hokutoのきまぐれ散歩

ブログも12年目、4000日に到達。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。

まるよし〜板橋ランチグルメ

2018-02-18 05:00:27 | グルメ

『マツコの知らない世界』という番組はよく見るが、まあこれだけマニアックな人をよく見つけてくるなと思う。先日も『片手袋の世界』と言って片方だけ落ちている手袋の写真を撮っている人の話が出たが、見た後ついつい道に手袋が落ちていないか気になり、何回も見つけてしまった。その番組で以前にやっていた『板橋のしっとりチャーハン』の回が忘れられず、ついにその一つを訪れた。

某日半休をもらい、都営地下鉄三田線板橋区役所前駅で降り、首都高速5号の下に走る山手通りを渡ったあと左方向に5分ほど歩く。店の名前が『まるよし』、ちょうど遊座大山東町商店街の入口にあたる。黄色い看板が遠くから目立つ。


店は2方から入れるが、カウンターのみ。昼時はチャーハンを頼む人が多く、ひたすら中華鍋を振る親父さんとその他の調理をしている奥様の2人でやっている。多少はよそ者もいるが、ほとんどが近くの人がお客さん。メニューをみて『ラーメン半チャーハン』(700円)をお願いする。

私が入った時に席が一つ空いていたため、座ろうとしたが、1番壁際の人と一緒だったらしく、そちらでなく壁際の席にと言われ、従ったのだが、親父さんは何度もすみませんと言ってくれるほど腰が低い。

ちょうど目の前で中華鍋を振るのがよく見えたのだが、全て注文を受けて一つずつさばく。私の場合は最初にラーメンが登場。典型的な東京ラーメンでチャーシュー、メンマ、少量のもやし、ワカメ、半分のゆで卵が乗っている。スープを一口、ついで麺に行くが始めてきたのに食べ慣れた懐かしいラーメン。


そして、半チャーハン、これは卵をまとっているしっとり系、チャーシュー・ナルト・ネギなどが細かく刻まれていて味もいい。吉祥寺のさくらい同様に大変美味かった。お二人の接客もよく、食べにきた人はみんなカウンターに食べ終わると食器を上げて行く。雰囲気もいいお店でした。


まるよし
板橋区大山東町31ー1
0339641317

梅の切手

2018-02-17 05:00:20 | 日記

『切手シリーズ』その69。2月ということで今回は『梅』の切手について調べてみた。梅は桜とともに日本を代表する花であり、最初に記念切手となったのは冒頭に写真のある1961年2月の花シリーズ第二弾である。

次に描かれた1964年2月に発行された鳥シリーズ第5弾のウグイスの背景に描かれている。

1966年2月に出された名園シリーズ第1弾の水戸偕楽園の切手に白梅が描かれている。

また、絵に描かれた梅は1969年9月に発行された国宝シリーズ第7集の紅梅白梅図(尾形光琳画)は素晴らしい構図である。

1971年10月の第26回国民体育大会の図案にはテニス選手のバックに潮岬燈台とともに梅の花が描かれている。これは会場が和歌山県であったからである。


このほかにもふるさと切手では梅を図案としたものを多く見ることができる。

ところで梅を図案とした切手で最初に登場したものはさらに古い。1939年9月に発行された第1次昭和切手の最高額10円として『梅花模様』の切手が発行されている。この図案は1945年8月の第3次昭和切手の10円、1947年1月の第1次新昭和切手の10円と100円(ただし、100円の刷色は赤)、1947年7月の第2次新昭和切手の100円と戦前から戦後にかけて発行されたなかで図案の変更がなかった数少ない切手である。

2014年3月に82円普通切手の図案として採用されている。これは郵便料金値上げに伴い図案の変更をした際に発行されたものである。


さらに慶事用52円切手として登場、現在も62円切手として使われているのも扇に梅が描かれたものである。こうしてみると梅は松竹梅の中に入っていることもあり、やはり、おめでたい図柄でもあるのである。
最後に番外編、『梅』でも『梅 憲次郎』という民法学者が文化人シリーズの1人として登場したのは1952年8月、こちらの方が花シリーズよりかなり古いのである。

ちなみに私が文化人シリーズを集めた時にその名前を知らなかったのは『西周』と『梅憲次郎』の2人だけだから妙に忘れられない。そこで『梅』について調べているうちに思い出してしまったのである。また、西周はなぜか切手の評価額が文化人シリーズの中で一番高かったことも思い出です。


