしいような、そういう狙いもあったのかなと感じました。これは完全にFateファンの視点で申し訳ないんですが、ただシールダー(オルウィン)とアーチャー(レゴラス)を重ねるようなイメージを作ったことで、意識はされているのかなと感じました。特に主人公であるヘラはさまざまな武器で戦う存在であり、彼女はどういった戦士として位置づけられるのか考えると、それは人により分かれるのではないかとも感じたので、そういう議論を呼び込むような形というのは狙いとしてあったのかなとも思います。ヘルム王はバーサーカー以外考えられません!みたいな。ウルフはアサシンかなとか。完全に余談でした。

全体を見ると物語の説明はかなり忙しく、見ていて序盤はキャラクター紹介が大変そうで、正直忙しない見せ方だなと感じました。その中でキャラクターの感情を見せる場面では贅沢に尺を使っており、そういうメリハリの付け方が印象的な作品だったように思います。ロードオブザリングを見た時、この騎馬隊のぶつかりあいは実写だからできるもので、アニメでこのスケールを描くのは無理だと思っていたんですが、それに近づける労力が凄まじく、物量で殴られるのがこんなに面白いものなのかと思い知らされました。

あと気になったのは少しもののけ姫を思い出すようなカットが散見された気がしたかな。坂を降りて馬に乗るのはアシタカがヤックルにすっかり体が鈍ってしまったいうあたり参考にしてるのかなとか、腕が飛ぶあたりはアシタカが弓で腕を飛ばすあたり意識してるのかなとか。既視感やファンタジー繋がりで少しそういう風に感じてしまったかなと。

神山健治作品がこんなに面白い作品で、どういう方々が携わっているのか気になったんですが、エンディングのスタッフクレジットを見てもよく分からず、パンフレットでも詳しいスタッフリストは記載されていなかったので、どこかで深掘りしてほしいなと思います。

神山作品で面白い作品が見れたという満足感が非常に大きく、未来は明るいものだと思えたのが個人的に大きなポイントでした。大作を見たという満足感が得られるアニメ作品として印象深かったです。今後の神山作品に期待。

雑記 2024/12/31 を語る

2024-12-31 20:06:14 | ■アニメレビューとか
年の瀬になり本年を振り返るともう努力と挫折の連続だったと感じます。今年はある種の挑戦の年でしたが年始めから既に大失敗し、もう人生終わったななんて思ったりもしていました。ただそういう中でコツコツ続けたダイエットだったり勉強だったり仕事だったりは実を結び、人間やればできるもんだな、というのを体験できた年でもありました。

年始にもう少しでdアニメストアでの視聴話数が8800話超えるという話をしましたが、現在無事にdアニ界でGODの称号をいただき、1万話にもうすぐ達するところです。



今年も旧作をメインに見ていました。特に見ていたのは富野作品、スタジオぴえろ作品が多かったと思います。あとは舞-HiME&舞-乙HiMEシリーズ、十兵衛ちゃん、鋼の錬金術師、魔法少女リリカルなのはシリーズ、などでしょうか。全然見てないですね。新作は負けヒロインや逃げ若、パリイ、俺だけレベルアップ、REゼロ、シャンフロくらいですかね。

ユーフォニアムももったいなくて、まだ見れていません。原作改変が話題になっていましたが、過去の自分の感想を読むと、まあそうなるかな、みたいな片鱗は感じたかな。この辺は4月までには書きたいかな。

というかユーフォニアムの感想を書いたらもうブログ更新もやめようという気持ちでした。ユーフォニアムを見て『きみの色』を見て、終いだろう、と。気持ち的には。『きみの色』もまあ本当に素晴らしい作品で、これで終わりならいいなという気持ちでした。

最近AI産業が盛んなので、これはもう利用しないと時代に置いて行かれると思ってChatGPTとか色々触ってみたんですが、まあもう隔世の感 というか、こんな素晴らしいものあるのかーと衝撃を受けまして。それでnoteに生成した文章を投稿したりしてみました。

●魔法少女が問いかける希望と絶望――『魔法少女リリカルなのは』と『魔法少女まどか☆マギカ』に見るジャンルの多面性:序章~1章

こういう文章を普通にかけてしまうのだから恐ろしいなと。

あと最近はTikTokやyoutubeを積極的に見だしましたが、アニメ感想なんかはあまり見応えがあるものがなく、整理された情報を見る機会もなく、かと言って積極的に前に出るものでもなくと、何かいいアイディアはないかと悩ましく思っていました。

生成AIを使えば端的なワードからある程度形にしてくれるので、それで世の中に発信していくのも悪くないのではないか、というのが最近の実感です。なので今は身辺整理をして世の中に打って出るにはどうすればいいんだろうと年末はずっと考えたりしていました。例えばyoutubeなどの動画で、アニメのキャプションとか使用せずに正当に、かつ魅力的にアニメを語る手段ってあるのか?と。自分の流儀を作れるか、とか。ニコニコ動画のアニメスタイルや藤津亮太さんのチャンネルでも再生数そこまでじゃないし、再生数一桁二桁の動画作ってもなぁと。

