映画「セールス・ガールの考現学」を観た。
両親に言われた通り、社会の通念通りになんとなく生きてきた女の子が、大人のオモチャの店番をしながらオーナーのマダムと触れ合うことで少しだけ成長する話で、セックスショップという舞台を除けば、ありふれた物語である。
映画としては少し退屈だ。ストーリーはまったりしていて、同じシーンを延々と映すような意味不明の長回しがある。8ビートだか16ビートだかの耳障りな音楽も苦痛だ。
マダムが語る人生論は底が浅くて何も響かない。ドストエフスキーがサディストだとマダムは言うが、ドストエフスキーの小説を読めば、彼がマゾヒストであることはすぐに分かる。
フェラチオをしたことがない女は男を失うというのも極論だ。では超テクニシャンの男は女を失わないのか。答えは、繋ぎ留める場合もあるし、失う場合もある。セックスは人生に重要な位置を占めるが、しなくても死にはしない。人間はパンのみにて生きるに非ずというが、セックスで生きている訳でもない。
見どころがまったくないこともない。それはセックスショップで働き始めてから、野暮ったかった主人公サロールの見た目が垢抜けていくところだ。見た目が変われば中身も変わる。鏡を見ながら、自分は何がしたいのか。世の中の人々は何をしたいのか。それまでに漠然と思っていたことが漸く形や言葉になっていく。世界観の創出のはじまりだ。
それにしても長く感じた。成長するのに時間がかかるのであれば年月の経過を早くすればよかった気がする。