一の屋・人形町バル〜人形町ランチグルメ

2018-02-16 05:00:55 | グルメ

毎日前を通るのになかなか入らない店というのは結構ある。別に店の雰囲気が悪いわけでもメニューが好みでないからでもなく、何となく足が向かないのだ。

人形町の以前の事務所のすぐそばにある『一の屋・人形町バル』。夜は貸切以外の時はガラガラ、しかし、ランチは結構入っているのである。
名物はワインカレー、初入店のため仕組みが分からなかったが、店入ってすぐのところにある券売機にて食券を買うシステム。

食券を店の人に渡すと入口近くの席にお冷を置かれたので止むを得ず座るが、入口が開くたびに冷たい空気がやってくる。お願いしたのは『辛口ワインカレー』(750円)、しかし、その後7、8分は待たされる。

やってきたのが、銀のさらにライス、カレールーはミニ樽のような入れ物に入っている。ルーはサラッとしたタイプ、全てライスの上にかけるが、たっぷりある。

添えてあるのが千切りキャベツと揚げ茄子2切れ、揚げたポテト2つ、そして福神漬。一口口に入れると結構スパイシー、ただ、どこにワインが入っているのかはあまりよくわからないが。ライスが型抜きされているため、結構固く、これを崩しながら食べる。

食べていくうちに辛味が増し、寒い冬には丁度いい。12時を越えると入店客も増えて、人気はワインカレーが1番だが、牛はらみ鉄板焼丼もなかなか。

食後にはコーヒーもつき、コスパは悪くない。バルだけに座りにくい椅子と寒い外気は気にはなったが。


一の屋・人形町バル
中央区日本橋人形町1ー2ー7
0362311616

宮城ふるさとプラザ

2018-02-15 05:00:21 | 日記

『アンテナショップ巡り』その27。今までにアンテナショップで巡ったのは日本橋・有楽町・新橋・銀座といった場所が多かったが、今回の『宮城ふるさとプラザ』は池袋駅東口を降りてサンシャインシティに向かう途上にある。


まず、入口には伊達の牛タン、向かい側には萩の月と有名ブランドが目白押しだが、入口右手には『ずんだソフト』の販売も行っており、寒い季節にもかかわらず、列ができていた。

中に入ると名物の多い宮城県だけに『仙台麩』『仙台味噌』『めかぶ』『笹かまぼこ』といった著名な物産や『墨廼江』『浦霞』『栗駒山』『日高見』といった銘酒に加え、農産物や水産物などを販売。


今日は茹でたタコや東京では中々お目にかかれない『アカモク』という海藻が売られていた。また、最近は地方独特の調味料、ソースやポン酢、醤油なども人気があるようであった。

スペースも広くて固定客が多いのか、レジに並ぶ人はたくさんの品数をレジカゴに入れていたのが印象的である。

寿限無 担々麺〜人形町ランチグルメ

2018-02-14 05:00:42 | グルメ

なぜか人形町には四川料理の店が多い。店にもよるが、表通りの某店の牛肉水煮麺などは驚くほど辛く、割に辛いのには強い私でもやや完食は辛かった。さらに担々麺専門店も『博』という銀座アスターで修行したマスターがやっている店があり、コスパはあまりないけど辛旨である。

しかし、そんな中にまた担々麺専門店が昨年10月にオープン、寒さ厳しき折、思わず入店した。実はこの店は以前も定食中心の小さなチェーン店であった店をほぼ居抜きでオープンさせたもの。店の名前は『寿限無』、入口の横には担々麺へのこだわりが書いてある。

入店後、カウンターに案内されてオーダー。まずはシンプルな担々麺(780円)をお願いしたが、まずは辛さ(マイルド、辛口、中辛、大辛、激辛)、茹で方、ライスの有無を聞かれる。辛さの程度がわからないが、とりあえず中辛、茹で方は普通、ライスは小盛りでお願いする。

店はホールが元気の良い中国女性が2人、中にコックが1名の3名体制。入店は11時50分で先客は1名だったが、次々と入店して担々麺がやってくる頃にはほぼ満員。やっぱり寒いからかも知れない。

担々麺はまずはスープから、胡麻はそれほど強くなく、少し柚子が香る。味はしっかり、ただ、サラッとした粘度の低いスープ。思ったほど辛くない。これからば次回からは大辛でも問題なし。