昔ながらのブログ更新をしている人も少数派ですしね。私もブログをやり始めて来年で19年目ですから、流石にもう20年近くたてば読む人もいなくなるよなぁという感じで。まあアクセス数は20年間たいして変わってませんが。

来年はとりあえず試験的にChatGPTを活用して見たアニメの感想をいっぱい書こうとか、意味わからん動画を作ってみようかな、そういうことをしていきたいかなと思います。

ちなみにこのブログはいつも通りのダラダラ更新で行こうと思いますのでよろしくお願いいたします。

20周年を記念して改めて『魔法少女リリカルなのは』のOPについて を語る

2024-12-29 19:13:00 | ■アニメレビューとか
水樹奈々「innocent starter」 | 魔法少女リリカルなのは | オープニング

2007年にスタッフリスト書いたときに、コメントでアニメーターのパートを教えてもらって早17年近く。当時の読者ってまだいらっしゃるのかな~と思いつつ、20周年を記念してなのは1期のOPについて触れたいと思います。

以下追記。
2004年に放映が始まり、気づけばもう20周年を迎えた『魔法少女リリカルなのは』。この作品がアニメ業界にもたらした影響って、今思い返すと本当に大きいと思うんですよね。新房昭之監督の作品史とか、その後に生まれた『魔法少女まどか☆マギカ』への流れを考えるときにも、外せない存在だなぁと。
ただ、当時リアルタイムで観てた方々も、この20年のあいだにライフステージが変わっちゃったり、新しく魔法少女ジャンルを知った若い世代も増えてるわけで。いま改めて注目してみると、当時はスルーしてた演出意図とか、現代の視点だからこそ見えてくる価値があるんじゃないかと思うんです。
作品自体20年後のいまでも十分に通じると感じます。ネットやSNSが当たり前になって、作品の深読みや二次創作も盛り上がる時代だからこそ、OPからなのは像を振り返るのは、改めて作品の魅力とかを再発見するチャンスになるんじゃないかと。
そういう意味で、この20周年という節目にもう一度OPを掘り下げる意義は、決して小さくないはずです。昔からのファンはもちろん、最近知った人でも、OPを見返して、あの時代のアニメが持っていたポテンシャルに改めて気づけるんじゃないでしょうか。まさに、いまこそ「なのは」のOPを深読みする必然があると思います。
追記ここまで。

・OPを通じて引っかかる孤独ななのは像
innocent starterのサビ部分で長年引っかかっていた部分があります。
以下の歌詞を引用
「瞳の奥の秘密 吸い込まれそうな 笑顔の裏の真実に柔らかな愛 僕が届けに行くよ」

これはなのはがフェイトの孤独に触れる物語を詠んだ歌詞だと一見して思っていましたが、笑顔が強調される日常を送っているのはフェイトではなくなのは側なんだよなという引っ掛かりが長年ありました。改めて「笑顔の裏の真実」をなのはと仮定してOPを見たときに感じられたのがなのはの孤独性でした。

OPを改めて見てみると、なのはが孤独であるというイメージなんですよね。まず冒頭で目をつむって佇む姿もそうですが、1人でいるカットが多い。ユーノが肩に上るカットもありますけど、基本的にフェイト以外のキャラクターと絡む演出がない。今回見ていて感じたのは、「なのは自身が魔法少女になったことによる孤独」というのは実は根の深い問題だったのではないか、ということです。

いきなりOPから外れますが、本編でフェイトと決着をつける回でOPと似たようなカットが挿入されています。そして戦いの後にフェイトは、自分の名前を呼んでくれた他者として、なのはを見出し、母との戦いに参戦します。これはバトル中になのはがフェイトの瞳にしっかり移り込むことで強調され、それはOPでも一瞬ですが同様の姿が描かれています。

フェイトは母を求めて戦っていました。しかしフェイトと対峙するなのはは、いったい何を求めて戦っていたのでしょう。周囲に知り合いはおらず、依頼者であるユーノや時空管理局の人たちはなのはの力に目を付けただけの他人ばかり。ここで見られる「なのはの善意」というのが個人的に『魔法少女リリカルなのは detonation 』で描かれたなのは像だと感じています。

話が脱線しまくりですが、フェイトの心象に触れていくと、なのはは一体なぜそこまで戦えるのだろうかという、なのは自身の孤独が浮かび上がってくるようになってはいないだろうか、と感じるということです。

