流星、夜を切り裂いて ~FLY HIGH~ ver.2

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20周年を記念して改めて『魔法少女リリカルなのは』のOPについて を語る

2024-12-29 19:13:00 | ■アニメレビューとか
水樹奈々「innocent starter」 | 魔法少女リリカルなのは | オープニング

2007年にスタッフリスト書いたときに、コメントでアニメーターのパートを教えてもらって早17年近く。当時の読者ってまだいらっしゃるのかな~と思いつつ、20周年を記念してなのは1期のOPについて触れたいと思います。

以下追記。
2004年に放映が始まり、気づけばもう20周年を迎えた『魔法少女リリカルなのは』。この作品がアニメ業界にもたらした影響って、今思い返すと本当に大きいと思うんですよね。新房昭之監督の作品史とか、その後に生まれた『魔法少女まどか☆マギカ』への流れを考えるときにも、外せない存在だなぁと。
ただ、当時リアルタイムで観てた方々も、この20年のあいだにライフステージが変わっちゃったり、新しく魔法少女ジャンルを知った若い世代も増えてるわけで。いま改めて注目してみると、当時はスルーしてた演出意図とか、現代の視点だからこそ見えてくる価値があるんじゃないかと思うんです。
作品自体20年後のいまでも十分に通じると感じます。ネットやSNSが当たり前になって、作品の深読みや二次創作も盛り上がる時代だからこそ、OPからなのは像を振り返るのは、改めて作品の魅力とかを再発見するチャンスになるんじゃないかと。
そういう意味で、この20周年という節目にもう一度OPを掘り下げる意義は、決して小さくないはずです。昔からのファンはもちろん、最近知った人でも、OPを見返して、あの時代のアニメが持っていたポテンシャルに改めて気づけるんじゃないでしょうか。まさに、いまこそ「なのは」のOPを深読みする必然があると思います。
追記ここまで。

・OPを通じて引っかかる孤独ななのは像
innocent starterのサビ部分で長年引っかかっていた部分があります。
以下の歌詞を引用
「瞳の奥の秘密 吸い込まれそうな 笑顔の裏の真実に柔らかな愛 僕が届けに行くよ」

これはなのはがフェイトの孤独に触れる物語を詠んだ歌詞だと一見して思っていましたが、笑顔が強調される日常を送っているのはフェイトではなくなのは側なんだよなという引っ掛かりが長年ありました。改めて「笑顔の裏の真実」をなのはと仮定してOPを見たときに感じられたのがなのはの孤独性でした。

OPを改めて見てみると、なのはが孤独であるというイメージなんですよね。まず冒頭で目をつむって佇む姿もそうですが、1人でいるカットが多い。ユーノが肩に上るカットもありますけど、基本的にフェイト以外のキャラクターと絡む演出がない。今回見ていて感じたのは、「なのは自身が魔法少女になったことによる孤独」というのは実は根の深い問題だったのではないか、ということです。

いきなりOPから外れますが、本編でフェイトと決着をつける回でOPと似たようなカットが挿入されています。そして戦いの後にフェイトは、自分の名前を呼んでくれた他者として、なのはを見出し、母との戦いに参戦します。これはバトル中になのはがフェイトの瞳にしっかり移り込むことで強調され、それはOPでも一瞬ですが同様の姿が描かれています。

フェイトは母を求めて戦っていました。しかしフェイトと対峙するなのはは、いったい何を求めて戦っていたのでしょう。周囲に知り合いはおらず、依頼者であるユーノや時空管理局の人たちはなのはの力に目を付けただけの他人ばかり。ここで見られる「なのはの善意」というのが個人的に『魔法少女リリカルなのは detonation 』で描かれたなのは像だと感じています。

話が脱線しまくりですが、フェイトの心象に触れていくと、なのはは一体なぜそこまで戦えるのだろうかという、なのは自身の孤独が浮かび上がってくるようになってはいないだろうか、と感じるということです。

「なのはは魔法少女となることで、理解され得ない領域へと踏み込み、フェイトが抱える孤独に近づいているのではないか」

という一種の予感があるのではないか、と感じられます。
なのはが本編で暴力を使ってフェイトを止めますが、そのときのなのはの懸命さがフェイトの心を開き、なのはの孤独をフェイトが癒したと考えると最終回が非常に身に染みる演出だと感じました。なのはが必死に救おうとしたフェイトに、暴力という形を通じてなのはの心が通じた、というのは作品の方向的にも美しい。フェイトがしっかりとなのはを見ているということを描くOPから、フェイトの中のなのはの立ち位置を本編でも描き、リフレインさせてみせている。OP時点で示唆されるなのはの「孤独感」は、単なるネガティブな状態ではなく、フェイトとの距離を縮め、フェイトを救うための共通言語として機能する側面を本編と絡めて強調されていると感じます。それだけ緻密に計算された配置だったのではないか、と。

そこを物語の中からそこを掬い上げる演出、そして曲の歌詞も印象的なんですよね。今作は新房昭之作品の中でも新房色の薄い作品だと感じますが、ところどころに見られる緻密な配置に総合力の高さを感じ、なのはという作品の力強さを感じます。また改めて新房昭之作品としての『リリカルなのは』と『まどか☆マギカ』は語られて欲しいなと思います。

