映画「MEMORY メモリー」を観た。
意外に面白かった。映画紹介サイトでは、痴呆症を発症した殺し屋が、かねてから断ってきた子供殺しを依頼してきた組織と対決するという話で、それだけなら殺し屋がピンチをくぐり抜けて大団円に至る展開しか浮かばない。しかし鑑賞してみると、殺し屋の動きを追う一方で、権力中枢の妨害に遭いながらも真実に迫っていくFBIのエージェントのストーリーが並行していて、その両輪が収斂していくという組み立てに奥行きと立体感があった。
一方で組織には組織の論理がある。殺し屋に安楽な隠居生活は許されない。簡単に引退できると思ったら大間違いだ。殺し屋アレックスはそのことを思い知らされると同時に、自分の身に始末屋が迫っていることを知る。
それから先は一本道で、同じ場所を時間差でアレックスとFBIが通り過ぎる展開は、王道だがスリリングだ。FBIエージェントたちの権力者に対する確執のエピソードもいい。モニカ・ベルッチのダヴァナ・シールマンもラスボスとしての貫禄十分だ。
権力に阿る警察とFBIの構造的な腐敗は手つかずのままだが、それは仕方のない話だ。権力組織は必ず腐っていくもので、自浄作用は期待できない。命令をする立場の人間が人事権も握っているからだ。かといって命令系統と人事系統を分離するのは相当に困難だ。巨視的で未来を展望ができる上司が公平で効率的な人事を行なうというのは極めて稀であり、大抵は保身と既得権益だけの小役人が好き嫌いで贔屓の人事をしているのが現実である。日本でも内閣人事局が発足して官僚の人事を官邸が主導するようになってから、官僚の倫理観の凋落が始まった。
弱い人の怒りを代弁するエージェントと、力のある者にすり寄る上司。この構造はアレックスが怒りを覚える組織の構造と同じだ。つまり善でも悪でも、組織は権力者が牛耳って、弱い人間が割を食う点は同じなのだ。
本作品は蹂躙される側の論理を権力側と対決させるという点で、他の殺し屋映画とは一線を画している。孤軍奮闘の殺し屋を演じたリーアム・ニーソンは存在感が抜群で、作品全体の重さを増している。とてもよかった。