hokutoのきまぐれ散歩

ブログも12年目、4000日に到達。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。

交通博物館(万世橋)

2013-11-11 05:00:36 | 日記

鉄道シリーズ その17。北から徐々に降りてきた博物館シリーズだが、やはり神田須田町にあった交通博物館を抜きにしては語れない。この交通博物館は鉄道開通50周年を記念して東京駅近くに1921年10月14日にできたもので一旦、関東大震災で消失したが、1936年旧万世橋駅跡に新館として造られた。今の名前になったのは1948年で特色としては鉄道だけでなく徳川大尉が初めて日本で空を飛んだアンリ・ファルマンという飛行機や円太郎といわれたバスなども展示されていた。はじめてこの博物館を訪れたのは小学4年生のときだったように記憶している。詳細はあまり覚えていないが、今もある鉄道模型のジオラマがあまりに大きく色々な車両が走っていたことは覚えている。

入口にには弁慶号と新幹線の0系が仲良く並んでおり、中に入るといろいろな形の信号やスイッチバック、ループ線の仕組み、ブレーキや架線の役割など鉄道関係の事象を模型などで分かりやすく解説してあった。もちろん目を引いたのはいろいろな蒸気機関車C57、D51、9856号機関車、日本には走っていなかった巨大なマレー式機関車、客車は御料車や電車などとにかく鉄道関係があった1階だけで疲れてしまうくらいあった。2階や3階には鉄道以外は籠からトヨタのオート三輪、国鉄バスの第一号まで展示されていた。

最後に訪れたのは2006年2月。3月の閉館を前に旧万世橋駅ホームの公開の際に見学に行った。ちょうど今は万世橋エキュートとなっている所まで階段を上って行ったことが懐かしい。なお、博物館とホーム跡の位置関係は最後の写真のとおりである。当日は昼食に神田の藪で昼食を取ったがその店も火事で焼けてもうないことも寂しい。


『準急』と『急行』

2013-11-10 07:50:19 | 日記

鉄道シリーズその16。最近では動物や植物などをレッドノートなどといって保護が必要な種類に対し、社会に警鐘を鳴らすことが一般化している。鳥類ではドドやリョコウバトなどは絶滅してしまい、トキやアホウドリが絶滅危惧種のカテゴリーに入っている。また、日本産のメダカやゲンゴロウまでもが絶滅危惧種となってしまったことがニュースになっている。

これは鉄道の世界にもある。ことJRに限ると『準急』は絶滅種であり、『急行』もあと1種類1往復しか走っておらず、どう見ても絶滅危惧種である。勿論、私鉄では両方とも無事に生き残っているが。今日はJRと国鉄の『準急』『急行』に触れて見たい。


まず『準急』、初めて準急という名がついた列車は1926年の東京~名古屋と名古屋~神戸を走った。戦中は一旦休止したが、1946年には復活。準急の基準は列車電車の規格が急行より劣り、300キロ未満短距離であり、急行よりやや安い料金で乗れるものとして運用された。ただ、中にはかすが(名古屋~湊町、関西本線経由)、ひかり(博多~門司港~大分~熊本)など長い距離を走る例外もあったが。しかし、その存在も徐々に曖昧になり、1968年10月のいわゆる『ヨン、サン、トウ』の改正であっさり全廃された。その後は無料で乗れる快速が都市近郊部では運行され、準急は全く復活の機運もない。

一方、『急行』は準急より古く1894年に山陽鉄道が神戸~広島で運転したのが嚆矢。官設鉄道は1896年 新橋~神戸間で運転をした。戦中から戦後にかけて一時運転を休止したが、間も無く復活、昭和30年代、新幹線開通までが黄金期である。