以下、OP各カットについて。

梅津泰臣パート
当時誰もここ梅津さんだと思ってなかったような。指摘されている方もいたかな?まどマギ10話は1カット見破ってる方がいて凄いなと思いました。




佇む姿から、目を開けるアップへ。しっかりとこちらを見る穏やかな微笑に少女らしい愛くるしさがあります。




1人でうずくまる姿。穏やかに眠っているような。しかし1人でいる姿を見せるのが印象的です。





ユーノがきてフィルムが回るような効果。ここで日常から魔法少女としての世界へ移るような意味合いを感じるかな。なのはが笑顔を浮かべてウィンクしているのが印象的。この後の魔法少女としての姿ではこういう表情を見せていないので、そこに意図があることを感じさせられるかなと。







藪野浩二 パート
フェイトとなのはが目を開く。
フェイトパートはサビのパートを連想させる窓、なのはは新房演出らしいカット割り、引きの絵、トラックアップまたはドリーアップ。引きのロングの絵でなのはの奥の門の奥が青くなっているの、光の加減の表現ですが青が空っぽい印象を受けるのが目を引きます。冒頭から最後まで、なのはで空の青さを印象付けるのが気になります。対するフェイトが夜である点を踏まえると、ここに明確な対比があるように感じられます。


度々挿入される魔法を連想されるカット群。変身シーンの直前に魔方陣を挿入することで魔法を使ったことを暗示しています。なのはが魔方陣を発動して~と説明的な段取りをすっ飛ばしてイメージを挿入するのみで進行していくのがリズムカルで良いですね。魔方陣の3D化は早く、そして実に効果的なエフェクトで、最初にこれを発明した方は偉大だなぁと感じます。初めにやりだしたのはどこなんでしょうね。



変身シーン:尾尻進矢 パート
本編の変身は友岡さんですがOPは尾尻さん。OPと本編で2シーン変身シーンがあるの凄いですよね。この一連、なのはが弾き上げたレイジングハートに移り込むようになのはの変身が始まりますが、レイジングハートの中で変身しているようにも見える。まどか☆マギカでソウルジェムの中の世界が登場しますが、そこを考えると似たようなことを既になのはでレイジングハートの中の世界での変身という形で発露していたのかなと思えて面白いですよね。


そうしてその映り込みが無数に増え、なのはの実体が入り込み、変身世界の入れ子構造をダイナミックに見せており、変身を不可思議な現象として捉えて見せる映像演出が非常に面白い一連。『まどか☆マギカ』の板村さんコンテのOPではもう一人の自分との合体として変身を捉えていたりしましたね。






赤い空間から少しずつ色味が変わる。こういうちょっとずつの変化も手間がかかっており細かいところまでこだわっている印象がします。






レイジングハートの世界から出たと思ったらレイジングハートはなのはの奥にある。そしてお互いが画面の奥に移動していく中で距離が同一となる。空間的に別々の位置にあるものが、同様の位置まで動かすことで一致する。アニメーション的なウソの付き方がインパクトを生んでおり非常に印象的。変身シーンは特別なシーンであることを表明しているようであり、その特別感の見せ方が素晴らしいシーンですね。




変身シーンでは一度は目を開けていたのに、変身後に改めて目をゆっくりと開ける。直前のシーンでは、もしくは鏡像の世界、レイジングハートの世界では笑顔なのに、現実では少し寂しげな印象を受ける。このギャップが魔法少女としてのなのはの孤独感を感じるポイントかな。ここで描かれる2面性が本編に通じるドラマ部分を補完する意味合いを感じられる。それを変身という一連で触れてくるのが面白いところですよね。みなさんはどう感じてるんだろう。





足のアップから魔方陣が広がってなのはが顔を上げる。魔法を行使する部分を別々に見せてテンポを作ってますが、変身シーンの後だと空間的な位相のズレを描いているようにも感じられるかな。変身シーンで異世界にいたなのはが魔法を行使しながら現実に世界に戻ってきた、みたいな。端的な演出で変身シーンの空間は何か?という問いに答えているようで、一種の変身シーンの謎の回答のようで面白いですね。この辺の一連のどこかが橋本さんかな。




友岡新平パート
実はめっちゃパンモロしているカット。gooでは載せられないので割愛。太陽を背にする女の子で、光のものという印象付けはサビで登場するフェイトが闇のものとすることへの対比でしょうか。変身シーンのレンジングハート同様、円の中にいる存在でもあるのを印象付けられる。







アップからカメラを引いていく。バルディッシュを構えるアクション。ビルから離れていく中でもフェイトの存在が大きく描かれるアニメ的な誇張が楽しいカット。スポットライトでフェイトの金髪を強調しているような感がするのも面白い。
ここから以下サビの歌詞「瞳の奥、吸い込まれそうな」の一連。





