映画「Tar」を観た。
音楽と饒舌に満ちた作品である。主人公リディア・ターは音楽至上主義でプライドが高いけれども、すべてを相対化して捉えたりもするし、世間的な価値観に流されたりもする。対人関係はおしなべて強気だが、親しい者には弱い部分もあるという複雑な人格の持ち主だ。
その才能故に、自分にも他人にも妥協を許さない。原曲に忠実であろうとすると同時に、表現においては独創性を追求する。オーケストラにもそれを要求する。指揮者はときとして畏れられるリーダーにもなるし、侮られたらピエロにもなる。リディアは精一杯の威厳をもってリハーサルに臨む。決してピエロにはならない覚悟だ。どっしりとした人格ではあるが、人間だから弱さはある。しかし自分の弱さを認めるつもりはない。なんともややこしい人物である。この難役をケイト・ブランシェットは呼吸でもするかのように簡単に演じ切った。凄い演技力だ。
当方もときどきクラシックコンサートに出かける。音楽至上主義ではないが、ヨハン・セバスチャン・バッハを、その人物像を根拠に否定する人がいたら、違和感を覚えると思う。バッハの人格とバッハの音楽は別物だ。小説と小説家が違うのと同じである。芸術家はあくまで作品で評価されなければならない。リディアがバッハを主義主張の面から否定する学生に苛立ったのは当然だ。
リディアは多才な人の例に漏れず、多くの人と接して、たくさんの話をする。殆どが音楽の話だが、音楽を崇める度が過ぎて、他人の人格を否定する場面もある。これも多才な人の特徴である。ある意味でモンスターだ。他人が自分のことをどう言っているのかについては、敢えて関心を持たないようにしている。自分の弱さが露呈してしまわないためだ。
しかしネットおよびSNSの時代である。有名人になれば批判もやっかみもあるし、周囲の悪意もある。指揮者といえども人気商売だ。大抵の人は指揮者の優劣などわかりもせず、ただ評判の良し悪しや有名無名で判断する。評判のいい有名な指揮者やオーケストラのコンサートには高い金を惜しまないが、無名な指揮者やオーケストラには見向きもしない。リディアの人気も、ある意味で作り上げられたものだ。クラシックが商業主義に乗っかっているところに、リディアの不幸がある。音楽界は未だに開かれた世界とは言い難いのだ。
リディア・カーは、尊敬する先人としてアントニア・ブリコの名前を挙げる。2018年製作の映画「The Conductor」(邦題「レディ・マエストロ」=2019年日本公開)で取り上げられた女性指揮者のパイオニアである。リディアにとって現代はアントニアの時代よりも恵まれていて、女性指揮者に対する偏見は少ない。
しかし指揮だけではなく音楽の指導的役割を担うとなると、反発を覚える差別主義者はいまだに多い。若い男子学生は今なお「Fucking bitch」などという言葉を使うのだ。リディアはそんな連中を上手く躱そうとするのではなく、正面から体当たりしていく。しかし蹴散らすにも限界がある。彼女の戦いは必然的に悲壮なものとなる。それでもその生き方は見事だった。