例えば、1961年10月の時刻表で東海道本線下りのページを見ると、8時半六甲(~神戸)、9時18分桜島(~西鹿児島)、9時半しろやま(~大阪)、10時いこま(~大阪)、10時50分第1なに
わ(~大阪)、11時霧島(~西鹿児島)、12時20分第1せっつ(~大阪)、12時半雲仙・西海(~長崎,佐世保)、14時第1よど(~大阪)、14時35分高千穂(~西鹿児島)、19時半はりま(~姫路)、19時50分出雲(~浜田)、20時伊勢・那智(~鳥羽・新宮)、20時10分第2せっつ(~大阪)、20時20分能登(~金沢、東海道回り)、20時30分安芸(~広島)、20時40分銀河(~大阪)、20時50分第2いこま(~大阪)、21時瀬戸(~宇野)、21時10分明星(~大阪)、21時20分第2なにわ(~大阪)、21時半筑紫・豊後(~博多・大分)、21時40分彗星(~大阪)、21時50分第2六甲(~大阪)、22時月光(~大阪)、22時10分金星(~大阪)、22時半第2よど(~大阪)、22時45分大和(~湊町)と28本、特に20~21時は10分に一本と今の新幹線並みに急行が走っていた。

小生も学生の頃までは東海道本線では静岡行の東海や伊豆急下田行の伊豆、信越本線の妙高や信州、白山(白山は途中で特急に格上げ)、夜行の能登や越前などまだ多くの急行が走っていた。しかし、新幹線開業やL特急の開始などでかなりの急行が特急に格上げされたり、急行券のいらない快速や新快速となるなどして減少の一途をたどり、急行はきたぐに(大阪~青森)の廃止で今は客車急行のはまなす(青森~札幌)の1往復のみという状況。しかし、はまなすも車両の老朽化が進んでおり、風前の灯である。これも『昭和は遠くなりにけり』かもしれない。


田町駅芝浦口界隈

2013-11-09 00:11:42 | 日記

田町駅芝浦口に降りた。田町駅とは不思議な駅で周辺の地名は芝や三田で田町という地名はいまはない。ではこの名前の由来は何なのか。田町駅は1909年に東海道本線が開通する共に開業、当時このあたりは芝田町と言われていた。これは芝+田町と分解できる。当時の町の名前は大ぐくりな地名(芝、麻布、下谷、日本橋など)と小さな町名で構成され、例えば麻布狸穴町や日本橋蠣殻町という型が多く、芝+田町であったため、駅名は芝は付けず『田町』となった。その後も地名は芝田町は存在したが、町名変更で1964年に一部が芝5丁目、さらに1967年に残りが三田3丁目に編入され、芝田町の名称 は今はない。付け加えると駅が出来た頃は芝浦口はまだ目の前が海で、ようやく1913年に埋め立てが始まった。
そのため、いまでも三田口と芝浦口では風景が異なっており、三田口は東海道が通り、慶応義塾大学がある凹凸のある平野だが、芝浦口は埋め立て地らしく、平らであちらこちらに運河が流れている。学生時代に駅の反対側であるこちら側に来るのは田町ハイレーンでボーリングやビリヤードをする時のみで、当時、人も建物も少なかったが、今は高いオフィスビルやマンションも増加しており、様変わりである。


駅のデッキから降りるとすぐ右手に東工大付属高校がある。ここにはかつて1921年設立の東京高等工芸学校が設立された。工業学校と美術学校の境界領域であるデザイン、工芸の専門学校として京都高等工芸学校(現、京都繊維工芸大学)に次ぐ伝統を持つ。その後東京工業専門学校に改称、戦後は千葉大学工学部に承継されたが、付属高校は1951年に東京工業大学に移管された。そのモニュメントもすぐ前の校庭に立っている。


その先に少し高い橋が見えてくるが、これが新芝橋。下に新芝運河が流れており、両側は遊歩道となっている。風に吹かれながら運河沿いに右手に向かうと藻塩橋が目前に出てくる。


これをくぐり、右手に上がり、道路を歩くと百代橋。新芝浦運河の先には八千代橋がある。一般の川と違い、真っ直ぐでアップダウンがない。この辺りはオフィスビル以外に高層マンションが林立しており、かなり風景も変わったのだろう。秋の午後、潮風を感じながら、歩くのもまたいい。商店街も運河の街としてこの街を売り出そうとしているが、昔と違い変な匂いもなく、コースを作れば楽しめそうである。