麺は細麺ストレート、博多ラーメン風であり、茹で方に拘るのがわかった。硬めでも問題なし。麺の量は結構あって、食いであり。青菜、チャーシュー1枚が入っているが、チャーシューは味しっかりの煮豚系、ホロっとする。これをライスに載せて食べたが、これは旨い。麺に関しては、元来、私は細麺好きだが、もう少し太い方がスープによく絡む点からも見直しの余地ありかな?まあ、全体的にはバランスが良く、美味かった。また、小ライスで満腹である。

他のメニューは単なるラーメン、サンラータン、パイコーいり担々麺などあるが、パイコーは是非食べて見たい。この辺りは四川料理激戦地ではあるが、常連も結構いるようで安泰かもしれない。



寿限無 担々麺
中央区日本橋堀留町1ー8ー15


数寄屋橋

2018-02-13 05:00:21 | 川と橋

『ぶらり橋巡り』その63。今回は今はもうない橋、数寄屋橋についてである。

現在の東京高速道路となっているところはかつては外堀であり、これにかかっていた橋の一つが数寄屋橋である。しかし、1958年には埋め立てられてしまっていて橋の碑が残されている。


有楽町方面から歩くと宝くじ発売時には必ず列ができるチャンスセンターがあるのが数寄屋橋公園。公園といっても小さな植え込みがあるくらいであとはコンクリート舗装されていて名曲『銀座の恋の物語』の碑が建てられている。


さらにその奥には長崎の原爆記念碑でも有名な北村西望作の『燈臺』と題された力強い彫刻がある。これは関東大震災10年の記念塔として作られたものである。


晴海通りを挟んで数寄屋橋公園は続くが、そこには劇作家菊田一夫の筆による『数寄屋橋の碑』、裏にはその来歴が書かれている。そしてこの石碑は数寄屋橋旧橋の素材が使われているのである。


さらに奥には独特な丸いフォルムの泰明小学校の校舎、その手前には岡本太郎による『若い時計台』という作品もある。これは大阪万博のシンボル太陽の東京にも似ていて、実は顔の部分がライトアップされることにより顔が変わる仕組みになっている。ちなみに作られたのは万博2年前の1968年である。

今は橋は無くなってしまい、その代わりの道路が地上を走っているが、かつて目の前にあった日劇も朝日新聞本社も今はなく、数寄屋橋上で撮られたあの春樹と真知子が出会った『君の名は』の名シーンも今は過去のことになってしまっている。まあ、『君の名は』といえばアニメと思う人が大多数だろうが。

藁ウ鴨ニハ福来ル〜吉祥寺グルメ

2018-02-12 05:00:38 | グルメ

『藁ウ鴨ニハ福来ル』というのが、本日お邪魔したお店。吉祥寺にできた鴨のしゃぶしゃぶを食べさせてくれる店だが、店の名前には意味がある。この店のことを知ったのは土曜日の朝にやっている『ぶらり途中下車』という番組。数週間前に舞の海氏が紹介していたのだが、このVが実に美味そうだった。

しかし、翌週に予約したら満員、立ち飲みならと言われる始末。そうなると行きたくなるのが性分でようやく日曜日夜に席を確保した。店には6時に着いたが、かなりの入り。入口に近い立ち飲み席にも人がいる。この店に来たらやはり『鴨しゃぶ』と『鴨ネギ焼き』は外せない。鴨しゃぶ2人前と鴨ネギ焼き、鴨叩きを各1人前注文した。


まずはビールで乾杯、ハートランドがあるのが嬉しい。すると鴨叩きが登場、鴨の身を半分くらい火を通し、カイワレとネギで和えたもの。今年は冬が寒すぎて九条ネギがないのが残念。しかし、味はなかなかいい。

次にすき焼きなべに鴨の脂身が入ったものが登場。火を付けるといい具合に鴨の脂が溶け出してくる。これに鴨の身とネギを入れて行くのだが、自分で調理するのもいい。


やや、脂が跳ねるが紙エプロンで応戦。脂の部分はこんがり、身はあまり焼きすぎないよう配慮しながら食べる。薬味に大分産の塩漬け生胡椒やヘベスという宮崎産の柑橘のジュレを付ける。鴨の身は脂が乗ってもちろん美味いが、ネギもその脂を吸って甘く、絶品である。