「なのはは魔法少女となることで、理解され得ない領域へと踏み込み、フェイトが抱える孤独に近づいているのではないか」

という一種の予感があるのではないか、と感じられます。
なのはが本編で暴力を使ってフェイトを止めますが、そのときのなのはの懸命さがフェイトの心を開き、なのはの孤独をフェイトが癒したと考えると最終回が非常に身に染みる演出だと感じました。なのはが必死に救おうとしたフェイトに、暴力という形を通じてなのはの心が通じた、というのは作品の方向的にも美しい。フェイトがしっかりとなのはを見ているということを描くOPから、フェイトの中のなのはの立ち位置を本編でも描き、リフレインさせてみせている。OP時点で示唆されるなのはの「孤独感」は、単なるネガティブな状態ではなく、フェイトとの距離を縮め、フェイトを救うための共通言語として機能する側面を本編と絡めて強調されていると感じます。それだけ緻密に計算された配置だったのではないか、と。

そこを物語の中からそこを掬い上げる演出、そして曲の歌詞も印象的なんですよね。今作は新房昭之作品の中でも新房色の薄い作品だと感じますが、ところどころに見られる緻密な配置に総合力の高さを感じ、なのはという作品の力強さを感じます。また改めて新房昭之作品としての『リリカルなのは』と『まどか☆マギカ』は語られて欲しいなと思います。

以下、OP各カットについて。

梅津泰臣パート
当時誰もここ梅津さんだと思ってなかったような。指摘されている方もいたかな?まどマギ10話は1カット見破ってる方がいて凄いなと思いました。




佇む姿から、目を開けるアップへ。しっかりとこちらを見る穏やかな微笑に少女らしい愛くるしさがあります。




1人でうずくまる姿。穏やかに眠っているような。しかし1人でいる姿を見せるのが印象的です。





ユーノがきてフィルムが回るような効果。ここで日常から魔法少女としての世界へ移るような意味合いを感じるかな。なのはが笑顔を浮かべてウィンクしているのが印象的。この後の魔法少女としての姿ではこういう表情を見せていないので、そこに意図があることを感じさせられるかなと。







藪野浩二 パート
フェイトとなのはが目を開く。
フェイトパートはサビのパートを連想させる窓、なのはは新房演出らしいカット割り、引きの絵、トラックアップまたはドリーアップ。引きのロングの絵でなのはの奥の門の奥が青くなっているの、光の加減の表現ですが青が空っぽい印象を受けるのが目を引きます。冒頭から最後まで、なのはで空の青さを印象付けるのが気になります。対するフェイトが夜である点を踏まえると、ここに明確な対比があるように感じられます。


度々挿入される魔法を連想されるカット群。変身シーンの直前に魔方陣を挿入することで魔法を使ったことを暗示しています。なのはが魔方陣を発動して~と説明的な段取りをすっ飛ばしてイメージを挿入するのみで進行していくのがリズムカルで良いですね。魔方陣の3D化は早く、そして実に効果的なエフェクトで、最初にこれを発明した方は偉大だなぁと感じます。初めにやりだしたのはどこなんでしょうね。



変身シーン:尾尻進矢 パート
本編の変身は友岡さんですがOPは尾尻さん。OPと本編で2シーン変身シーンがあるの凄いですよね。この一連、なのはが弾き上げたレイジングハートに移り込むようになのはの変身が始まりますが、レイジングハートの中で変身しているようにも見える。まどか☆マギカでソウルジェムの中の世界が登場しますが、そこを考えると似たようなことを既になのはでレイジングハートの中の世界での変身という形で発露していたのかなと思えて面白いですよね。


そうしてその映り込みが無数に増え、なのはの実体が入り込み、変身世界の入れ子構造をダイナミックに見せており、変身を不可思議な現象として捉えて見せる映像演出が非常に面白い一連。『まどか☆マギカ』の板村さんコンテのOPではもう一人の自分との合体として変身を捉えていたりしましたね。






赤い空間から少しずつ色味が変わる。こういうちょっとずつの変化も手間がかかっており細かいところまでこだわっている印象がします。






レイジングハートの世界から出たと思ったらレイジングハートはなのはの奥にある。そしてお互いが画面の奥に移動していく中で距離が同一となる。空間的に別々の位置にあるものが、同様の位置まで動かすことで一致する。アニメーション的なウソの付き方がインパクトを生んでおり非常に印象的。変身シーンは特別なシーンであることを表明しているようであり、その特別感の見せ方が素晴らしいシーンですね。




変身シーンでは一度は目を開けていたのに、変身後に改めて目をゆっくりと開ける。直前のシーンでは、もしくは鏡像の世界、レイジングハートの世界では笑顔なのに、現実では少し寂しげな印象を受ける。このギャップが魔法少女としてのなのはの孤独感を感じるポイントかな。ここで描かれる2面性が本編に通じるドラマ部分を補完する意味合いを感じられる。それを変身という一連で触れてくるのが面白いところですよね。みなさんはどう感じてるんだろう。