赤鬼 ~三軒茶屋グルメ

2013-11-08 06:25:33 | グルメ

気がつくとあとカレンダーも残り一枚、寒くなってくるのも当たり前である。『精選 東京の居酒屋』太田和彦著という本を偶然手にしたのが1993年、なかなか面白そうな居酒屋がラインナップされており、最初の店が銀座八丁目の『樽平』。なかなかいい店だったので、太田氏の審美眼を信じて一軒毎に飲み歩いた。その中の白眉の一軒が三軒茶屋の『赤鬼』である。初めて入った時は混んだ店だなあ、という印象、酒の種類と選別の仕方、店員の知識量、そしてつまみの旨さ、どれをとっても素晴らしい。一点きになったのはタバコの匂いだったが、その後禁煙となったので、満点の店だと思う。今は土曜日もやっているが、なかなか予約が取れない所が難といえば
難である。
今日は古くからの友人O氏と呑む約束をしていたが、何とか『赤鬼』の予約が取れた。予約の電話で刺身盛り合わせをお願いする。この店に行ったことがある人は必ず頼む、というのも予約すると魚の9種類が増えるからである。

店に到着したのは7時5分、店はカウンターの一部を除き満員。まず、地ビール小ジョッキで乾杯、突き出しはマグロのすきみとイワシの団子汁、特に新鮮なイワシを叩いた団子汁は美味いら、酒はまず十四代(山形県)のオリジナル大吟醸を注文。いつ飲んでもうまい。あてはいつもの『鯵の唐揚げ土佐酢かけ』、『ホタテ入りオムレツ』と『タコの吸盤焼き』『珍味3品盛り合わせ』。

まず、珍味が登場、イカ塩辛、生カラスミなど。次いで鯵から、骨まで美味しく、土佐酢が良く合う。この辺で『鍋島~三十六萬石』(佐賀県)や『写楽』(福島県)を注文。刺身もマグロ・生うに・生タコ・イサキ・カンパチ・カレイ・平目・ホタテ貝・コチの9種類の盛り合わせでそれぞれが美味い。

ここで『王禄~丈径』(島根県)これは結構重いが、旨みも強く存在感のある酒。


さらにオムレツが登場。ホタテと卵そしてバターがなぜかよく日本酒に合う。次いで『あたごの松』を注文、これは若いが荒々しく、いい酒。さらに『ミョウガとアゲのあえもの』『竹輪の天ぷら』『塩らっきょう』『ぬか漬け』を注文、最後に『奈良萬』(福島県)を飲んで大団円。みんな美味かったというのが、正直な感想。なかなか予約はとれないが、また来たい店である。

赤鬼
世田谷区三軒茶屋2ー15ー3
0334109918

日中線記念館

2013-11-07 06:40:32 | 日記

鉄道シリーズその15。北から鉄道記念館を一つずつ紹介しているが、青函連絡トンネル記念館は先日の日本一低い駅でかなり紹介したので割愛する。ただ、あのブログでふれたように竜飛海底駅は11月10日で最後の体験下車が終了するが、その切符の購入を巡り、朝日新聞が発売日に列ができたが、前に並んていた2人が買いだめして、売切れてしまったくだりが記事で紹介されていた。1人でも多くのファンが行きたいのにえネットオークションに出品して(2000円ほどの整理券が5000から1万円くらいらしい。)儲けようとするダフ屋的な輩は絶対許せない。

前置きが長くなったが、今日紹介するのは『日中線記念館』である。日中線は福島県喜多方・熱塩間11.6kmを結んでいた線で当初は栃木県今市と山形県米沢を結ぶ計画の一部として1938年開業したが、その後の戦争などで計画は中止となり、第一次特定地方路線となって、1984年に廃止になった。当時から運行本数が2本と清水港線に次ぐ少なさで興味はあったが乗れないまま廃止された。

