映画「私、オルガ・ヘプナロヴァー」を観た。
ワクワクもハラハラもドキドキもなく、重苦しいシーンがモノクロで映される。楽しいシーンが皆無で、意味不明なシーンや辛いシーンの連続なのに、何故か見入ってしまう不思議な作品だ。それはかつて誰もが味わってきた青春の苦痛がさらけ出されているからかもしれない。
自意識の目覚めを経過して、自分が世界の中心でないことに気づくと、自己肯定感が薄れ、自己憐憫と自己否定の日々が続く。青春は苦しい。食欲や性欲の充足の時間が束の間の幸福の時間である。人生は幸福な時間と不幸な時間と、何でもない時間の不連続な組合せである。不幸な時間も、慣れてしまえば何でもない時間になる。逆も同じだ。酒池肉林の日々も慣れてしまえば何でもない時間になるし、圧政下の日々もやがて何でもない日々になるかもしれない。幸福のハードルは時と場合と人によって、高くも低くもなる。
人間は存在するだけで一定の価値を認めなければならないが、人生には必ずしも価値があるかどうか分からない。価値観の相対化である。自分自身についても相対化できるかどうかで、青春の苦痛から脱却できるかどうかが決まってくる。
自分の人生を相対化できないと、世の中が自分を貶めているのではないかと一方的な被害妄想を描くことになる。そうして他人の存在を否定することになる。暴力や殺人に至る精神性だ。オルガの言動は、そんな自分の精神性までも社会のせいにしているところがある。やたらにタバコを吸うのも、そういう時代だったというだけでなく、自分の殻に閉じこもろうとする彼女の未熟な精神性の表れだ。
自分の人生だけでなく、社会全体、人類全体を相対化して心を自由にすることが、人生を楽にするのだが、オルガはそこに気づかないままだった。しかしオルガの言う通り、予備軍はいまでも世の中にたくさん存在していると思う。銃乱射事件や無差別殺人事件が、自由で民主的な国であるはずのアメリカで最も多く起きていることは、オルガの示唆が意味するところのある種の正しさの証左なのかもしれない。