足のアップから魔方陣が広がってなのはが顔を上げる。魔法を行使する部分を別々に見せてテンポを作ってますが、変身シーンの後だと空間的な位相のズレを描いているようにも感じられるかな。変身シーンで異世界にいたなのはが魔法を行使しながら現実に世界に戻ってきた、みたいな。端的な演出で変身シーンの空間は何か?という問いに答えているようで、一種の変身シーンの謎の回答のようで面白いですね。この辺の一連のどこかが橋本さんかな。




友岡新平パート
実はめっちゃパンモロしているカット。gooでは載せられないので割愛。太陽を背にする女の子で、光のものという印象付けはサビで登場するフェイトが闇のものとすることへの対比でしょうか。変身シーンのレンジングハート同様、円の中にいる存在でもあるのを印象付けられる。







アップからカメラを引いていく。バルディッシュを構えるアクション。ビルから離れていく中でもフェイトの存在が大きく描かれるアニメ的な誇張が楽しいカット。スポットライトでフェイトの金髪を強調しているような感がするのも面白い。
ここから以下サビの歌詞「瞳の奥、吸い込まれそうな」の一連。





なのはが飛び上がってきてフェイトの瞳に映る。そしてフェイトがビル群の窓に写り込む。

ここまでが友岡新平パート。
フェイトの瞳になのはが映り込むことで、歌詞とのシンクロを強く意識してしまう部分。ビルに映るフェイトの姿は明確に描かれるけど、なのはは映り込んだ姿のみで、実体は描かれない。OPで特に目立っているシーンで印象に残る一連ですが、歌詞の「吸い込まれそうな」のイメージをこのように描いているのが面白いですよね。フェイトの瞳に映った世界とも違う、なのはの姿。変身シーンが異界的なアプローチでしたが、ここもそのイメージを意識してしまいますね。とくになのは自身が実体で描かれないことで、なのはの不在性に触れ、歌詞の「笑顔の裏の真実」となのはが重ならないように描かれているように感じられる。直前の歌詞とのシンクロが、シンクロしない歌詞と絵を逆に強調し、「笑顔の裏の真実」とは何か?と触れているようであるのが、このOPの魅力だと感じます。


サビでOP曲のクレジットは普通かもしれませんが、ここの対峙で曲を印象付けるのが歌詞の意味を気にさせるポイントとなっている気がしてなりません。








斉藤良成
確かにフェイトとかよくみると斉藤さんっぽいなとなる。A'sの斉藤回は盛り上がる回が多かったので修正されたのは割と歴史的な出来事だったように思えます。1期の斉藤回は新房的なサイケデリックかつアップのダイナミックな絵を入れつつ大張的な絵が入り込んだ魔法少女らしからぬ回ですが、それが今日まで続くなのは像の礎になったのは間違いないと思います。友岡、斉藤はなのはの中でも視聴者的に特に印象的な方々だったと思います。


吉木正行パート
A'sのOPでも引用されるなのはを象徴するぶつかり合い。ここではフェイトではなくなのはの真剣さと丸みを損ねないようなバランス感を意識させられるかな。フェイトがそこに感じ入るものを見つける話であると思うので、特になのは表情が意識されますね。





そして再びフィルム風の画面から日常へ戻ってくる。なのはが作った笑顔の表情を両親と友達が行うのが印象的ですね。2人の子であること、2人の友達であるを印象付けているような感じかな。直前のジュエルシードのカットもですが、反射する効果が瞬きのような印象があるので、目を閉じる、目を開ける、という動作に含みを持たせているようなところが気になります。動かすことで動作を印象付けられますが、特に表情を見せたいような印象を受けます。




冒頭と同じく佇む姿。水の波紋が歪んでいるようであり、しかしなのはの姿から見ると同心円状になっているように見える。こういう形で歪みを印象付けられているような気がします。「誰も知らない孤独の海を深い青に染めてく」とは変身前に流れる歌詞ですが、このシーンがそうなのかもしれないという予感がありますね。日常に回帰しても、まだ魔法少女が続くことは孤独なことだと語られているようにに受け取れます。




「ずっとそばにいるから」
ここも歌詞とのシンクロ、もといなのはの口元が歌詞と合っているのが印象的。口をアップで見せることでそこを読んでほしい意図が見えますね。つまり歌詞と絵は一体であることをこのカットはやっているわけです。ということはOPの歌詞と映像にはシンクロの関係があり、そこには明確な意図があるわけです。だからこそ、このOPの絵と歌詞は見るたびに考えさせられてしまうんですよね。そしていったい誰のそばにいるんだろうか、と意識させれます。カット内容も目を閉じたり開けたり、歌詞とシンクロしたりと、なのはの大胆な表情の変化を映すカットで印象的です。

岩井優器パート
ここでフェンスを貫通するカットであるというのは自分的には結構反応しちゃうかな。京アニのAIR 6話も3Dでそういうカットを組んでいたりするので、同じエロゲー文脈にある作品であることは意識したいという感。あとまどか☆マギカのOPもちょっと意識される部分かも。