その終点だった熱塩駅をそのまま保存して1987年に整備された記念館。訪れたのは今年5月、まだ寒さが残る頃だったが、洋館風の駅舎とホーム、旧型客車オハフ33、ラッセル車が展示されている。駅舎の中には当時の発券機やパネルが飾られ、地元の人たちの手で運営されている。係りの人に聞いたらやはり冬は雪が深くて施設維持は大変らしい。5月でもストーブがあり、温かいコーヒーが有難かった。それでもホームには桜が咲いて、遅い春を迎えつつあった。バスは廃止されて、行くなら車しかない。

会津の自然の中で素晴らしい風景と鉄道の遺構が楽しめる無料スポットである。


高橋是清翁記念公園

2013-11-06 06:42:22 | 日記

先日は表参道から青山一丁目まで歩いたが、今日はその少し先に高橋是清翁記念公園があるので行って見た。赤坂郵便局から赤坂方面に歩くと手前にカナダ大使館、先は草月会館、向かいに東宮御所のある赤坂7丁目にその公園はある。


高橋是清はダルマ大臣として名を馳せた人物で元々は森有礼の勧めで文部省や農商務省の役人を歴任した。そして世に名が知れたのは1904年に日銀副総裁として英国での戦費調達のための外債引受交渉の成功で、その実績を買って1911年に日銀総裁になる。その後、1913年大蔵大臣、さらに当時の首相原敬が暗殺後は内閣総理大臣になっている。ただ、半年で内閣は瓦解、その後、政治が混乱するが、加藤高明らと政友会、憲政会、革新倶楽部の護憲三派を結成、清浦内閣を辞任に追込み、加藤高明内閣で農商務大臣にもなっている。当時の彼の人気は高く、あるデパートが彼のそっくりさんコンテストを行ったくらいである。今の政治家では全く考えられないほど愛すべき大臣で人気もあった。そのためか、日銀総裁で唯一紙幣の図案(50円札)もなっている。


その後、犬養内閣、岡田内閣で計6度目の大蔵大臣になり、金再輸出禁止と国債の日銀引受を行なうことで、世界恐慌で厳しかった日本経済を立て直した。しかし、軍備予算の縮小を唱えたため、1936年2.26事件で暗殺された。何と現役大臣ながら82歳だった。

その私邸があったのが、この地を1938年に東京市に寄贈し、この公園となった。公園の面積は5200平米あり、今はカナダ大使館になった土地の一部も昔はこの屋敷の一部だったほど広かったらしい。当時の建物は小金井市の江戸東京たてもの園に移築されて戦火をまぬがれたので今も見ることが出来る。
公園正面入ったところには子供の遊具があり、普通の公園だが、中に入ると灯篭や石垣があり、奥には高橋翁の銅像がある。今から丁度紅葉の季節で、美しい。その色づく葉を見ながら、当時軍部が強かった中で財政健全化を唱え、日本を不況から脱却させ、命がけで職務を全うしたその生き方を偲びたいものだ。

今はタクシー運転手の休憩場所として有名で、トイレに行ったり、のんびり一休みする人や犬の散歩を楽しむ人など、数少ない都会のオアシスであり、かつてここで血なまぐさい2.26事件などあったことも想像だに出来ない。

日本一駅~東西南北編

2013-11-05 06:39:49 | 日記

鉄道シリーズ その14。次の日本一は東西南北の端の駅。(JRに限る)
まず、北端は稚内駅(北海道、宗谷本線)。戦前までは樺太まで航路があり、さらに北に稚内桟橋駅があった。今の稚内駅は1928年に当時稚泊(大泊、現在コルサコフ)航路の待合所に稚内港駅として作られたもので、その後、1938年に桟橋近くに稚内桟橋駅(仮駅)設けたが、太平洋戦争終結の1945年稚泊航路が廃止されたのを機に今の稚内駅が日本最北端の駅になった。当時の駅は北防波堤ドームの手前にあり、ここで乗客は列車を降り、ドームを通り、連絡船に乗った。今もドームは当時のまま残されている。