なのはが飛び上がってきてフェイトの瞳に映る。そしてフェイトがビル群の窓に写り込む。

ここまでが友岡新平パート。
フェイトの瞳になのはが映り込むことで、歌詞とのシンクロを強く意識してしまう部分。ビルに映るフェイトの姿は明確に描かれるけど、なのはは映り込んだ姿のみで、実体は描かれない。OPで特に目立っているシーンで印象に残る一連ですが、歌詞の「吸い込まれそうな」のイメージをこのように描いているのが面白いですよね。フェイトの瞳に映った世界とも違う、なのはの姿。変身シーンが異界的なアプローチでしたが、ここもそのイメージを意識してしまいますね。とくになのは自身が実体で描かれないことで、なのはの不在性に触れ、歌詞の「笑顔の裏の真実」となのはが重ならないように描かれているように感じられる。直前の歌詞とのシンクロが、シンクロしない歌詞と絵を逆に強調し、「笑顔の裏の真実」とは何か?と触れているようであるのが、このOPの魅力だと感じます。


サビでOP曲のクレジットは普通かもしれませんが、ここの対峙で曲を印象付けるのが歌詞の意味を気にさせるポイントとなっている気がしてなりません。








斉藤良成
確かにフェイトとかよくみると斉藤さんっぽいなとなる。A'sの斉藤回は盛り上がる回が多かったので修正されたのは割と歴史的な出来事だったように思えます。1期の斉藤回は新房的なサイケデリックかつアップのダイナミックな絵を入れつつ大張的な絵が入り込んだ魔法少女らしからぬ回ですが、それが今日まで続くなのは像の礎になったのは間違いないと思います。友岡、斉藤はなのはの中でも視聴者的に特に印象的な方々だったと思います。


吉木正行パート
A'sのOPでも引用されるなのはを象徴するぶつかり合い。ここではフェイトではなくなのはの真剣さと丸みを損ねないようなバランス感を意識させられるかな。フェイトがそこに感じ入るものを見つける話であると思うので、特になのは表情が意識されますね。





そして再びフィルム風の画面から日常へ戻ってくる。なのはが作った笑顔の表情を両親と友達が行うのが印象的ですね。2人の子であること、2人の友達であるを印象付けているような感じかな。直前のジュエルシードのカットもですが、反射する効果が瞬きのような印象があるので、目を閉じる、目を開ける、という動作に含みを持たせているようなところが気になります。動かすことで動作を印象付けられますが、特に表情を見せたいような印象を受けます。




冒頭と同じく佇む姿。水の波紋が歪んでいるようであり、しかしなのはの姿から見ると同心円状になっているように見える。こういう形で歪みを印象付けられているような気がします。「誰も知らない孤独の海を深い青に染めてく」とは変身前に流れる歌詞ですが、このシーンがそうなのかもしれないという予感がありますね。日常に回帰しても、まだ魔法少女が続くことは孤独なことだと語られているようにに受け取れます。




「ずっとそばにいるから」
ここも歌詞とのシンクロ、もといなのはの口元が歌詞と合っているのが印象的。口をアップで見せることでそこを読んでほしい意図が見えますね。つまり歌詞と絵は一体であることをこのカットはやっているわけです。ということはOPの歌詞と映像にはシンクロの関係があり、そこには明確な意図があるわけです。だからこそ、このOPの絵と歌詞は見るたびに考えさせられてしまうんですよね。そしていったい誰のそばにいるんだろうか、と意識させれます。カット内容も目を閉じたり開けたり、歌詞とシンクロしたりと、なのはの大胆な表情の変化を映すカットで印象的です。

岩井優器パート
ここでフェンスを貫通するカットであるというのは自分的には結構反応しちゃうかな。京アニのAIR 6話も3Dでそういうカットを組んでいたりするので、同じエロゲー文脈にある作品であることは意識したいという感。あとまどか☆マギカのOPもちょっと意識される部分かも。


出崎風なレイアウトな感。巨大なレイジングハートの上に立つというのがアニメ的な世界を強調されていて、舞い散る桜の挿入からタイトルと関連付けたカットであることを意識させられる。これが『魔法少女リリカルなのは』の世界であるという帰結というか。


タイトルが桜の花びらの下に隠れているという、そういう隠されたタイトルであることをさくらで彩っているのは『カードキャプターさくら』を思い出してしまうところかな。しかしこの作品は『魔法少女』を冠するところに意味があるように思えるので、改めてタイトルを見せるところの意図も考えてしまうところです。みなさんはどう捉えているんでしょう。

というわけで、『魔法少女少女リリカルなのは』のOPについて、でした。実は
Fate/stay nightのOPなどと同様くらいの時期に、当時見れなかった憧れの作品の一つとしてメチャクチャ記事を書きたいと思っていたのですが、あまり形にならなかったので、今回は割とまとまって書きたいことが書けたので満足です。

最近はあまり自分が読みたいアニメ語り記事が読めないし自分も書いていないので、自分が読みたい記事を書いてみた、というところでもあります。『魔法少女リリカルなのは』は同時期の新房作品『月詠』『コゼットの肖像』だけでなく『The Soul Taker 〜魂狩』から続く京アニ作品『ナースウィッチ小麦ちゃんマジカルて 』なども意識させられ、00年代で特にアニメ史的に面白いなと思っている作品なので、またどこかで触れていきたいところです。


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