出崎風なレイアウトな感。巨大なレイジングハートの上に立つというのがアニメ的な世界を強調されていて、舞い散る桜の挿入からタイトルと関連付けたカットであることを意識させられる。これが『魔法少女リリカルなのは』の世界であるという帰結というか。


タイトルが桜の花びらの下に隠れているという、そういう隠されたタイトルであることをさくらで彩っているのは『カードキャプターさくら』を思い出してしまうところかな。しかしこの作品は『魔法少女』を冠するところに意味があるように思えるので、改めてタイトルを見せるところの意図も考えてしまうところです。みなさんはどう捉えているんでしょう。

というわけで、『魔法少女少女リリカルなのは』のOPについて、でした。実は
Fate/stay nightのOPなどと同様くらいの時期に、当時見れなかった憧れの作品の一つとしてメチャクチャ記事を書きたいと思っていたのですが、あまり形にならなかったので、今回は割とまとまって書きたいことが書けたので満足です。

最近はあまり自分が読みたいアニメ語り記事が読めないし自分も書いていないので、自分が読みたい記事を書いてみた、というところでもあります。『魔法少女リリカルなのは』は同時期の新房作品『月詠』『コゼットの肖像』だけでなく『The Soul Taker 〜魂狩』から続く京アニ作品『ナースウィッチ小麦ちゃんマジカルて 』なども意識させられ、00年代で特にアニメ史的に面白いなと思っている作品なので、またどこかで触れていきたいところです。

劇場版 忍たま乱太郎 ドクタケ忍者隊最強の軍師 を語る

2024-12-20 20:03:57 | ■アニメレビューとか
見てきました。
忍たまは最初期は見ていたのですが、近年は藤森雅也さんの名前があがるときは見ているかなという感じで熱心にシリーズを追って見ていませんでしたが、久々の劇場版ということで見てきました。女性ファンが多いとのことでしたが、確かに他のお客さんは女性ばかりだったなぁと人気のほどがうかがえました。

以下、ネタバレ感想。


最初に彼岸花と案山子と月に映る兎と髑髏の影が不穏で、いつもの忍たまとは違うという空気感をまとっていたな。このイメージ群について説明はされませんが、土井先生の過去に触れるイメージだったのかな。たくさんの案山子に何度も挿入される彼岸花のイメージは殺戮のメタファーっぽく、多くの人の命を手にかけいるような様子を描写されているように感じる。これは作品の世界観的に直接的な殺人の描写を避ける意図があったのかな。土井先生がそのような行為を直接的に行った描写はないけど、後半に記憶を無くして天鬼となったときはいつもの飄々とした姿はなりを潜ませ、戦闘において容赦のない姿になっているのを見ると、過去はそのような姿だったのかと思わせられたな。

土井先生が諸泉尊奈門と決闘しているあたりは天鬼なった姿と対比させる意味で、戦闘描写に力が入っていてよかったですね。先生であるという意味合いを強く出すのに武器は出席簿、黒板消し、チョークなど学校で使用するものばかり。対して天鬼となったときは長刀を使ったアクション。最初の決闘では諸泉尊奈門の身を案じてか怪我をさせないように、しないように気を付けていますが、対する天鬼は容赦がなく、流血描写などもあり激しいバトルが展開され、私たちがよく知る土井半助が消えてしまったことを明確に表現していたなと。また戦闘を行う場所もススキ野原というか、そういうやわらかい植物の中での戦闘で、身を隠しながら戦っていましたが、天鬼のときは竹林になっており、忍ぶ姿ではなく堂々と相手に対応し、竹林という立地を利用したバトル描写になっており、環境の違いによって戦闘スタイルの違いを印象付けていたのも目を引いたかな。この辺はどなたのアイディアなんでしょう。

土井先生が記憶を無くすきっかけになったのは満月の光と川に浮かぶ稗田八方斎の頭が重なったところで頭を打ったのが要因でしたが、なぜ月の光が強調されるのか気になりました。冒頭も月の兎が凶悪な姿で描かれており、月と土井先生の過去にどういう繋がりがあるのか明確に描写されないのが気になったかな。

また満月と稗田八方斎の頭という、光と光が反射するものが重なる場所に落ちたことにより、過去の人格のようなものが出てしまった、という見せ方も気にかかる。一種の呪いのようなものなんでしょうが、光とそれを反射するもののその重なりが何を意味するのかが気になったかなと。円の重なり(縁の重なり)という意味合いだったのかなーとか。

最後に記憶取り戻すときはきり丸の潤んだ2つの瞳があったことを思うと、重なってしまった光が、きり丸の瞳の光によって分離させられた、というか頭を打ったことではなく、重なった光を見てしまったことで天鬼となってしまったが、2つに分かれた光を見たことで元の土井先生に戻った、という意味合いだったのかなと感じたかな。乱太郎の描写の中でも瞳に光が宿る描写とか、そういう部分を小出しに見せていたので、目の描写には何かこだわりをもっていそうな演出が多かったため、最後はその部分を繋げたのかなという印象でした。