なお、戦前は南樺太も日本領であったため、厳密には最北端の駅は南樺太(樺太東線、古屯駅)あった筈である。

次は東端であるが、東根室駅(北海道、根室本線)。簡単に言うと根室本線を根室に向けて乗り、終点の一つ前の住宅地にある無人駅である1992年根室に行った際にわざわざ下車したが、何の印もなく、感動はなかった。ただ、当時は根室駅には日本最東端のモニュメントがあった。


南端は西大山駅(鹿児島県、指宿枕崎線)、ここも無人駅だが、モニュメントはあり、開聞岳が美しく見える駅である。隣の山川駅にも有人駅日本最南端というモニュメントがある。終点の枕崎駅には始発駅最南端というモニュメントもあるそうである。


西端は小生が訪問した頃(1978年)は平戸口駅(長崎県、当時、松浦線)だったが、1986年第3セクター化し、1988年には『たびら平戸口駅』に改名、つまり、今はJRでは無くなってしまった。ちなみに駅名に『たびら』を付けたのは平戸口は平戸ではなく、田平町という隣町ということを主張したからだろう。ただ、結局平成の大合併で2005年に平戸市になってしまったのだが。また、今でも駅前には日本最西端という1962年に作られたモニュメントがある。このブログではJRで考えることにしているので、最西端は佐世保駅ということになるが。
なお、さすがに鉄道ファンを50年近くやっているだけあり、小生は全て降りたことがある。だからどうということもないのだが。

多摩動物公園駅

2013-11-04 07:47:26 | 日記

三連休もあまり天気は安定しない。その中で午後少し太陽が見えたので、気になっていた京王レールランドに出かけた。明大前で乗り換え、高幡不動まで特急でいく。しかし、2時35分に着いたが、次の多摩動物公園行きは2時49分、しばらく待つと動物のステッカーのついた4両編成の車両が到着。約2分乗って多摩動物公園駅に到着した。


駅には京王100周年スタンプラリーの9番目のスタンプが設置され(今回は5000系)、まず押印。そして改札外にある京王レールランドに行き、売店でスタンプ帳を見せ、特製ファイルをゲット。

レールランドは色々な展示やシュミレーターがあり、楽しそうだが、かなりの数の子供づれで一杯でじっくり見ることも難しい状況。すぐに諦めて、車両の展示コーナーへ。京王の2400系、3000系、2010系、5000系、6000系の新旧5台の車両が展示されており、特に2400系と2010系は懐かしさひとしお。また、豆電車も走っていたが、これもお子様で超満員。あまりじっくりとは行かないが、見学終了。


折角、多摩動物公園駅まできたのだからと子供も連れていないのに多摩動物公園にも入場。入口では象のモニュメントがお出迎え。

ここは上野と違ってとにかく広い、しかも丘陵地に作られているから、旭山動物園と同じでくたびれる。特に行きは登りばかりで始めの10分は動物は人間のみしか見ないまま、登りばかり。

ようやく、初めに出会ったのが、ライオン、次にチーター、更にサーバル(やまねこ)、フラミンゴ、アフリカ象、ダチョウ、シマウマ、チンパンジー、キリン、コウノトリ、ワシ、トナカイ、カンガルーなど見てようやくコアラに辿りつく。コアラは木にしがみついているだけだが、さすがに可愛らしい。さらに、オランウータン、テナガザル、トラなどを見たら4時を回り、動物も宿舎に入ったので帰ることとした。