追加の飲み物はサワーの中からヘベスサワーにする。ヘベスとは『平兵衛酢』と書き、宮崎にいた長曾我部平兵衛さんが見つけて育てた柑橘類で柚子より果汁が多く、カボスより香りが良いとされている。飲むとすだちと蜜柑の間のようで爽やか。


鴨ネギ焼きの後、たっぷりと鴨の脂が残るなべに鴨の出汁を入れ、まずは鴨のすり身を入れ、火は弱めにしておく。そこにさらに山盛りの白髪ねぎと鴨のモモ肉とロース肉の薄切りが登場。白髪ねぎを入れてから肉をしゃぶしゃぶする。

鴨ネギとはよく言ったもので少し藁で燻製にしてある身は香ばしく、これに3種の香辛料(黒七味、生山椒、カンボジア産の香り高い黒胡椒)などを振りながら食べる。香辛料もそれぞれ違う趣だが、特に黒胡椒は辛味が少ないがいい香りがして旨さ倍増である。


締めは蕎麦、中華麺、雑炊が選べるが、今回は雑炊にしてみた。鴨出汁がよく聞いた卵雑炊は幾らでも食べられる旨さであった。目の前にコンロを置くため夏はやや熱いかもしれないが、この旨さならばまた来てしまいそうになる。ご馳走さま。ちなみに店の名前が長いので自ら『わらがも』で通じるようだ。


藁ウ鴨ニハ福来ル
武蔵野市吉祥寺南町2ー8ー8
05055901818

幡ヶ谷駅〜初台駅(2)

2018-02-11 05:00:08 | 日記

『鉄道シリーズ』その200。前回に続き、幡ヶ谷駅から初台駅まで歩く。戦前の京王線は甲州街道の上を走る併用軌道であったため、新宿追分を起点として省線新宿駅前〜葵橋〜新町〜天神橋〜西参道〜初台(当初は改正橋)〜幡代小学校前〜幡代〜幡ヶ谷と沢山の駅(停留所のような)が存在した。しかし、1945年5月の空襲で変電所が被災し、新宿駅の跨線橋が上がれなくなったため、ターミナルを新宿駅西口に移すとともに初台・幡ヶ谷以外は統廃合してしまったのである。


幡代小学校のそばにかんてんぱぱで有名な伊那食品工業の東京支店があり、『かんてんぱぱカフェ』を併設、寒天を使ったヘルシー料理やデザートを食べることができる。この日は『六穀すいとん五平餅』『汲み上げゆばおこげ』などアイデアに富んだランチはなかなか魅力的であった。


幡代のバス停は幡代駅があったであろう地点だが、新宿駅方向に少し歩くと最上階に富士急ハイランドの模型がある富士急行の本社ビル、さらにその先には54階建の東京オペラシティビルが見えてくる。


さらにすぐ先に初台駅の出口。ここを起点とする渋谷駅行きのバス停があり、この辺りに玉川上水に架かる改正橋があった。現在は暗渠となっており、その先は公園となっている。


初台駅前の商店街は渋谷駅方向に伸びており、バス通りでもあるため、比較的広い。周囲にはチェーン店の飲食店が立ち並ぶ。また、甲州街道を挟んで反対側に渡ると広い新国立劇場が立っていて、その横の道は1997年に新国立劇場ができた際に広げたものでオペラ通りと名付けられている。


幡ヶ谷・初台のいずれも新宿駅からわずかのところにあるが、未だに古い店の残る商店街やアパートがある一方でオペラシティーに代表される高層ビルが共存するエリア。ただ、6車線ある甲州街道と首都高速のおかげで街自体は南北に分断されてしまっている。

幡ヶ谷駅〜初台駅(1)

2018-02-10 05:00:14 | 日記

『鉄道シリーズ』その199。『私鉄の始発駅の次の駅』第11弾、今回は京王線初台駅と幡ヶ谷駅を訪ねてみた。京王線のスタートは京王の前身である京王電気鉄道が1913年笹塚〜調布の開業させたことである。

笹塚〜新宿追分が全通したのは1915年12月であり、幡ヶ谷駅は1913年11月、初台駅(開業時は改正橋)は1914年6月に開設された。

まずは幡ヶ谷駅で下車する。1978年までは通常の地上駅であったが、京王新線開通に伴い、地下駅化した。駅前には甲州街道が通っており、北口を降りると甲州街道を渡ったあたりに出る。外に出るとすぐ裏がラーメン屋やカレー屋などが並ぶ昔ながらの食堂街があり、その奥がTSUTAYA、この辺りは結構賑わっている。