過去のきり丸が雪が降る寒空の下で空を見上げた時に主題歌のイントロが一瞬流れますが、あれもどういう描写だったのかちょっと引っかかる感じでしたね。そのあとにすぐ助けた土井先生と学校に戻る姿を見せながら主題歌がかかりますが、その前置きの描写としてしても唐突だったので、意図的な引っかかりを作っているのが気になりました。寒空の下にいたきり丸も、未来では仲間に囲まれた生活ができているという予感の挿入、だったのかな。ちょっと読み切れない感じでした。

しかし久々に忍たまを見ましたが、結構知らないキャラが多くてびっくりしたな。雑渡昆奈門とか忍たまにしては真面目な強キャラ感があり新鮮でした。バトル描写も天地を横にした描写で人体をすべて入れてアクションの重力の方向性を意図して変えて見たりとか、バトル描写も新鮮で良かったな。

忍たま自体は放映が始まったころから2000年ぐらいまではちゃんと見ていましたが、すでに24年前なので長期のシリーズになったなという感慨深さが少しありました。土井先生は昔からかっこいいのにあまり目立った活躍をしないような、その実力は如何程なのかとか気になっていましたが、その一端が見れたのがよかったかな。もっとハードな描写のシン・忍たま乱太郎、または忍たまの謎、が出る日も近いのかもしれない、のかな?

お約束的な描写も角度を変えて見せたりと従来通りの見せ方がメインであり、見ていて楽しい作品でもあったので、また劇場版作品が出たら見に行きたいところです。

RE:ルックバック を語る

2024-12-19 18:13:39 | ■アニメレビューとか
前回の記事(ルックバック を語る)が消化不良だったので追記として。
ChatGPTを利用して形にしてみました。


以下、追記本文

『ルックバック』の核心に触れるのは、内と外という二つの世界をつなぐ「窓」の存在なのではないかと感じます。窓は部屋の中から外を眺める手段であると同時に、外の光や風を内へと取り込む媒介でもあります。そして、京本が窓に4コマを貼り付ける行為は、彼女が創作を通じて新たな世界を描き出そうとする意志そのものです。これは「部屋の中で描くこと」への強烈な肯定であり、同時に外界との接続を象徴しています。

藤本が京本の作品に触れて漫画を描き始めたように、創作は誰かの作品に出会い、それに刺激を受けることで広がりを持ちます。今作が描き出したのは、この循環そのものです。京本と藤本、創作する者と見る者の間には、作品を媒介にした対話があります。そして私たち観客もまた、映画館という「外に出て内に没頭する場」で、この対話に参加しているのです。

映画を見て「何を得るか」「どう感じるか」は観客自身に委ねられていますが、『ルックバック』はその見方を一つの問いとして提示しているように思えます。それは、見る行為そのものが新しい創作の起点になり得ることを暗示しているからです。スクリーンの中で描かれた物語と私たち自身の物語が、どのように共鳴し、新しい窓を開いていくのか――その答えは、私たちがこの作品をどう「ルックバック」していくかにかかっているのかもしれません。

きみの色 を語る

2024-09-07 21:38:14 | ■アニメレビューとか




見てきました。
どういう映画かあまりイメージせず見ました。
IMAXのプレミアムシートをはじめて利用しましたが、
こんなに音の体験が凄いものなのかと感動が深かったです。
普段は周囲のスマホやポリ袋のがさ音をたてるなど配慮のがいる場合が多く、
一番前の席か、2番目の席に座るのですが、
今回は観客数も少なかったため、挑戦してみたら、
ゆったりと鑑賞することができ、IMAXって本当はこんな感じだったのか!
と改めて感じられて新鮮な体験でした。
映画本編と音が非常にマッチしており、映画館で最高の体験ができた、
と感じられる一作でした。


以下とりとめのない雑記、あるいはネタバレ感想。


山田尚子作品だなという印象の作品でしたが、
山田さんが今までの既存の作品で出してきたもの、
その描写の価値観にまつわるものに触れた作品だったのではないか、
という風に感じられたかな。
きみの色、つまりは主人公の色を見つけるというのは、
自分の作品の意味を解き明かす意味合いがあったんだろうと感じました。
説明するのが難しい気がします。

京アニ的だったり、湯浅作品っぽかったり、原恵一っぽかったり?
みたいなことではなく。

冒頭で色が見える話が出ますが、それは主人公の内面の話でしかなく、
それが見えることに悩んでいる風ではない。
確かに見える色の意味を解釈しない。
しかしそれで話が進んでも問題がない、という、
意味を拾っても拾わなくてもいい、という幅があったように感じられたなと。