とにかく、広大で歩くのに疲れた秋の一日。まあ、生まれて初めての多摩動物公園でそれなりに楽しかった。


京王 新宿駅

2013-11-03 07:49:24 | 日記

京王電鉄100周年スタンプラリーも8駅目。今回は新宿駅である。京王線が元々計画されたのは東京~八王子であったが、最初に1913年に開通したのは笹塚~調布間で、その後1916年に新宿に乗入れた。ただ、当時は今の甲州街道を登り、新宿南口(当時、停車場前駅)経由で新宿追分まで路面電車として開通した。その後、1927年旧京王本社に新宿駅を移し、さらに1945年7月に今の駅の地上部分に移し、JR新宿駅西口側が発着となった。1963年地下化し、ようやく今の形態になった。1945年に移したのは一説では電力不足でJRの跨線橋が登れなくなったためとも言われている。さらに、1978年輸送力増強のため、新線新宿駅を開業、1980年に都営新宿線が開業、直通運転をしている。

京王は元々甲州街道の路面電車でスタートしたが、開業当時は新宿追分が栄えており、そこまで伸ばし、少しでも顧客を増やそうとしていた。旧京王本社は古いビルで中に映画館もあり、『追分だんご』の隣にあって、約30年前の小生が銀行に入った頃に毎日歩いて小切手などを経理部に集金に行っていたが、あそこに元々の新宿駅が存在したことは知らなかった。

このスタンプに描かれている京王2000系は1957年より製造された17m級の全電動電車でライトグリーンに塗装され、しかも後継車が塗装色が変更されたことからグリーンカーと呼ばれた。1984年まで活躍した。

なお、コマーシャルではないが、同時に『京王の電車・バス100年のあゆみ』という写真集が出たので早速購入した。懐かしい写真が沢山載っていて1200円はお得かな。

御茶ノ水界隈

2013-11-02 08:11:47 | 日記

御茶ノ水にやってきた。御茶ノ水は高校や浪人時代は毎日のように通ったが、その後はすっかりご無沙汰で、特に橋を渡って昌平黌や神田明神の方向には行ったこともあるが、反対側は久々である。

JR御茶ノ水口を出ると順天堂や東京医科歯科大学など病院の立派な建物が目に付く。橋の上から聖橋を眺めると川の中に大きな足場が組まれていてあまり眺めが良くない。普段ならさだまさしの『檸檬』の歌にあるような風景が見れるのに。

駅の横を通り聖橋口方向に進む。この細い一方通行はいつも混んでおり、カロリーを始め懐かしい小さな店が立ち並ぶ。

本郷通りに突き当たると右折、
目の前にニコライ堂が見えてくる。緑青の色が鮮やかな丸いドームはこの辺りでは数少ない昔からの建物。中央大学も日立の本社、明治大学も皆新しく高いビルになっていく中でこの建物をみると心癒される。ニコライ堂は1891年に竣工した日本正教会の大聖堂で関東大震災で被害を受けたものの、修復され、戦災は乗り越えて現在に至っている。


御茶ノ水駅は台地の上にあり、坂も多い。聖橋の袂から万世橋方向にあるのが『淡路坂』これは江戸時代に鈴木淡路守の屋敷がそばにあったことが起源。さらに日立の本社跡に作られた高層ビルのソラシティに沿って下る坂が『幽霊坂』。昔は紅梅坂と呼ばれたが、本郷通りの拡幅で分断されたのでそれ以前に使っていた名前を付けたらしい。ちなみに幽霊坂という坂は都内に多いが、この坂も周りに木が茂り薄暗いことからこの名がついた。


そのまま小川町方向に向かい、駿河台信号を右折すると太田姫稲荷神社がある。この神社はもともと太田道灌の娘が痘瘡になった際にその治癒を祈念し、京都から一口稲荷を分祀したもの。そのかいあってか、娘の病が治り、喜んだ道灌は江戸城内に祀った。しかし、江戸時代に入り、江戸城改築に伴って現在の御茶ノ水駅聖橋口近くに移る。その後、1930年の中央本線拡幅時に今の場所に移されたとのこと。今は周りに高層ビルが立ち並び、見下ろされるように神社が残っている。

都内中心部、例えば京橋や六本木、大崎など高層ビルの林立で風景が様変わりすることはやむを得ないが、御茶ノ水のニコライ堂や神社、坂のように昔からの歴史が多く残って、またそれを大切にしている街は素晴らしい。