甲州街道に沿って少し新宿方向に歩くと六号通り商店街が北に向かってある。

新宿駅からわずか2駅という立地ではあるが、昔ながらの小さな商店が多く、食料品店や八百屋、電器屋に見えるがディスカウントストアと書かれた店などが立ち並んでいて庶民派である。先は水道道路を通り越して栄町通りの方まで続いていてステキな店が多いが、私はその中でも水道道路の先あたりにある『ふるや古賀音庵』のみたらし団子に目がない。散歩のお供に是非。


幡ヶ谷駅前の横断歩道まで戻り、甲州街道を渡る。主要幹線では当たり前かもしれないが、6車線もある割には信号の変わるのも早く、あまり歩行者には配慮がないように感じる。駅の入口横を左折して細い歩道を歩くと『渋谷区立幡ヶ谷駅前公園』となるが、この土地は地上に駅があった頃は駅であったようだ。たぶん線路跡と思われる細長い公園を歩くが、やはり地下には京王線が通っているようで、通風孔からは時折電車の通過する音を聞くことができる。



(以下、次回)

冬季オリンピック雑感

2018-02-09 05:00:32 | 日記

いよいよ平昌オリンピックが8日に始まった。開会式は9日夜なのにその前日から始まるのは夏季大会と同様の傾向なのだろうか。しかし、この平昌大会はなんとなく盛り上がらず、北朝鮮の応援団の話ばかりが報道されている。

冬季オリンピックが始まったのは1924年シャモニー・モンブラン大会。日本は1928年第2回サンモリッツ(スイス)に参加したのが最初である。最初はスキーノルディックに6人が参加しただけでシベリア鉄道に乗って行き、残念ながら予選で全員敗退した。夏季大会の方は1912年ストックホルム大会が初参加だから16年遅れている。しかも世界とは技術だけでなくスキー板の材質やワックス知識もなく、世界レベルで戦うのは時期尚早であったのかもしれない。
それでも1932年レークプラシッド(アメリカ)大会ではスキージャンプで8位入賞、1936年ガルミッシュ・バルテンキルヘン(ドイツ)大会ではジャンプで7位入賞、スピードスケートでも500mで石原省三が4位入賞と盛り上がった。ただ、1940年は札幌市でオリンピック開催が決まっていたが、第二次大戦で返上、この後は長いブランクを余儀なくされることになる。

では冬季オリンピックでの初メダルはあまりに有名だから知っている人も多い。1956年のコルティナダンベッツォ大会でアルペンスキー男子回転で猪谷千春はトニーザイラーには敗れためのの銀メダルを獲得、この事実は日本だけでなく欧州以外の選手がアルペンでメダルを初めて獲得するという大快挙であった。さらにその後70年近く経過しているが、日本はアルペン種目でその後にメダルを獲得したことがないのである。

初の金メダルはもちろんあの有名な1972年札幌大会のスキー70m純ジャンプ笠谷幸生である。この時は銀・銅も日本勢で表彰台を独占という快挙であった。しかし、この大会もメダルはこれだけということはあまり知られていない。
一方、スケートは徐々にスピードスケート短距離を中心に実力を付けてきて、1984年カルガリー大会では黒岩彰にメダルの期待が高まった。ただ、今からは信じられないが、カルガリーは屋外リンクで雪が降り続く悪コンディション、長い間待たされ、さらにアウトスタート、残念ながら黒岩選手は10位に終わった。しかし、伏兵だったのが、北沢欣浩、当時法政大学の学生であったが、500mで見事2位に入り、これがスケートでは初メダルとなった。私も夜中の1時にラジオ放送でこの実況を聞いていたのだが、興奮した思い出がある。

今ではスケートは屋内リンクに変わり、コンディションの問題はないが、常に金メダル候補と言われながら中々本番で金メダルが取れなかったアメリカのダン・ジャンセン、2002年ソルトレーク大会でわずかに8歩走り始めたところで躓いたカナダのウォザースプーン、とかく前評判通りに行かないのが冬季オリンピック。さらにスキーは風や温度、雪質などにも左右される。是非運も味方につけて日本勢の活躍を期待したい。