中盤、雪の降る夜にロウソクに火を灯す。
雪は降り積もるかもしれない、火の熱で溶けてしまうかもしれない、
しかしロウソクは溶ける、雪もいつかは溶ける、
この場は溶けていくイメージであるが、雪は積もるかもしれない、
溶けるし積もるものはなんだろうか。
普通にメタファーの描写といえばそれまでですが、
そこにはどのファクターを救い上げるか、
という幅を持たされているように感じるんですよね。

そういう中で罪、または嘘、
は揺るぎないもののように描写していたように感じたかな。
割と傷物語的かもしれない。

個人的に気になったのは古本屋できみちゃんが本の整理をしながら、
男の子を見る一連。
見てはいけない、という意識が斜めになった本を立たせる、
その「いけない」という意識をこのように描くのか、
という本作のルールというか、描き方のフックを得られたのがこのあたり。
互いに重ねられていく嘘が罪として触れられていくのが、
まあそうなるかーという納得にも変わり、
そしてそんな揺らぎで描写される世界観に見応えが感じられたな、と。

寮に招いて漫画を読んだり散らかしたりというのは、
徐々に嘘が拡大していく描写として本繋がりで見せられていたりとか、
何かに注目すると見える景色は変わるし、
自分自身の心もまた、鑑賞しながら揺らいでいる。

揺らいでいる、ということは止まらないということで、
ロトスコでやっていた花とアリス殺人事件を思い出しますが、
個人的にはロトスコ的な動きの面白さを楽しむシーズンは、
今更ながら終わったんだなと感じてしまったな、
という印象を受けるほどに、かすかな揺らぎの拾わせ方がいいなと感じる。

そしてそれがずっと続くことに、安らぎを感じられる。
人の感情には振れ幅があり行ったり来たりしていることを、
きちんと認識させてくれる、そんな心地よさがあるように感じられたな。
これは音楽の力もあるかもしれない。

反射も序盤はバンバンでてきましたが、後半はなりをひそめる。
それは描写されたキャラではない誰かが反射先として、
時には背反するものとして描かれる。
古本屋できみちゃんと再会したとき、主人公は梯子の線と重なるけど、
ある描写では、きみちゃんは梯子の手前側におり、
主人公のように上に重ならない、とか。
あるいは、背後の目になっていたり、とか。

自らのテリトリーから出ない母、先生、おばあちゃんという視点を、
カメラ位置や、見えない、見えるという見せ方で見せたりとか。
最後に全員で踊るとこは湯浅作品を取り込んだなぁと思ったり。

個人的には山田尚子監督現時点での最高傑作。
そのことに、この上ない安堵を覚えるのがうれしくも悲しくもあり。
あとおそらくこの鑑賞した体験を生涯追いかけるのではないか、
という予感もあります。
勇者王ガオガイガーの最終回の体験を今も追いかけているので。
時の運もありますが、
今作はそういう作品になりうるパワーが、巡り合わせが自分にはあったかな。

具体的な読解はいくらでもできると思いますが、
映像の持つ安らぎ感が今の自分のアニメに求める理想形に近く、
これ以上に自分が必要とする作品が出てくるんだろうか、
というくらい心がびっくりしているので、今はあまり意味を感じないかな。

個人的には素晴らしい映画体験ができた作品でした。
こうした作品にまた巡り合いたいものです。

ルックバック を語る

2024-07-07 08:45:02 | ■アニメレビューとか
映画も見てきたので。

最後に京本の部屋に入って出ていくとき、なんで部屋から出る様子を描写しないのかなと思ったけど、
エヴァ以降、外に出ろを数多く発信してきたアニメ界だからそう感じたのかな。

考えて見れば絵を描く姿を見せるなんて極めてプライべーなもの。
そんな姿を一心不乱に見せる今作は狂気の作品と言える。
京本の部屋っていうのはそういうプライベートの極致という位置づけで、
人間の内側へと入っていく作品だったんだなと改めて感じたな。

最後に窓に4コマを貼り付けますけど、窓から見る景色にフレームを配置する、
その異物感こそが漫画の醍醐味であるように感じる。
新しい世界の窓を作る、という意味合いで。

ただ今作の藤本は外を見れるようにして漫画を描いているけど、
多くの漫画家、そして今作に参加されているアニメーターがそうであるか、
と言われると割と疑問で、
この部屋の中から外が見えるようにして描いていることの意義、
っていうのを意識してしまったな。

特に映画館だとスクリーン以外は見ないわけで、
漫画のコマの外の世界っていうのは見えないわけで。
映画というのは意図して世界に浸れる世界であり、
内面に触れるプライベートな世界で、
我々が『ルックバック』という映画を見る後ろ姿を誰かが見ているのかもしれない、という予感を感じさせられたな。
作品を描く意義があるように、作品を見る意義も当然あるわけで。

藤本だって京本の作品に触れて、描き始めているわけですからね。

まだ消化不良感ありますが、
とりあえずこんなとこで。

アニメ雑記 2024/6/8 を語る

2024-06-08 19:49:51 | ■アニメレビューとか
●トラぺジウム
前知識なしでアニメ映画だから見た感。
東西南北の学校から目立つ子をチョイスしてアイドルグループを作る、
めちゃくちゃ戦略的に凝った話で、主人公の行動力に感心してしまった。
絵的にも綺麗で、特に髪のツートンカラーは綺麗に描かれていたように感じたな。
ベッドに寝ころがって髪が広がったところで裏地が見えるんだけど、
起き上がったときにそこが隠れて表面の毛先と黒髪の部分が出るとか、
一連の流れがスムーズで細かな処理がうまくいっていてグッときたな。

あと下を向く作品は数あれど、
上を向く芝居があったのが良かったかな。
星というテーマがあったからこそかな。
イメージと芝居とテーマのリンクがあってこその絵という感じで、
割といい印象を受けたかな、と。

学園のアイドル的な立ち位置のメカッ子がアイドルやる違和感を、
ちゃんと追っているような感じでそこも好印象だったかな。
ばらばらになった4人が集まって、
主人公が相手を見るときに太陽をバックにしているのとか、
1カット内の説得力が物語を通じて触れられているなと感じられる部分も多々あり、
楽しんでみることができた1作でした。

最後に夢をかなえているのはやや飛躍した印象でしたけど、
パーフェクトブルーを思い出すと、あの作品の反転のような印象がしたかな。
女優とアイドルの関係の反転みたいな。
最後にそれぞれ女優とアイドルとして成功しているという点がそう感じさせられただけかもしれませんが。


●劇場版ウマ娘 プリティーダービー 新時代の扉
見てきました。

冒頭から今までとは違ったウマ娘の映像化だなと感じる一作でした。
レースシーンの臨場感はカメラアングルから作画のメタモルなど、
見せ方が練られており、かつウマ娘はなぜ走るのか、
速く走った先に何が見えるのか、という勝負の先にあるものを意識させられた感じ。

アグネスタキオンが博士系キャラだからできた展開かもしれませんが、
ジャングルポケットが最初に持っている玉、
願い玉、ともいうべき玉が象徴するものは何か、という話かもしれませんね。

特に中盤にアグネスタキオンが皐月賞で勝ったときに見せる景色、
速さの先にある遠雷、あるいは光、とは何なのか、というか。
ウマ娘の走りが無数のフィルムで描かれ、ウマ娘はなぜ走るのか、
走った先に何があるのか、という作品設定の根幹に触れつつ、
それを美しくかたどったのがジャングルポケットやアグネスタキオンがもつ玉、
だったのかもしれないなと。

個人的には光を目指す話でもあったのかもしれないなと思ったり。
以前10年で印象に残った10話の中でセイクリッドセブンの話をしましたが、
監督もアニメーター出身だったことを思い返すと、
似たような思想があったのかなと感じたんですよね、主観カットも多いですし。

玉が3Dなのも監督がアニメーター出身で描かないものを希望のものとした、
という印象があったりしまして。
そこに映像的な快楽の中に理性を垣間見たような気がします。

今回作画的にも崩し絵だったりして漫画的な画を入れていて、
懐かしさやアニメーターの作品らしいつくりだと感じられる部分があったな。
タキオンがポケットの足を触っているの、カレイドスター1話かと感じたりとか。
アクションで空気感を変えるのはあの辺あたりからきているのかなとも思わされる。
劇場作品で緒方賢一の声をこんなに聞けるのもよいかなと感じたかな。

アクションはオペラオーのマントが天高く舞う辺りのアクションは目立っていてよかったな。
スタッフ的にああいうアイディアはFGO的なのかもしれないとも感じたな。

作画が良いのももちろんでしたが、撮影的な部分、
光の扱い方などが綺麗で良かったですね。
この作品にしかない魅力が詰まっていたと思います。
MADBOXがやっているんですかね。

演出的にはフジキセキと歩いているときに前にいるのか後ろにいるのかとか、
花の見せ方とか、カットの意味合いを拾うのが楽しくて良かったな。
ある意味では既視感の塊かもしれないですが、アングル的な新鮮さで保たれていた気がする。

冒頭でポケットが自分の持っている玉を空に投げてキャッチする、
自分でつかむべき星を定め、手を伸ばす、
というのをやっているのがキャラクター的にグッとくるところですが、
映像作品として監督が目標としていたイメージもこれなのかなと感じたかな。

ダービーを征した当たりで停滞してから復活があまり盛り上がらなかった気がしますが、
それは目標を成し遂げた先、またはそのさらに先への道の険しさを知ってしまったこと、
光の速度に到達することは無理なんだ、
みたいな一種のあきらめが載っているのかもしれないなと思ったりも。
それでも走らなければならない。
なぜならそれが存在理由であるからだ、と。
そういう生きていく上での壁を強く意識させられた気がしたかな。

新時代と銘を打つだけあって新鮮な作品でした。
これからの作品がどのようなものになるのか、楽しみです。